舞台稽古の休日に、ヒイラギはある男と待ち合わせをしていた。
待ち合わせ場所として映画館の前にいるが、相手は決して恋人ではない。
すると少し離れた場所から、ヒイラギを呼ぶ声が聞こえた。
うつむいていた顔を上げると車道を挟んだ向かいの通りに約束をした男が手を振って彼女を見ていた。
ヒイラギもその男に愛想よく手を振り返せば、彼は車のいない内に車道をまたいでこちらにやって来る。
「お久しぶりです。ヒイラギさん。吃驚しましたよ。まさか貴方のような方からお声が掛かるなんて」
そう言って嬉しそうな顔をして笑いかけてくる男は『橘』という。
涼しげな目元に綺麗な顔立ちをした彼はごくごく普通の好青年のようだが、実は警察官であった。
彼の上司がヒイラギの盲目的なファンであり、たまたま舞台に橘を連れて行ったことから彼女は知り合ったのだ。
その時にその上司の男から橘を紹介されたのだが、若い警官の中で、一際仕事のできる男らしい。
そしてヒイラギが橘に近づいて、小さな声で話し出す。
「ちょっと相談したい事があってね。事が事だから貴方の上司に話した方が本当は良いかもしれないんだけど………。ほら、あの人って根が真っ直ぐ過ぎるところがあるじゃない?だから一般人のふりして来てほしいって言ったら気負っちゃうと思って」
そう困ったようにヒイラギが笑えば、橘も自分の、あの嘘をつくことができない真面目すぎる上司を思い出して苦笑した。
それからヒイラギはするりと橘の腕に手を回し、二人はゆっくりと街を歩き出した。
その姿はどこからどう見ても美しい女性と若い男の恋仲同士に見える。
そしてヒイラギは周囲の様子をさりげなく見渡してから、小さな声で橘に言った。
「実は、私の所で雇っている女中の子の話なんだけど………」
その言葉から始まり、彼女は女中の少女『金井サヨ』のことや自身の身に起こったことを橘に話し出した。
そしてここ数日、ヒイラギが独自で調べたことも掻い摘んで彼に伝えた。
サヨの身元があの財閥であるためそう表立っては動けなかったのだが、ヒイラギの顔の広さは財界から軍にまで至る所に及ぶ。
それを利用し彼女は目立たない程度に情報を集めてみたのだが、どうやら彼らはサヨのことを引き取ろうとなどしてはいないらしい。
それどころか今では、サヨのことを何一つ思い出そうともせず、一族の汚点として彼女を忘れようとさえしているようだ。
しかし喫茶で出会った男は確かにヒイラギに向かって『サヨの身内から依頼された者』だと言った。
それに対し、ヒイラギは違和感を覚えたのだが、それ以上聞き出すことも出来ず手詰まりになってしまったわけだ。
「そこが分からないのよ。最初はあの一族がサヨちゃんを引き取ろうとしてると思っていたから。………それに結局、あの男に依頼してきた人間も誰なのかは分からなかったし………」
はあ、とヒイラギは項垂れて溜息を吐く。
橘はそんな彼女にあることを尋ねた。
「ちなみにこのことはサヨって子は知ってるんですか?」
するとヒイラギは首を振る。
「言ってないわ。身内についてどう思っているのか聞こうと思ったけど、それも何だか聞けなくて。それにもしあの子に言ったら私に申し訳ないとか思って飛び出して行っちゃいそうなのよね」
「大事にされてるんですね」
「そりゃあ、二年間きちんと働いてくれて、しかも私のことを一番に考えてくれる女の子がそばにいればね」
くすりと笑いながら言うヒイラギに橘はしみじみと納得し頷いた。
