───『エドワード・スミスは泥棒だ』ってね。
その日の夜、サヨは吉木の言った言葉が忘れられず、ぼんやりとエドワードからもらったあのコンパクトミラーを見つめていた。
ヒイラギの屋敷にある使用人用の部屋でサヨは寝起きをしている。
その部屋に元々備え付けられていた簡易ベッドの上に転がりながら、サヨは手の平にあるコンパクトミラーをくるくると回してみせた。
小さな薔薇の花の装飾と散りばめられたビーズのような色ガラスが何とも可愛らしい。
あまり詳しくはないのだが、おそらくアンティークのものだろう。
コンパクトミラーをぱかりと開けば、丸いミラーにサヨの顔が映った。
(吉木さん、エドワードさんのことを泥棒って言ってた。あれはどういう意味なんだろう。そのままの意味なのかな。もしかしたらこのコンパクトミラーも、エドワードさんがどこからか盗んできたものだったりして)
それともあれは単に吉木の冗談だったのかもしれない。
サヨと話す上でエドワードの噂話を誇張に表現した可能性もあるのだ。
(でも吉木さんってそんな風に話す人だったのかな?)
サヨはこれまでの吉木と最近出会う吉木にどうも違和感を感じていた。
吉木に対して持っていた印象と少しずれているような気がしたのだが、何だかんだ彼女は彼のプライベートを知らない。
そのために彼のふとした違和感はサヨの知らない吉木の一面なのかもしれない、と思った。
そうぼんやりと考え事をしながら手の中のコンパクトミラーを見つめていると、サヨは不意に気付いた。
コンパクトミラーにはめ込まれた鏡を手の平で押すと、僅かにへこむ。
一瞬、力を込めすぎて鏡が歪んでしまったのかと慌てたがそうではない。指先で押すとボタンのように鏡が動くのだ。
「あれ……」
はめ込み式の鏡なのだろうか。
大切に扱わなければならないと思い指を引っ込め、鏡に付いた指紋を拭き取る。
しかし不意に吉木の言葉が頭に蘇った。
───エドワードって人、あんまり良い噂聞かないから。
───何かあってからじゃ遅いからね。
そしてエドワードからもらったコンパクトミラーを見つめる。
思えば不自然なところは多々あった。
ヒイラギからサヨの話を聞いているとは言え初対面だというのこんな簡単に物をプレゼントしたり、あんな風に距離を縮めて話したりするものだろうか。
それにエドワードはヒイラギが預かり物を取りに行っている際に一人でサヨのいる台所まで来た。
初めて来た客人が居間を出て屋敷を自由に動いたりするものなのだろうか。
全てサヨの気のせいかもしれない。ほんの些細な違和感なのだが、エドワードのその行動や吉木の言葉に灰のように不信感が募る。
このコンパクトミラーにも何か秘密でもあるのだろうか。
(はめ込み式の鏡だから、取り外してもまた元に戻せるよね)
サヨは自分にそう言い聞かせ、ぎゅっと強く指先で鏡を押した。
するとカチリと鏡から音がした。
コンパクトミラーの鏡がゆっくりと取り外される。
そして隙間から、ぽとりと折りたたまれた小さな紙か落ちてきた。
「えっ」
一瞬何が出てきたのか分からず、サヨは驚いてコンパクトミラーから手を離してしまう。
コンパクトミラーの本体と取り外された丸い鏡、そして小さな紙切れがベッドの上に落ちていった。
(なんだろう、これ)
折りたたまれた紙切れを手にして広げてみる。
このコンパクトミラーの商品説明書や何かかと思いながら見てみると、そこには不可思議な文字が書かれてあった。
文字と言ってもサヨにとっては読むことのできない『点字』のような黒い点の連なりがずらりと並んである。
(何て書いてあるんだろう。というかこれって何だろう。点字とかでもなさそうだし……)
そもそもこの時代に点字があるのかサヨには分からないし、点字であるならば黒い点が浮き出なければならないだろう。
小さく折りたたまれた紙にぎっしりと書かれた『それ』は一見蟻の行列にも見えた。
(映画でよく見る暗号文みたい)
平成時代にいた頃に探偵物やスパイ物のアクション映画で見かけるそれと似ている気がする。
そして広げていたその紙を見つめ、サヨは再び吉木のあの言葉を思い出した。
───『エドワード・スミスは泥棒だ』ってね。
「まさかね」
そして彼女は一瞬よぎった一つの可能性にいやいやと苦笑した。
ただの冗談だとかどうせ女を横取りしただとか、そういった意味であのような比喩を吉木は使ったのだと思っていた。
しかしこのコンパクトミラーに隠されたこの紙切れやエドワードへの違和感、そして吉木の言葉からサヨは一つの想像が浮かんだ。
───実はエドワード・スミスは英国から来た泥棒で、どこからかは分からないがさながら怪盗のように金庫から秘密文書であるこの暗号文を盗んだのだ!
