拝啓
秋風を感じる季節になりましたが、やはり北海道は故郷の茨城よりもとても肌寒いですね。貴方は昔から体調が悪いことを隠す癖がありますので、自分でなんとかしようとせず、お医者様にきちんと診てもらうように。
話はかわりますが、そちらはいかがでしょうか。
新聞や街の噂で、今がとても過酷な状況であることを知りました。
貴方は器用で、銃の扱いも上手く、大抵のことは何でもできてしまいますが、とても心配です。そう面と向かって言ってしまえば、きっと貴方のことですから、馬鹿にするなと鼻で笑われてしまうのでしょうね。私だって、心配くらいしますよ。
私はといえば、今は製糸工場で働いています。はじめは大変でしたが今ではもう慣れました。あたらしく友人もできたのです。
けれどやっぱり、帰って、貴方がいないのは慣れませんね。小さい頃から私たちは色々ありましたし、見合いの席では子どもみたいに喧嘩しましたが、貴方がとなりにいることが、いつのまにか当たり前のことになってしまったのかもしれません。
貴方にもう少し可愛げがあれば面と向かって言えるのですが、こういう時にしか言えませんね。反省します。
長くなってしまいましたが、最後に貴方の無事を祈っております。
それから、貴方と一緒に選んだ平屋のお家で、また二人で暮らすことを楽しみにしております。
敬具
イトからの手紙を尾形はぼんやりと読む。
幼い頃に比べたら大分気の強くなった彼女の、いけしゃあしゃあとした手紙の文面にため息を吐いた。
明治三十七年秋分。
尾形は兵宿舎内にある人気のない廊下にてそれを眺めていた。部屋で読んでも同室の奴らに口うるさく言われるだろうとここまでわざわざやって来たのだ。
「口うるせーな」
そうは言いつつも、イトのそういうところを尾形は気に入っていた。
尾形の妻は、彼の幼馴染でもある。故郷の茨城にて出会った彼女は大人しい子どもであった。自身の母のそばで怖々と尾形を見つめる姿にひどく苛立ったものである。
そしてそんなイトにいつから構うようになったのか。尾形はそれを今でもはっきりと覚えていた。
数十年前。
病んだ母への土産に猟銃で鴨を狩ったのだが、それを母にいらぬと言われて途方に暮れて歩いていたところたまたまイトに会った。
村の市に買い物に行ったのだろう。薬草の入った竹籠を背負っているのか背負われているのか分からない彼女が道すがら現れたのだ。
そして尾形の狩った鴨を見て、イトは頬を林檎のように赤くしてはしゃいだ。
『すごい!』
それに幼い尾形は目を白黒させた。尾形にとっては息をするようにできるそれを、赤の他人がこんな風に嬉しそうに褒めたことに驚いたのだ。
しかしその日、祖父母は家におらず、飯を作れるものがいない。この鴨は無駄になるだろうと空虚な気持ちでそう言えば、イトは笑みを浮かべて提案した。
『私が作ろうか?せっかく百之助君が獲ってきたんだもの。お鍋にしたらきっと美味しいよ』
そう言った幼い少女の顔が今でも忘れられない。子どもらしい膨よかな頬を赤色に染めて微笑むイトに、尾形は今まで感じたことのない胸のくすぶりを感じた。
そして母のために獲ってきたそれが、イトの小さな手に渡る。その瞬間、尾形の空虚な胸が確かに満たされていくのが分かった。
気まぐれにイトに構うようになったのはそれからだろうか。猟銃で狩った鴨を通りすがりの彼女に渡して鍋を作らせる。目の弱い祖母のかわりに、ほつれた縫い物を修繕させる。気まぐれに誘っては、狩場としている山へ連れ回す。
尾形がちょっかいをかけていく内に、イトは慣れてきたのか不満であることを隠せない顔で打てば響く鉄のように時折言い返した。あの静かな家で過ごしてきた尾形にとって、それはたまらなく面白く、そしてとても心地が良かった。
『なあ、鴨鍋を作ってくれ』
『鴨?別に良いけど………』
『今日は鴨だが、明日はあんこう鍋が食いたい』
『百之助君は本当に鍋が好きだねえ』
ふと昔の記憶を思い出す。イトは不満を顔に出すこともあれば、尾形のわがままに笑って付き合うこともあった。
幼い尾形は、自分の母に望んでいた甘い願望を幼馴染の少女に押し付けていたわけだが、それを彼女が仕方がないと言ってやってみせるものだから、母への寂しさをいつしか彼女で埋めるようになっていた。
そしてそれは尾形が自身の母を毒殺し、彼らが年頃になるまで続くことになる。
そんな彼の心情が大きく変わるのは、二人が十一歳となる春の頃。何故か、イトは自分の家から外に出ようとしなくなったのだ。
「百之助君。本当に悪いんだけど、あの子から事情を聞いてみてくれないかしら?私達には何にも教えてくれないのよねえ」
家事は細々とするものの外には一向に出ようとしない娘に、イトの母は尾形に事情を聞くよう頼んできたのだ。
昔から世話になっている彼女の家の頼みとならば断るわけもいかず、尾形は大人しくイトのもとへ向かった。
尾形が彼女のもとに顔を出すのは随分と久しぶりだ。幼い頃は嫌がらせのように何かと構っていたが、今はそれよりも山へ狩りに行くことに尾形は夢中であった。成長するにつれて身体つきが変わり、それに伴って山場で活動できる範囲が増えたのだ。
