店を後にしたサヨは呆然としながら薄暗い街を歩く。
もう日は沈み、ちかちかと街灯に明かりが灯っていた。
ヒイラギは今日は舞台の仲間たちと夕食に出掛けているため、早々屋敷に戻る必要はない。
しかしどうしようかとポケットに入った紙に触れてサヨはため息をついた。
(自業自得なんだけど、色々考え込まなきゃよかったなあ。今からでも間に合うし、エドワードさんにこの紙を渡しに行こう。そもそも思い直してみれば、吉木さんも深い意味でエドワードさんの噂を私に言った訳じゃないと思うし)
エドワードに対しての不信感はやはりどこか拭いきれないものの、やはりと思い直しサヨは港へ足を運びだす。
時計塔を見れば針は十六時を指していた。今から行けば十九時には港へ着くと、サヨは頭の中で考える。
───それにしてもこの紙は本当に何なのだろう。
薄暗くなっていく道を歩きながら、サヨはぼんやりとそう思った。
暗号文みたいなそれに対し彼女は妙に嫌な予感がした。
これがきちんとした言葉で書かれているのならばそこまで思いつめなかっただろう。
しかしサヨの耳に入ったエドワードの噂や、ふとした瞬間に感じるエドワードへの違和感に無条件に信じることが出来ない。
信じることが出来ないと言えば、サヨは最近の『吉木』に対しても違和感が拭いきれなかった。
サヨ自身うまくは言えないのだが、この違和感にここのところずっともやもやとしていた。
(そういえば、こんな時間に一人で外を出歩いたことなんてあの日以来かも)
サヨがタイムスリップしたあの日、どうすることも出来ずふらふらと当てもなく彼女は夜の街を歩いたのだ。
その時の事をふと思い出す。
橋を渡りきり、バス停にとまっていた路バスに乗り込む。
そして港に一番近い停留所を降りて少し歩けば海が近いのか、建物は無くなっていき工場などが見えてくる。
しばらくすると人気のない港町に着いた。
店はもうすでにしまっており、住宅も明かりは点いていない。
おそらくこの港町の住人達は今夜出航する英国行きの船の見送りに出っ払っているのだろう。
ぽつぽつと並ぶ街灯の明かりを頼りに船着き場へ急ぐ。
辺りはもう人もおらず、港の方面から人のざわめきがうっすらと聞こえてきた。
サヨは顔を上げ、そちらを見ればぼんやりとした黄色い明かりが向こうで灯り辺りを照らしているようだった。
やはりみんな、あそこにいるのだろう。
人のいない心細さからサヨの足が自然と早くなる。
しかしその時、彼女の後ろからこつりと足音が聞こえた。
自分と同じく港の船着き場に行こうとする人が他にもいるのかもしれない。
けれど段々速まっていく後ろの足音の不自然さにサヨは気味の悪さを覚えた。
(なんか、怖い)
いつの間にかサヨは走り出していた。
熱くもないのに汗が流れて、背中がひやりとする。
そして後ろを歩いていたはずの足音の人物も何故か走り出していた。
間違いなく、その人物はサヨを狙っていたのだ。
その気配がサヨのすぐ後ろまで近づいてきた時、彼女は耐えきれず勢いよく後ろを振り返る。
「え………!」
そこにはサヨに向かって腕を振り上げたエドワードの姿があった。
街灯の明かりで振り上げた腕の先に持つ何かが一瞬光る。
はっとしてその腕を避けて距離を取れば、サヨはエドワードの持つものが注射器だとはっきりと分かった。
「エドワードさん!!」
彼女が叫べばエドワードは淡々と話し出した。
「コンパクトミラーの中にあったあの紙はどこにあるんだい?」
サヨを突如襲った先程の行動と打って変わって極めて冷静に尋ねてくるエドワードに恐怖する。
何で、どうして、とサヨは何度も思い泣きそうにながら言った。
「ここにあります。そんなに大事なものだったなんて、知らなくて。私、これをエドワードさんに届けようと思ってて」
そして謝ろうと再び口を開けば、エドワードは今まで聞いたことのない冷たい声音でサヨに言い放った。
「これを見つけた時点でもう駄目なんだよ」
そしてあまりの恐怖に身をすくませるサヨの腕をひねり上げ、地面に押し倒す。