(それでコンパクトミラーに隠して、私に渡して自分の手元に置かないとか)
そこまでサヨは考えると、自然と笑みがこぼれてくる。
そんな話、そうそうある訳ないのに彼女はあまりの現実離れした想像に苦笑してしまった。
(でもこれ、本当に何の紙なんだろう)
サヨにはさっぱり見当が付かないその紙の正体に首を傾げる。
そしてやはり、未だにサヨの中でエドワードに対して得体の知れない気持ちの悪さは残っていた。
以前は何となく聞けなかったのだが、あの言葉の意味を吉木に聞こうとサヨは思った。
◆◇◆
翌日、家事も済ませ午後から郵便局に手紙を出しにいくついでに吉木に会いに行こうと準備をしていると、屋敷のベルの音が響いたのが聞こえた。
来客だろうかと思いとりあえずコンパクトミラーと紙切れをエプロンのポケットに入れてサヨが一階へ降りれば、玄関先ではなんとエドワードの姿があった。
その隣にはヒイラギもいて彼女もエドワードの突然の来訪に驚いたのか、扉を開けたまま目を丸くしていた。
「悪いね。こんな朝早くに。実は今夜に本国へ戻ることが決まってね。最後だからヒイラギに挨拶したくて来てしまったんだ」
エドワードがそう言うと、ヒイラギはますます驚いて「え!」と声をあげた。
「今夜って随分急じゃない!何かあったの?」
「ちょっと会社の都合でね。向こうでトラブルがあったみたいだから急遽呼ばれたんだよ」
「そう……。餞別に何か贈りたいけれど、何があったかしら」
ヒイラギが慌てて部屋へ戻ろうとするのを見て、サヨはようやく我にかえり彼らの元へ向かった。
「ヒイラギさん、私が取りに行きましょうか?」
エドワードに軽く会釈して慌てるヒイラギに話しかければ彼女はサヨを見て頷いた。
「そうねえ。悪いけど取りに行ってもらえない?何が良いかしら。新品の万年筆とか、それとも日本独特のものが良いかしら……」
そう言って悩み出すヒイラギにエドワードは笑い出す。
「いいよ!ヒイラギ!ただ挨拶に来ただけだから何も餞別なんていらないよ。君の顔が見たかったから会いに来ただけで」
「そう?悪いわね……。それならまだ時間はある?手紙だけでも書きたいのよ」
ヒイラギがそう聞けば彼は「あぁ」と頷いた。
「三十分くらいなら大丈夫かな。でも本当に気にしなくていいのに」
「あなたにはたくさんお世話になったもの。サヨちゃん、エドワードを客間に案内してあげてくれる?」
それにサヨが頷けば、彼女はぱたぱたと自室に戻っていった。
「久しぶりだね。サヨ」
声をかけるエドワードにサヨは笑って返し客間に案内する。
そしてお茶を入れて戻って来ればエドワードはあの時と違ってきちんとソファに座って待っていた。
「そういえばあのコンパクトミラーはまだ持ってるかな?」
するとエドワードは何とでもないように例のコンパクトミラーについて話し出す。
サヨはあれだけ悶々と悩んでいただけにあまりのエドワードの気軽さに一瞬呆然としてしまった。
「は、はい。あの、私、その事についてお話しがあるのですが………」
サヨがそう口を開くと、エドワードが「ん?」と興味深そうに彼女の顔を覗き込む。
「やっぱりあのコンパクトミラー、お返しします。私には不相応のものだと思いますし……」
以前から考えていたことを正直にエドワードに話す。
とても失礼な言い方をしてしまったかもしれないと、おそるおそるサヨは彼の顔を見ればエドワードは少し苦笑するだけだった。
「あの、せっかく頂いたのに申し訳ありません」
「いや、僕も強引に渡しちゃったからね。それに実はそう言われて助かったんだ」
エドワードのその言葉にサヨが首を傾げれば、彼は困ったように笑いながら話し出した。
「本当に申し訳ないんだが、実はあのコンパクトミラーはうちの会社で扱ってる商品の内の1つだったんだよ。何故か僕の所に紛れていたらしくてね」
それに対してサヨは「それじゃあ」とエプロンのポケットからハンカチに包まれたコンパクトミラーを取り出す。
「ありがとう」
エドワードがハンカチからコンパクトミラーを外して確認した。