「確か『真砂屋』でしたっけ?彼女をそこには………」
「連れて行くつもりはないわ。危ないじゃない。………でも」
そう言い切ってみせたヒイラギなのだが、少しだけ表情を曇らせる。
その様子に橘は彼女が不安視していることを察した。
「そういうことなら警察に任せてください。こちらの方で対応いたしますよ」
するとヒイラギの顔がぱっと明るくなる。
最初からこの一件を警察に任せようとは思っていたものの、正直警察で取り合ってくれるか不安だったのだ。
なんせ相手はあの金井財閥の者だ。
ヒイラギは安心しきった顔で橘に礼を言う。そしてそんな彼女に対して橘は口を開いた。
「ですからヒイラギさんはくれぐれも、これ以上は動かないように。危ないんですからね」
それを聞いて彼女は苦笑しながら頷いた。
いくら女優だからとは言え、財閥相手に情報を集めるのは中々危険だということを身を以て知ったのかもしれない。
「向こう側がヒイラギさんに接触してきたということは貴方も危ないってことですからね。こちらで穏便に済ませますので、解決するまでいつも通りにしていてください」
「えぇ、分かったわ」
「あと念のために言いますが、当日になってその男の言った真砂屋へは行かないでくださいね。警察の方で向かいますし、一応貴方の屋敷にも見廻りの人員を置きますので」
そんな橘の頼もしい様子に、ヒイラギはわずかに驚く。優秀な男だとは聞いていたが、まさかここまでしてくれるとは。
「あなた、仕事が出来るって聞いてたけど、そこまで勝手に決めちゃっていいの?」
おそるおそるヒイラギがそう尋ねる。
まだこの男は優秀とは言え、警察内では若い部類に入る。そのために色々な手順を飛ばして勝手に決めてしまっても良いのだろうか。
すると橘は頷いた。
「もちろん上司に判断を仰ぎます。でもきっと、ヒイラギさんの頼みですから大丈夫ですよ」
ヒイラギの大ファンである上司を思い出し、橘はくすくすと笑う。
そして彼は涼しげな目元を細めて言った。
「それに、これでも結構融通は利く方なんで」
それを聞いてヒイラギは「あぁ、なるほど」と納得した。
そういえばこの男、身内が警察の上役だったと彼女は橘の上司が話していたのをしみじみと思い出した。
◆◇◆
翌日、サヨは街中を早足で歩いていた。
行き交う人々が不自然に思わない程度の速さで、サヨはすました顔をしながら人を避けて歩いていく。
しかし内心彼女はひどく混乱していた。
建ち並ぶ店の窓ガラスを横目で見て、サヨは自身の後ろをこっそりと確認する。
(やっぱり、あの人達、追いかけてる気がする)
どこからか常に視線は感じていたものの、その正体が分からずにいたのだが、今日になってその者達の姿をサヨは見てしまった。
煙草を吸いながら歩く黒い帽子を被った男と、ベージュのやつれたスーツの男が一定の距離を開けて付いて来ている。
それにサヨが気が付いたのは偶然そのもので。
いつも通り買い物をしに街へ出掛けようと歩いている時、情けない話が何もないところで彼女は転んでしまったのだ。
その時周囲に人影はなく、また転げ落ちた場所が丈の高い草藪の中であったため一見彼女が一瞬にして消えてしまったかのように見えた。
そして体を地面にぶつけてしまった痛みで、そのまま起き上がれずに蹲っていた時に、サヨは草藪の陰からベージュのスーツを着た男が慌てた様子で、塀の角からきょろきょろと辺りを見渡しているのが見えたのだ。