エドワードが片手でサヨの胸倉を掴み、もう片方の手で持っていた注射器を彼女に向けて振り下ろした。
しかし咄嗟にサヨはその振り下ろされた手を掴んだ。
注射器が、すぐ目の前まである。
「じゃあ何で私にコンパクトミラーを渡したんですか!」
振り下ろされた注射器を持った手をサヨは震える両手で抑える。しかし大の男に対していつまで保つかは分からない。
サヨは周辺に誰か人がいるかもしれないと思い、一縷の望みをかけてなるべく大声で叫んだ。
「ちょっと疑われていてね。僕の周辺に隠していても危険だから無関係の君に隠れ蓑のつもりで渡したんだよ。君はおそらく良いとこの出だろう?物を粗末に扱うような子じゃないと思っていたんだが、見当違いだったみたいだね」
見られるほど不味いものとは一体何なのか。
身が竦んでしまいうまく動くことが出来ないが、唯一自由である足にサヨは力を込めた。
そして勢いよく、エドワードの腹を蹴り上げた。
油断していたエドワードが苦しげに顔を歪ませる。彼女の胸倉を掴んでいた手の力が一瞬緩んだ。
その隙をついてサヨは注射器を掴むエドワードの腕を両手で横に流し、猫のように身を捻じ曲げて彼の体から這いずり駆け出した。
「待て!!」
全速力で走り出すサヨの背後からエドワードの鋭い叫び声が響く。
(怖い!)
そして隠れるように建物の角を曲がる。
どこかの店や住宅に逃げ込もうかと思うが、どこも店を閉じている上に家々には明かりが点いていない。
試しに戸を叩いて助けを求めても誰も出ることはなかった。
そして大通りを歩くとすぐに見つかってしまうと思い、サヨは路地裏を走り出す。
いつの間にか彼女の目からは涙が溢れていた。
後ろからは不自然なほど物音がしない。先程までに聞こえていたエドワードの足音も聞こえない。
それがサヨには反対に怖くて仕方がなかった。
(まさか足音消してたりするのかな。私のこと、確実に殺せると思ってたからさっきはわざとあんな聞こえるようにしてたりとか)
そう考えれば、ますますエドワードに対して恐怖がわく。ともかくこのままでは間違いなく彼に殺されてしまう。
サヨは正常な判断ができず、右往左往しながら足を動かした。
「あっ」
そして気が付けば、サヨは自分がどこにいるか分からなくなっていた。
路地裏ということもあり似たような景色が広がっている。おまけに辺りは街灯もなく真っ暗なため、サヨの方向感覚は完全に狂ってしまっていた。
(どうしよう。もう、本当に、どうしよう)
久しぶりに全速力で走ったものだから、体の節々も少し痛む上に息もうまく吸えない。
サヨの体が崩れ落ち彼女は建物の隅で身を抱えるようにしてうずくまった。
恐怖で体が震えてしまう。
(死んじゃうのかな、私。まだ、私を拾ってくれたヒイラギさんにろくにお礼もしてないし、もう会えないかもしれないけど、お父さんとかお母さんとか、お兄ちゃんにもう一度会いたかったのに)
その上この体はサヨのものであって、サヨのものではないのだ。
こんな元の体の持ち主の知らぬところで死んでしまってはいけないような気がした。
そしてサヨはしばらくそこに蹲り、声を殺して泣いた。
どのくらいの時間が経ったのかは分からないがサヨにとって、とてつもなく長い時間が過ぎていったような気がする。
しかしその時、サヨのすぐ近くで人の気配がした。
さっきまで気がつかなかった、突然現れたその気配に驚いて顔を上げればその人物は彼女の口を手の平で抑える。
「───静かに」
あまりの怖さに息を詰まらせ硬直する。
しかしそこにいたのはエドワードではなく、一人の憲兵だった。
「大丈夫かい?落ち着いて」
そしてもう片方の手で、サヨの頭をゆっくりと撫でる。
彼女の目に安心させるように笑う憲兵の姿が映る。
それに対して、サヨは再び大粒の涙を溢した。
何故こんなところに憲兵がいるのかは分からなかったが安心し、サヨは彼に縋り付いた。
憲兵が彼女の口を抑えていた手を放す。
そして小さな子供にするように背中を優しく叩いた。
「私、すごく怖くて。でもあの、自業自得で……。それからエドワードさんがあんな怖い人とは思わなくて!」
