目を覚ませば、白い天井が視界に飛び込んできた。少しだけ首を傾けて辺りを見渡せば、どこかの病室のようだ。団体部屋なのかベッドがずらりと並んでおり白いリネンで整えられている。
 そして私は自身のベッドのすぐそばに誰かがいるのに気付いた。

「イトちゃん、起きたのね!」

 叔母だった。私が目を覚ましたことに気付き心配そうな顔で声をかけてくる。

「ここは?」
「病院よ」

 目を瞬かせてそのまま体を起こすと、叔母はほっと安堵した様子で息を吐いた。

「火事があったホテルの前で倒れていたそうよ。一体何があったか覚えてる?」

 叔母のその言葉に私はぼんやりと思い出す。ホテルから脱出しようとしたものの、家永さんに飲まされた薬と火事の煙の影響で倒れてしまったのだ。
 けれど死を覚悟したあの時から私の記憶はなかった。一体誰が私をホテルの外まで連れ出してくれたんだろう。もしかすると、あの時助けてくれた白石さんかもしれない。

 しかし深く思い出そうとすればする程、頭が針で刺されたようにずきりと痛む。
 こめかみをおさえ痛みに耐える私を見て、叔母は口を開いた。

「大丈夫?起きたばかりだから無理に思い出さなくて良いわ」

 そうして彼女は医者を呼びに、病室を出て行った。
 病室に残された私は、ベッドの上で茫然と項垂れる。自身に起きた出来事があまりにも現実味がなく実感が湧かなかった。

 叔母の呼んだ医師の検診を受け、しばらく安静するようにと言われた。
 けれどその後、その医師はううんと唸りながら申し訳なさそうな顔をして告げる。

「言ったそばから申し訳ないが、第七師団の方が君に事情聴取したいそうだ。大丈夫かい?」
「師団が、ですか?」

 師団と聞いて一瞬自身の旦那の顔が過った。
 しかしホテルの火災事故という、それだけ大きな事件があったのだ。それに家永さんのこともある。師団から取り調べを受けるのは当然だろうと思い、私は頷いた。

 そして医者と尚心配そうにする叔母が病室からいなくなり、かわりに頭に大きな額当てをつけた壮年の男とその部下であろう兵士が部屋にやって来た。
 その額当てを付けた彼のことを私はすでに知っている。

「鶴見さん」
「久しぶりだね。イトさん。今は尾形夫人と呼んだ方が良いかな?」

 百之助さんの上司であり、私と彼の見合いの席で立会人となった男だ。私には叔母が、彼には鶴見さんが付き添ったのである。
 久しぶりの再会に私は目を丸くした。

「この度は大変な目に合ったね。何があったか教えてくれないかい?」

 そう言って鶴見さんはベッド脇にある椅子に座る。部下らしき男は病室の扉の前で起立していた。

 私はそれらを確認してから頷き、ぽつりぽつりとこれまでの自分の身に起きたホテルでの出来事を話した。家永カノという女に会い、監禁されたこと。運よくそこで出会った男に助け出されたこと。それから、ホテルから逃げ出す際に気絶してしまったことを語った。

 そしてそれを黙って聞いていた鶴見さんが口を開く。

「焼けたホテルから家永の姿はなかった。おそらく奴は生きているだろうが、必ず師団で身柄を拘束することを約束しよう。だから君は安心してくれ」

 鶴見さんがじっと私を見つめて言う。額当ての間から覗く瞳が私を捉えた。
 それに思わず固まってしまう。親切であり人当たりの良い人であるが、何故か時折彼を恐ろしく感じることがあった。
 すると鶴見さんは空気を変えるかのように笑みを浮かべた。

「それより親切な男がいて本当に良かった。確か名前は、白石だったね?」

 その言葉に私ははっと我にかえる。

「はい。連れの方に事情を説明すると言ってそこで別れたのですか彼は無事なんでしょうか」

 あの後ホテルは崩壊したのだ。彼や彼の連れだという人達は無事に脱出できたのだろうか。そう思っていれば鶴見さんは口を開く。

「ホテルから逃げて来たと報告があったのは君とあと一人男性客のみだ。しかし焼け跡から遺体も発見されていない。おそらく生きてはいるがどこかうろちょろでもしているんだろう」

 肩をすくめておどけたように言う鶴見さんに私は少しだけ笑った。
 そしてしばらく沈黙が続き、私は俯く。
 今、ここで言ってしまうか。

「……………鶴見さん」

 鶴見さんに会った時から、ずっと聞きたかったことがあった。私を残し、消息を絶った彼についてだ。百之助さんは本当に師団を抜けたのだろうか。それとも秘密裏で何か任務でも請け負っているのだろうか。
 それを聞いても良いものかずっと悩み、これまで私は師団のもとへ訪れ聞くことができなかった。
 けれどもう限界であったのだ。