その時は「人に見られてしまったんだなあ」と思い、何事もなく立ち上がって歩き出したのだが、よくよく注意していると、その男はサヨの後ろをこっそりと付いてきた。
おまけに黒い帽子の男も行く先々で見かけては、時折そのベージュのスーツの男とアイコンタクトを取っている。
(あの人達なのかな。最近感じてた視線は。でも何で私なんか………)
いくら撒こうとしても、いつまでも付いてくる男達に恐怖を感じ、サヨは建物の角を曲がったところで走り出した。
建物と建物の間にあるその細い路地は一本道になっており、隅の方に廃材や空の板箱などが雑然と置いてある。
サヨはその一つの、薄汚い空の箱の中にするりと身を捩らせて隠れた。
するとその直後にサヨを追いかけていた男達が路地に入り込んでくる。
「逃げたか?」
「この路地を通って向こうの大通りに出たんだろ」
「尾行してるのばれたかもしれないな」
「いや、この道はあの子が近道としてよく使う場所だ。大方屋敷に帰ったんだと思う」
男達の会話を聞き、やはり自分を追いかけていたのだとサヨは確信した。
そしてそのまま去っていくかと思いきや、彼らはそこで立ち止まり壁に寄りかかった。
男達が煙草を取り出し火をつけているのが空き箱の隙間から見える。
一服するためにこの路地に留まったのだろう。
すると男達が苛ついた様子で会話しだした。
「ったく、何で俺らがガキの監視なんてしなきゃなんないんだ」
「仕方ないだろ。金井財閥の次男坊様がそう命令したんだから」
それを聞いて不意にサヨの体が固まる。
金井財閥というと、サヨのこの体の持ち主の、身内だ。
この少女の父親が財閥の会長であるため、男の口から出た『金井財閥の次男坊』とは腹違いの兄妹ということになるのだろうか。
サヨは、この体の少女が長年財閥一族からひどい扱いを受けていたということを人づてに聞いていた。
そしてその上ここ数年何の音沙汰もないことから、てっきりもう彼女と財閥の縁は切れているものだとばかり思っていたのだ。
しかし男達の口から出たその言葉に驚き、混乱してしまう。
「だが、来るんだろ?明後日八時に真砂屋に。その時ヒイラギが連れてくるらしいじゃないか」
(え?)
男からサヨの雇い主である『ヒイラギ』の名が飛び出し、彼女は一瞬声を上げそうになる。
「まぁな。でもあの女が連れてくるとは限らないだろう」
「念のためじゃないか?よく知らんが」
そして男達が「そろそろ行くか」と行って去っていく。
ざりざりと地面を気だるそうに歩く足音が段々遠ざかっていった。
あの男達が捨てていった煙草が地面の上でじりじりと小さな火を灯して煙を上げている。
それを呆然と見つめながら、サヨは空き箱の中で座り込んでいた。
おそらく彼はヒイラギの屋敷へ行ったのだろう。サヨがそこへ帰っていったと思い込んで。
(あの人達は何者なんだろう)
サヨは辺りを見渡してから、隠れていた箱の中からよろよろと立ち上がる。煙草についている火を靴の上から踏んで消した。
「どうしよう………」
サヨはその場で立ち尽くし、先程の男達の会話をゆっくりと思い出した。
金井財閥の次男坊がサヨを監視していること。
ヒイラギにサヨを連れてくるように命令したこと。
ぐるぐると彼女の頭の中でついさっき起きた出来事が何度も繰り返される。そして次々と浮かび上がる疑問にサヨは混乱してしまった。
(ずっと放置されてきたのに何で………。そもそもこれってあの財閥の総意なの?あの人達は『次男坊』って言ってた。次男の人の、個人的な理由で私を?)