しゃくり上げながらサヨがぽつりぽつりと話し出す。
混乱して意味の分からない言葉の羅列を吐き出す彼女に、憲兵の男はサヨが落ち着くまでぽ優しく背中を叩いてくれた。
そして憲兵は仕方なさそうに小さく笑った後、口を開く。
「怖かったね。もう大丈夫だよ」
優しいその声音がサヨの耳に入ってくる。
しかしほっと安心したのもつかの間、サヨはこの目の前の憲兵の姿がとある人物と重なった。
その声音も、サヨを安心させようとする態度も、何となくだが馴染みのある人物と似ている気がした。
サヨがタイムスリップしてから、兄のように世話を焼いてくれたあの男のようだった。
「吉木さん………?」
サヨは体を憲兵から離し、茫然とつぶやいた。
海の冷たい風がサヨと憲兵の男の間に吹き抜ける。
憲兵は深く帽子を被っているため、表情が見えない。
(なんだろう)
いや、けれど違う。この男は吉木ではない。
それ以前に、サヨの知っている『吉木』ではなかった。
ずっとサヨの胸の中でつっかえていた違和感が駆け巡る。
しかしこの瞬間、本能的にサヨは理解したのだ。
───この目の前の憲兵は確かに吉木ではあるが、長年彼女の面倒を見ていた『吉木』ではない。
「あなたは誰なんですか………?」
するとその瞬間、サヨの首元がチクリと痛んだ。
背中を撫でていた憲兵の手にはいつの間にか針が握られている。
急に瞼が重くなり頭が正常に動かなくなるのをサヨは感じた。
朦朧とする意識の中で、サヨは必死に抗おうとする。
「大丈夫。そのまま眠っていれば、いつもの日々に戻れるよ」
この男は誰なんだろう。
そう思いながらも、サヨはついに目を閉じてしまう。
そして薄れゆく意識の中で、優しい声が聞こえてきた。
「おやすみ。サヨちゃん」
◆◇◆
あれから数日後、サヨは青色のワンピースを着てヒイラギとともに街を出掛けていた。
このワンピースは以前彼女から貰ったものだ。
「でも吉木君も薄情よねえ。何にも言わないで帰っちゃうなんて」
ヒイラギがしみじみと数日前の出来事を思い出しながら言う。
それに対し、サヨは何とも言えない気持ちで頷いた。
エドワードから逃げ謎の憲兵に助けられたあの日、いつの間にかサヨは眠っており目を覚ませばヒイラギの屋敷のベッドにいた。
自室のベッドから身を起こし目を丸くさせる。
そしてエプロンのポケットを探ればあの暗号文のようなものが書かれた紙は消えていたのだ。
もしかしたら今までの出来事は全部夢だったのかもしれない。
そう不意に思ったのだが、あの感覚は間違いなく現実で起こったものだとサヨは思い直す。
現にエドワードに押し倒された時に出来ただろう足の擦り傷が何よりの証拠だった。
するとその時、ヒイラギと並んで歩いていると、ふと前方から八人くらいの集団がこちらにやって来るのが見えた。
学生だろうか。
決して目立ちはしないが顔立ちの整った若い男達の集団が前から歩いてくる。
そして彼らとすれ違った途端、サヨは一瞬既視感を覚えた。
その集団の中で何となしに目に入った男が誰かと重なる。
ワインレッドのスーツを着た、どこかの財閥の子息を思わせる育ちの良さそうな青年に何故かサヨは目を惹かれた。
あんな知り合いはサヨの周りにはいないにも関わらず、彼女は彼とどこかで会ったような気がするのだ。
「どうしたの?サヨちゃん」
立ち止まり去りゆくその集団をじっと見つめていると、ヒイラギがぼうとするサヨに声をかける。
はっとして顔をあげれば、彼女は心配そうな顔をしてサヨを見ていた。
「………何でもないです。行きましょう。ヒイラギさん」
慌ててそう言えばヒイラギは首を傾げた後、苦笑して「行きましょうか」と朗らかに言う。
サヨもそんなヒイラギの穏やかな顔を見つめ歩き始めた。
そしてサヨは気になってもう一度振り返る。
しかしそこにはすでにあの集団は居らず、サヨにとって馴染み深くなってしまった昭和初期の古い街並みが広がっていた。
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