コンパクトミラーを開けてはめ込まれた鏡も見る。そして傷一つ付いていないことを見るとスーツの内ポケットにしまう。
「こんなことを言うのもなんだが、君なら嫌がらず返してくれると思ったよ」
「え?」
そう聞き返せば、彼は何とでもないような顔をして言った。
「君なら言うことを聞いてくれる気がしてね」
サヨはその言葉を聞き、エドワードをじっと見つめた。
すると客間の扉ががちゃりと開く。
振り向けば手紙を手にしたヒイラギが立っていた。
「お待たせ。遅くなっちゃってごめんなさいね」
そしてヒイラギはエドワードに手紙を渡す。
「はい。短い間だったけど、楽しかったわ。今までありがとう、エドワード」
そう言って彼女は少しだけ寂しそうな顔をして笑った。
「そうだ。何時の船に乗って行くの?見送りにいくわよ」
「今夜の八時だが……。でもそういえば君、今日は舞台の仲間と用事があるんだろう?」
「いいわ。みんなにはこれからも毎日会えるし」
「いや、悪いよ。それにきっと用事っていうのは君が演出をする舞台が本格的に動き出す前祝いだろう?舞台仲間からこっそり聞いたよ」
エドワードのその言葉にヒイラギが言い淀む。
確かに今夜、ヒイラギの演出する舞台の前祝いがあった。
エドワードが彼女に対して明るく言う。
「気持ちだけでももらっとくよ。ありがとう」
そしてエドワードはヒイラギの屋敷を去っていった。
◆◇◆
「…………どうしよう」
予定通り、郵便局に行ったついでにサヨは吉木の下へ行こうと屋敷を出た。
もうすでに夕方なため辺りは少しばかり暗い。
そしてエプロンのポケットの中からかさりという音がし、彼女がなんとなしに手を突っ込めばコンパクトミラーに入っていたはずの例の紙がそこにはあった。
(どうしよう。紙のこと、完全に忘れてた)
吉木に相談する時に必要かと思い、あらかじめコンパクトミラーと紙を別々に分けておいたのだ。
しかしエドワードが急に来たこともあり驚いて、サヨはそのままコンパクトミラーを渡してしまった。
けれどそこでふと思う。この紙の正体がエドワードにとって説明書などの重要なものならば、彼はコンパクトミラーを確認した時に鏡を外して紙が挟まっているか見るはずだ。
貿易商で商品を扱っている人間ならば尚更。
けれどそうせず、そのまま持ち帰ったという事は彼自身この紙のことを知らなかったかもしれない。
アンティークもののようだったから前の持ち主が内緒で隠しただけのいたずらにも思える。
(それとも、私に知られると不味いものだったのかもしれない)
何にせよ、エドワードのことを知らないとどうしようもない。
もしこれがサヨに見られて不味いものならば正直にエドワードに渡すのも危険だろう。
兎にも角にも吉木にあの『泥棒』という言葉の意味やエドワードの人となりをもっと知ってからどうするか決めようとサヨは思った。
幸いエドワードが今夜日本を発つのを知っている。
この紙をエドワードに返すとなった場合、彼が乗る船の時間も帰り際に聞いたため、それまでに渡せばいい。
───しかし菓子屋に行ってみれば生憎、吉木は休みを取っているらしかった。
「というより、吉木はもうここには来ないよ。実家を継ぐらしくて地方に帰ったんだ。薄情な奴だよな。仲良くしてた君にも何も言わないなんて」
店番をしていた若い店員が呆れながらサヨに言う。
それに対してサヨは驚いて目を丸くした。
あまりの呆気ない吉木との別れに悲しみが沸く以前に呆然としてしまった。
「えぇ……」
「悪いね。せっかく来てもらったのに」
「いえ。私こそ、何も考えず来ちゃってすみません。今度はちゃんと買い物をしに来ますので」
慌ててそう言えば、店員の男が「気にしなくていいよ」と笑った。
吉木から実家に戻るだなんて話は一度も聞いたことがなかったため、サヨは少しばかりショックを受ける。
(一言くらい言ってくれそうな人なのになあ)
やはりどこか吉木に対してサヨは違和感が拭えなかった。
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