幼馴染の少女が北海道の叔母のもとへ行く。
 山からの帰り道にて、十二歳となった尾形はイトの母からそれを聞いたのだった。

「久しぶりねえ。百之助君。背も伸びて男前になって来たじゃないの」

 小麦色に肌が焼けた彼女の母は溌剌としていて、自分の母だった女と比べると随分と違う。
 昔から世話になっており可愛がられている尾形はいつものふてぶてしさは何処へやら、愛想よく笑みを浮かべた。

「お久しぶりです」

 行儀よくそう言えば、彼女は尾形のすぐそばまで近寄ってきた。

「百之助君のおばあちゃんから聞いたけど、もうすぐ幼年学校に受験するって?すごいじゃない」

 彼女の母の言う通り、尾形は来年から幼年学校へ受験することが決まっている。

「あんなに小さかったのにねえ」

 前まで華奢で小さく、まるで人形のようだった尾形だが、今ではぐんと背が伸びて体格の良い少年になった。若竹のようにあっという間に成長していく彼の姿に彼女の母は眩しいものでも見るかのように目を細める。
 そしてそんな尾形を見て、自身の一人娘を思い浮かべた。尾形と同じくあんなにも小さかったイトも成長して、今度北海道の叔母のもとへ働きへ出ることになったのだ。

「そうそう。あの子も今度、北海道へ奉公しに行くじゃない?」
「北海道?」

 しかし尾形はそれを知らず、思わず眉をひそめてしまった。

「あらやだ、あの子から聞いてないかしら?自分で言うって言ってたのに………」
「あいつ、北海道に行くんですか?」
「ええ。あの子、自分の叔母に憧れてるのもあって働きに出たいって。いつの間にしっかりしちゃってねえ」

 尾形の問いに彼女の母が感慨深げに言った。

「こうなったらあっという間に成長して、いつか北海道で良い人見つけて結婚しちゃうわね。イトや、もちろん百之助君が大人になるの、きっとすごくはやいんでしょうね」

 それを聞いて、尾形はうまく答えることができなかった。イトが遠くに行ってしまい、あまつさえ彼女の隣に他の誰かがいることを想像できなかったのだ。

 それから数日後、イトが尾形の家にやって来た。彼女とこうやって対面するのは随分と久しかった。

 そして尾形は家の縁側まで連れて行き、隣に座るイトをちらりと見る。
 几帳面にまとめた黒髪に、外仕事をよくやるのか元々白かった肌は日に焼けていた。浅葱色の簡素な着物を着ており、そこらにでもいそうな少女の様相であるが、何故か目が惹かれてしまう。
 ここ一年で彼女はますます変わった。前までは子犬のようにころころとしていたのに体の線も細くなり女らしくなった。

「お前の母ちゃんから聞いた。北海道の叔母の所に行くのか」

 それを言えば、イトは「知ってたんだ」とぽつりと呟く。

「北海道は寒いぞ。お前みたいな弱い奴は寒さにやられてすぐにくたばっちまう」

 北海道のことは何も知らないが、こんなやわい女が見知らぬ土地でうまくやっていけるのだろうか。そもそも北海道まで行く意味が分からない。そんなにも働きたいのなら、何も北海道へ行かずとも茨城で探せばいいだろう。

 そう言えば、何故かイトはくすくすと笑い出した。一体何が面白い、と尾形は眉をひそめる。
 すると彼女はしばらくして満足したのか口を開いた。

「百之助君は会ったことないと思うけど、北海道に住んでる叔母さん、たまに私の家に遊びに来てくれたりしたんだよ」

 不思議そうな顔で首を傾げる尾形にイトが言う。

「自立していて、すごく格好よくて。この人のそばで働いてみたいなって思ってたの」

 だから行くのか。そうぼやこうとしたものの、尾形は何も言うことができなかった。頬を赤らめ、目を緩やかに細める彼女のその表情を見た時言葉を失う。

 さも嬉しそうな顔をして言うイトがあまりにも憎らしく思えてしまった。
 もしかしたら、自分とはもう会えないかもしれないというのに。彼女はそのことを理解しているのだろうか。

 そして不意に尾形はイトの母が言っていた言葉を思い出した。

『こうなったらあっという間に成長して、いつか北海道で良い人見つけて結婚しちゃうわね。あの子や、もちろん百之助君が大人になるの、きっとすごくはやいんでしょうね』

 自分の知らないところでどこぞの誰かも知らない男と一緒になっている、大人になったイトを想像した時ふつふつと言いようのない喪失感がこみ上げた。

 尾形は呑気に笑みを浮かべる彼女の腕を引っ張って、縁側の床に押さえつけた。
 そして上に跨がれば、イトは一体何が起きたのか理解できず顔を強張らせて見上げていた。その表情が余計に幼い尾形を傷つける。