ふつふつと浮かぶ疑問に嫌な汗がじわりとにじむ。
エドワードの一件とはまた違う得体の知れない恐怖が身体を蝕んだ。足に力が入らなくて座り込んでしまいそうになる。
(ヒイラギさんは、私のこと………)
どうするんだろう。
サヨは自分の雇い主を思い出した。
この時代にやって来て、最初は面倒くさそうな顔であしらわれたものの何だかんだで優しくしてくれた彼女のことを。
(このまま、あの屋敷に戻ったらどうなるんだろう)
サヨを尾行していた男達が見張っていて、財閥一族の次男と繋がりがあるかもしれないヒイラギのもとへどんな顔をして帰れば良いのか分からなかった。
サヨがタイムスリップをして、この昭和の街を当てもなく歩いていたあの時の気持ちがじわじわと蘇る。
とりあえずこの路地から出ようと歩きだしたが、足取りは重かった。
(帰りたくないけど、あの場所しか帰れる所がない。ヒイラギさん、本当は私のことが迷惑で、財閥の人に引き渡すのかな。私、いつの間にか失礼なことしてたのかな)
追いかけてきた男達や財閥の目的の真意は分からない。
何故今更サヨを連れて行こうとするのか彼女には全く見当がつかなかった。
そしてヒイラギのことを考えると、サヨはどうしようもなく胸が痛くなった。
(でも、考えてみたらそうだよね。もし私がヒイラギさんの立場だったらすごく面倒くさいし、自分の家に他人がいたら嫌だと思うし………)
ヒイラギの顔が脳裏に蘇る。
恋愛に奔放で大雑把で、けれど美しく明るい彼女をサヨはいつの間にかとても大切に思っていた。
友人や家族のような間柄では決してないけれど、サヨにとってヒイラギのことがそれくらい大事な人になっていたのだ。
(なんか、やだなあ………)
そしてふらふらとしながら大通りに出たところ、サヨは運悪く誰かとぶつかってしまい、後ろへ倒れてしまった。
「あっ」
ぶつかってしまった男の驚いた声が耳に入る。
はっとしたのもつかの間、サヨはうまく受け身を取ることが出来ず足に鋭い痛みが走った。
先程草薮に転けてしまったこともあり、気付いていなかったがじくじくと足が痛み出した。
よく見れば擦りむいている箇所が多々ある。
ぶつかってしまったのは自分であるため謝らなければと立ちあがったが、サヨはよろめいてまたもや倒れそうになる。
朝から今まで散々な出来事が起こりすぎて、サヨはもうすでに泣きそうになっていた。
するとその時、彼女の体を誰かが支えた。
「大丈夫ですか?」
上から降ってきた言葉に思わず顔をあげると、そこには身なりの良い青年がいた。
前髪を横に流した、美しい顔立ちの男だ。
「すみません。私、ぼうとしてて」
サヨは慌てて頭を下げた。
どこかで見たような青年だと頭の隅で思いながら、サヨは少しだけ奇妙な気持ちになる。
しかし先程からずきずきと感じる足の鋭い痛みに、すぐその思考は消え去った。足は捻ってはないのだが、ぴんと攣ったような痛みがする。
すると彼は、心配そうな顔をしてサヨの足元を見つめた。
「いえ、ところで足を捻ったようですが………」
「大丈夫です。足がつってしまっただけなんで。平気です」
サヨは申し訳なさから青年にすぐ様答える。
足を捻ったわけではないため、暫くすれば治るだろう。
しかし彼はそんなサヨを見て言った。
「不可抗力とはいえ、怪我をさせてしまいましたし、良ければ送りましょうか?」
彼のいきなりの提案に驚き、サヨは「え」と声を上げて驚く。
けれど彼はさも当然だというようにサヨを見てきょとんとしていた。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですのでお気になさらないでください」
「遠慮することはないんですよ」
青年はそんな呆気に取られる彼女に気が付いていないのか、親切心からかにこやかにそう言う。
しかし今、サヨの頭の中では先程の男達やヒイラギについていっぱいだったのだ。
自分からぶつかっておいて勝手なのだが、正直早くここから逃げ出して一人になりたかった。
そして何度も大丈夫だと言うサヨに対して、青年は気付かれないようこっそりと呆れたように笑った。
「相変わらず変なところで頑固ですねえ」
青年が誰にも聞こえないような声音でそう言う。
そしてやはりサヨには彼のその言葉が聞こえなかった。
彼が続けて人の良さそうな笑みを浮かべて真摯に話す。
「心配なんです。僕にも貴方と同じ年頃の妹がいるので、放っておけないんですよ」
そう言う青年に対し、それでもサヨは尚、今はとにかく一人になりたくて彼の誘いを断った。
「………いえ、平気です。ありがとうございます。本当にすみませんでした」
足の痛みがまだわずかに残るが、青年に一礼してからゆっくりとサヨは立ち去った。
そしてそんな彼女の後ろ姿を、『三好』はじっと見つめていた。
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