「あの、ずっと聞きたかったことがあるんですが………」
「尾形上等兵のことだね?」

 すると鶴見さんはすぐさま言う。はっと顔をあげれば、彼は続けて言い放った。

「君のもとに尾形上等兵は来たかい?ああ、言わなくていい。君が札幌の叔母のもとへ連れ出したのはきっと彼の仕業だろうからね」

 その言葉に私は茫然とする。見透かしたような口ぶりの鶴見さんに私が何も言えずにいると囁くように聞いてきた。

「彼の事情は知っているかい?」

 いや、私は知らない。聞いても知らされぬまま、私はずっと彼を待っていたのだ。
 静かに首を振れば、鶴見さんはぽつりと呟く。

「かわいそうに。君は何も知らされないまま健気にあの男を待っていたのだね」

 そして鶴見さんは私の肩に手を置いた。
 彼のその言葉が私に重くのしかかる。そうか。自分はやはり側から見れば可哀想なのか。それを聞いてひどく惨めな気持ちなった。

「尾形上等兵は師団を抜け、目下逃走中の身だ。謀反を企んでいたようでね。こちらもまんまと騙されてしまったよ」

 朗々と語る鶴見さんに私はいよいよ青ざめる。
 百之助さんが師団を抜けたのが事実であるだけでなく、まさか謀反まで起こしていたとは。
 言葉を失う私に鶴見さんは尋ねる。

「それで、君はこれからどうするつもりなんだい?」

 はっと顔を上げれば、鶴見さんはじっと私を見つめていた。額当ての影に隠れ、光の反射しない空洞のような彼の眼に私が映る。

 怖い。不意にそう思った。自分から尋ねたものの、この男の醸し出すその異様な雰囲気に呑まれ、心臓が縮みあがりそうになる。
 そして彼の続け様に言った言葉が、私の胸を抉った。

「君はまた大人しく待ち続けるのか?あの男の、亡くなった母親のように」

 その瞬間、私の頭は真っ白になった。
 彼は今、何と言ったのだろう。何故それを鶴見さんが知っているのか。百之助さんの父が元師団長だったから、彼の家の事情を把握していて当然なのかもしれない。

 しかし、そこでふと思考を区切る。
 そうじゃない。百之助さんの家の事情を知っていたことに驚きはしたものの、それ以上に私は鶴見さんの言った言葉に傷付いていた。
 本当はずっと、気付いていたのだ。今まで見て見ぬふりをしていたが、私の現状がまるで百之助さんの母と同じだということに。幼少の頃に目の当たりにした、自身の夫を待つ彼女の姿を見て、自分はああなりたくないと思っていた。日に日に病んでいく彼の母の姿は、幼い私には耐えられない程痛ましかった。
 しかし私の現状が、亡き彼女と同じであることを改めて突きつけられる。

「やめた方が良い。善良な君とじゃ、あの男とはこの先うまくやっていけないだろう。最初は君に影響されて尾形上等兵も少しは落ち着くと思ったが、彼の狂気は生半可ではなかったようだ」
「………どういうことですか?」

 その言葉に引っかかり、思わず聞き返す。
 すると鶴見さんは静かに告げた。

「あの男は自分の母親を殺している」

 一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。硬直したまま鶴見さんを見つめる。

「君は彼の幼馴染だろう。もしかしたら、身に覚えがあるんじゃないかい?」

 その言葉に私は吐きそうになった。
 今、鶴見さんは何を言ったのだろう。殺した?百之助さんが、お母さんを?
 にわかには信じられないものの、鶴見さんの言った通り身に覚えがあるのは事実だった。

 私の脳裏に幼い頃の百之助さんの姿が過ぎる。幼馴染である私を亡き母と重ねていた彼は病んでいた。それがあまりにも危うく、私は思わず言ったのだ。

『あんまり、心配するようなことしないでね』

 そしてそれに彼が答えた。もう遅い、と。

「まさか………」

 幼い頃の記憶を思い出して、私は愕然としその場で項垂れる。
 もしかしたら、あの時すでに彼は自分の母を本当に殺していたのかもしれない。
 そして恐ろしいことにそんな母の面影を私に重ねていたのだろうか。自分で手にかけておいて。

「君は本当に普通の女性だろう。奴と関わらなければ、それこそ幸せな人生を歩めたかもしれない」

 そんな私に鶴見さんは尋ねる。

「君は、子が欲しいかい?」

 その言葉に肩が揺れた。
 小樽に居た頃、子連れの女を見て私はいつも羨ましく思い、目で追っていたことを鮮明に思い出す。

「あの男と添い遂げても一生できないだろう。産まれてくる子がもしかしたら、親殺しをするかもしれない。まるで幼い頃の自分のように」
「そんな………」
「奴はああ見えて君を気に入ってる。だからこそ君に自分との子を作る気はないだろう」

 その悪魔のような言葉に打ちのめされる。

「君さえ良ければ、こちらで良い男を紹介しよう。私は見合いの席で立会人をした責任もある。今度こそ幸せになれるよう、力の限り尽くそうじゃないか」

 ゆっくりと私が顔を上げれば、鶴見さんは何故か嬉しそうに目を細めていた。
 そしてその言葉に再度、私は自身の過去を思い出す。あの男と離縁すれば、もしかしたら自分は普通になれるのかもしれないと思っていたことを。







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