「向こうで旦那でも見つける気か?」

 俯いたまま尾形は吐き出すように言えば、イトは呆けた顔をして首を傾げる。
 けれど彼の言った言葉を理解した時、彼女は顔を思いっきり歪ませた。

「どうせお前のことだ。北海道で旦那を見つけても、外に女でも作られて放っておかれる」

 尾形はそのままぼやき、ちらりとイトを横目で見る。彼女は彼の無神経な物言いに不満気にむくれていた。

「もしそんな風に扱われたら、離縁するよ」

 イトが顔を背けながらそう言う。
 それに尾形は目を丸くさせた。不器用な彼女のことだから、相手にされないと分かっていてもずるずると相手の男と関係を続けていくものだとばかり思っていた。

 けれどイトが割と竹を割ったような性分を持ち合わせていたことを思い出す。

「お前、変なところで気が強いよな」

 尾形はのそりと彼女の上から退き、ようやくいつも通りの軽口をたたいた。どこぞの男と別れる可能性があるのならば思うと、わずかながらだが胸がすくような心地になる。
 けれどまだ尾形の胸の内はじくじくとうずいていた。

「お前、もしそういう男と一緒になったら別れろよ。まあ、そもそもそんな相手、出来ないだろうが」

 少しでもこの胸の痛みを抑えたいと当てつけるようにそう言えば、イトはすぐに尾形の言葉を理解することができなかったのかぽかんとする。
 余計な一言であったと尾形自身自覚はしていたが言わずにはいられなかったのだ。
 自分を振り回すイトに少しでも意向返しがしたかった。
 そしてしばらくすると、彼女の顔が真っ赤に染まる。ああ、ようやく怒ったと思い尾形が身構えていると、イトは突然くしゃりと顔を歪めた。
 そんな彼女の様子に尾形は驚く。まさか泣くとは思わなかったのだ。

「もう帰る」

 そしてイトは尾形が何かを言う前に彼を残して、その場から去ってしまった。

 それから彼女は、北海道の叔母の旅館へ働きに出て行ってしまった。
 イトと話した最後の日、気まずいまま別れてしまったのが心残りだったが、もうそれまでの関係なのかもしれない。

 それから尾形は幼年学校へ入った。そして第七師団に配属され、最後に故郷へ里帰りした時久しぶりにイトの両親に会った。

「久しぶりねえ。百之助君」

 白髪や顔の皺が増えたが、背筋がまっすぐ伸びている彼らは健康的で元気そうだ。
 尾形の顔を見て二人は顔をほころばす。
 そしてしばらく互いの近況を話した後、彼女の母が嬉しそうな顔をして言う。

「こんなに格好良くなって。良い人ももういるんでしょうね」

 あの小さかった子どもが一気に成長して帰って来たのだからそう思うのも仕方がないのかもしれない。
 尾形がそれにいえ、と曖昧に答えれば、彼女の母は眉を下げながら言った。

「あの子なんて全然そういうないのよね。向こうで良い人でもいるのかしら」

 その言葉に尾形の胸がざわりと揺れる。唐突に出てきたイトの話題にふと懐かしく思う。あいつは一体どんな大人になっているのだろう。しかし十二歳の頃の幼い彼女しか尾形は知らなかった。
 すると彼女の父はため息を吐きながら答える。

「あいつに良い人なんていないんじゃないか?手紙でもそういった話はないって書いてあったし。昔は百之助君と一緒になるんじゃないかって思ってたんだがなあ」
「あなたね、いつまでも二人は子どもじゃないんだから」

 そんな彼の言葉に彼女の母が嗜める。それに尾形の特徴的な眉がぴくりと動いた。

「いないんですか?器量だって悪くないのに。あいつを嫁に取りたい男なんていくらでもいるでしょう」

 尾形がそう言ってみせれば、そんな彼の反応に彼女の両親は呆ける。

 尾形がイトのことを気に入っている素ぶりは何回か見たことはあったが、彼が今までイトに対してそういった直接的な言葉を言ったことはなかったのだ。

「百之助君、もしかして」

 彼女の母はふと思い至った予想を頭に浮かべながら、おそるおそる尋ねる。それに尾形は頷いた。

「もし良ければ是非申し込みたいですね。俺もちょうどあいつのいる北海道に行きます。その時に彼女に会おうと思ってたんですが」

 尾形の言葉を聞いて、彼女の両親が顔をほころばせる。
 そうして彼女の両親は尾形との見合いを約束し、その詳細を書いた手紙を北海道にいる叔母や当の本人へ送ったのだった。 

 そういった経緯があり尾形は北海道へ渡り、イトと見合いをすることとなった。見合いの件では立会人に上司である鶴見が、そして彼女は彼女の叔母に連れられてやって来た。

 料亭の一室で久しぶりに再会したイトは若草色の品の良い着物を着てめかしこんでいた。当たり前だが十二歳の頃の幼い姿ではなく大人になった彼女を見て、自分の知らない他人のように思えてしまう。 

 そこでふと尾形は自分自身に拍子抜けしてしまった。あれだけ焦がれていたというのに、もしかしたらイトへのおもいは風化してしまったのかもしれない。
 幼い頃に見た、忙しなく変わる豊かな表情はなりをひそめ、澄ました顔をする彼女は自分の知らないどこか遠くへ行ってしまったかのようだった。