イトが引きこもっているらしい部屋へ行けば、彼女は隅の方で小さく蹲っていた。
「おい、そこで何してる」
しかし彼女は反応しない。
尾形は自身を無視するイトの両腕を無理矢理掴んで、ずるずると縁側まで引きずっていった。こんな明かりのついていない部屋にいたら、いつまでも気が滅入ったままであろう。
尾形にされるがまま縁側まで引きずられたイトは眉を下げた情けない顔で座り込む。そこで再び尾形は尋ねた。
「お前のところのおばちゃんが心配していた。いつまでもぐずぐずするな」
そう言って、尾形は話し出すのを待った。
するとしばらくして、イトは顔をあげた。自分が事情を話すまでいつまでも尾形は待つつもりかもしれないと察したのだ。尾形は変なところで気が長く面倒くさい。
そしてイトは諦めてようやく口を開いた。
「………ちょっとやな事があって」
「やな事?」
聞き返すと、イトは小さく頷く。
「最近、ここらに引っ越してきたばかりのお家があるでしょう?そこの男の子がからかってくるの。嫌な言葉を投げてきたり、じっと見つめてくるから何だろうなと思って見たら、こっち見んなって言われたり………」
はあ、とため息を吐くイトの横で尾形はふと自分の記憶を思い返す。そんな奴、果たしていただろうか。
「………百之助君、誰のことか分かってる?」
あまりぴんときていない尾形にイトは眉をひそめる。
しかしそこで尾形は彼女の言う引っ越してきたばかり少年とやらをぼんやりと思い出した。
「あのボンボンか」
最近、この地域に住む大地主のその息子家族が越してきたのだ。街でやっていた金貸し事業が失敗し、すごすごと実家に戻ってきたらしい。そんな息子夫婦の間に産まれた一人息子の悪餓鬼が彼女の指す少年であろう。
「ほっとけばいいだろ。そんなの」
「でも、毎回されると、嫌だなあって」
「お前なあ………」
今度は尾形がその発言に眉をひそめた。
幼い頃から尾形に散々振り回されておいて、ぽっとでの悪餓鬼の言動にいちいちへこたれているというのはどういうことか。
自分のことを棚にあげて尾形はそう思った。
「何でこんなことするんだろ」
「それは………」
「それは?」
「何でもねえよ」
突き放したように言えば、イトは暗い顔をしたまま俯いてしまう。
その横で尾形はその少年について思い出していた。昼は専ら山で狩りをする尾形は、たまに彼女がその少年から強く言い当たられているのを見かけていたのだ。からかっては俯いて頬を赤く染める悪餓鬼の、見ているだけで胃がむかむかするあの顔が脳裏をよぎる。
「殺してやろうか?」
「え?」
「あのクソ餓鬼を。お前がそんなに言うならやってやるよ」
そう言えば、イトは何を言われたのか理解できずぽかんと尾形を見つめていた。
それを尾形も目をそらすことなく見つめ返す。久しぶりにまじまじと見る彼女の顔に何故かひどく惹かれていた。
こいつの顔も随分変わった。尾形はふと唐突に思う。
幼子特有のふくふくとした饅頭の頬は細くなり、梅の花のように赤く色付いている。あの感情をそのまま出すだけだった正直な瞳も今では時折寂しげに影がかかり、たまに彼女が何を考えているのか分からない時がある。顔付きも表情も大分女らしくなった。
するとその瞬間、イトはぱっと笑い出した。そんな彼女に尾形は眉をひそめる。
「百之助君も、あの子と同い年でしょ。クソ餓鬼なんて、変なの」
鈴が鳴るようにころころと笑う。俯いていたイトの顔に陽があたり、それが少しばかり眩しかった。
「笑うな」
尾形自身としては冗談ではなく、イトがやれというならば本気であの悪餓鬼を猟銃で撃ってしまっても構わなかった。
「百之助君がそこまでする必要はないよ。心配してくれてありがとう」
けれどイトが可笑しそうに言う。
失礼な女だと思い、尾形はそれにすぐさま反論した。
「心配してねえよ」
「そうだよね。ごめん」
鬱蒼とした表情は消え、彼女の顔は明るい。
「もう大丈夫。私、気にしないことにする。引っ越してきたばかりで、もしかしたら寂しいだけなのかもしれないし、時間が経てばその内私に飽きるだろうから」
この様子ならば、もうイトはじめじめと引きこもるのをやめるだろう。彼女の母の頼みも聞いたことであるしお役御免だ。
尾形もこれで自分の趣味である山の散策やら狩りやらに集中できると思った。
「………………」
「どうしたの?」
「………いや」
しかし一度あの悪餓鬼の顔を思い出してしまえば、尾形の腹の煮え返りは中々おさまらない。彼女の気が済んだといっても、尾形の気は済んでいないのだ。
その後、イトは以前のように外に出るようになったが、あの少年の嫌がらせはぱたりと止んだ。顔を合わせても強く言い当たられることはなく、何故か恐ろしい顔で逃げていくものだから彼女はそれが大層不思議であった。
もしかしたら子ども達の諍いを聞いた彼の家族がきちんと叱ってくれたのかもしれない。そう思い安堵したものの、その裏で尾形が一枚絡んでいたことをイトは知る由もなかった。
尾形があの少年と、ほんの少しばかり話し合っていたことを、彼女は一生知らないであろう。
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