「久しぶりだな」
「ええ、本当に」

 尾形の言葉にイトは作り物の人形のような笑みを浮かべる。
 それに尾形は自嘲気味に笑った。

 しかし鶴見と彼女の叔母が気を使って部屋から退室すると、澄まし顔で座敷に座っていたイトの眉がぐっと歪んだ。

 鶴見や叔母がいた手前、表に出さなかったのだろう。尾形と二人きりになった途端、イトは嫌そうな顔をして彼を見つめた。
 その表情が面白く、そして懐かしい。そうだ。小さい頃から尾形がちょっかいをかけると何かと不満そうな顔をしたのだ。

「何でここにいるのよ」

 イトのふてぶてしいその言葉に自然と笑みが深まる。そんな尾形の表情にますます彼女は嫌そうにする。
 もしかしたらまだ彼女は、別れ際の際の喧嘩を引きずっているのかもしれない。
 尾形のことなどすでに忘れているかと思いきや、ずっと覚えていたのかと思うと愉快な気持ちになった。

「どうやら男に逃げられたそうじゃないか」

 彼女の叔母から半ば強引に聞いた話を少々脚色して言えば、イトはむっと顔をしかめる。

「相手に恋人がいたのよ。逃げられたわけじゃないわ。………穏やかで優しそうな人だったから、きっと誰も放っておかないわよね」

 それに尾形はため息を吐いた。残念そうに顔を俯かせるイトに呆れたのだ。

「お前、人を見る目ないな」

 そう言えば、イトは怪訝そうに尾形を見る。

「そんな絵に描いたような男いるはずないだろう。ああいう輩に限って裏はある。先生と呼ばれるのも幼児趣味があるのかもな」

 彼女の叔母から聞いていた相手の男を思い浮かべる。町の役場で働いていて、趣味は読書と散歩。周りの評判も良くて、近所の子どもから先生と呼ばれてるらしい。自分とは正反対だと思いながら、そんな絵に描いたような真面目くさった男なんているかと呆れる。

「あれと添い遂げたってお前は幸せにならんと思うぞ。評判の良い男は周りに女が寄ってくる。その内女ができて放っておかれるだろう」

 実際に評判の良い男ならば結婚しても苦労するだろう。良い男なら結婚しても女は放っておかないし、不器用な彼女のことだからその男の見合う女になろうとして自分を追い詰めるかもしれない。
 するとイトは吐き出すように呟いた。

「最悪………」
「未来の旦那にそれは失礼なんじゃないのか?」

 全く失礼な奴だと尾形は眉をひそめる。わざわざ忠告してやったというのに、幼馴染である自分に対して遠慮がなさすぎるのではないか。自分のことは棚に上げて、尾形はそう思った。

 けれどイトはそんな彼にかちんときたのか、丸い目を無理矢理細めて尾形を睨みつける。

「知らないわよ。この話は破談よ。破談」
「おいおい。あの叔母の顔に泥を塗らせるのか?お前の両親だってあんなに喜んでたのに」

 そう言えばイトは般若のような顔をする。打てば響く鉄のように言い返す彼女に、尾形は柄にもなくはしゃいでしまい自分自身に苦笑した。
 彼女といるとやはり愉快で、何より尾形の人として欠けた部分を満たしてくれるような心地になった。

「百之助君、いや、百之助さんって昔っからそういうところが子どもっぽいのよね」

 けれどそんなイトの一言によってぴしりと尾形は硬直する。
 どの口がそれを言うのだろう。彼女だってまだ会ったことのない男を夢見て、少女みたいなことを言っていたというのに。
そして見合いの席だというのに、そこで軽い口喧嘩が勃発することとなった。





「ねえ、ちゃんと話聞いてる?」
「聞いてる」

 それから見合いの話は意外にも滞りなく進み、二人は小樽の川沿いの道を歩きながら新居の相談をしていた。
 先程からイトばかり話しており、ぼんやりとした能面のような表情で横を歩く尾形が本当に話を聞いているかが怪しい。

 尾形としては鳥のように小うるさく話す、珍しく浮かれた様子の彼女を横目を観察していた。

「そんなに大きくても困るわよね。部屋がたくさんあっても使い切れないし、物置部屋になるだけだわ。あ、でも百之助さん、一部屋自由に使える部屋が欲しいのよね?」

 それに尾形は素直に頷く。家なんてどこでも良かった。日中は師団の兵舎におり、家にはイトの方が長くいるはずだ。
 彼女の好きにしたら良いと思ったが、前にそれを言えばイトに叱られたため尾形は黙っていた。
 そして彼女は話を続ける。

「立地は川沿い辺りが良いかしら。あの辺りは家も安いし」
「いや、商店街の近くにしろ」

 川沿いは夜になると酒盛りをする連中がこぞって集まり治安が良いとは言えなかった。商店街の方ならば、人は多いがその分何かと便利であるし、駐屯地も近い。何かあってもすぐに対応できるであろう。

 すると、いきなり話に入ってきた尾形にイトは思わず目を丸くした。いつもどうでも良さそうであるのに、そこだけは退けないものでもあるのだろうかと首を傾げる。
 しかし彼女はまあ良いかと、嬉しそうに頷いた。

 けれどその直後、戦争がすぐに始まってしまうことを二人は知らない。









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