イトから来た手紙をたたみ、封筒に入れ直す。
 時折来る彼女からの手紙にそろそろ返事でも書こうかと思っていれば、ふと足音が聞こえてきた。
 顔をあげれば、廊下の角から一人の男が現れる。

「兄様」

 そう言って嬉しそうに近寄ってくる見た目麗しいこの男は、尾形の腹違いの兄弟である。
 この男は尾形の上司でもあり、妾の子である尾形を『兄様』と呼ぶのは止すよう言っているのだが、彼はそれでも尚呑気に止めなかった。まるで自分にそう呼ばれて嫌がる人間は一人もいないとでもいうような、ある種の傲慢さに嫌悪する。

 本人からしてみればそれは謂れのない言い掛かりだが、尾形は勝手にそう決めつけていた。
 すると近寄ってきた腹違いの弟である男は尾形の手にある一通の封筒に気付いた。

「おや、その手紙は………」
「いえ、何でもありません。ところで何か用事でも?」

 その言葉を遮り、素知らぬふりをして尋ねれば、彼は照れたように笑う。

「たまたまここを通りがかっただけです。ですが人気のないこの場所でこうして兄弟水入らずで会えたのは運が良い」

 そう言って顔をほころばす彼を尾形は能面のような表情で見つめる。自分や母を捨てた父に愛され、期待されたこの男がどういうつもりでそれを言っているのか。

 以前彼は恥ずかしげに前々から兄弟が欲しかった故と言っていたが、それでも尾形はその考えに理解することはできなかった。

「ところで、先ほどの手紙………。もしや奥様からの、でしょうか」

 尾形に妻がいることをごく少数の、限られた者しか知らない。意図的に彼には隠していたものの、ばれてしまっていることに尾形は胸中に苛立った。

「噂で聞いたのです。兄様に妻がいると。なんでも幼馴染だとか。よっぽど仲がよろしいのですね」
「ええ、まあ」

 そしてそんな尾形をつゆ知らず、彼は朗らかに言う。

「一度ご挨拶をさせてください。弟として是非、義姉にお会いたいのです」
「あいつにはあいつの都合がありますので」
「それは………。ですがご挨拶くらいさせてください。そうこちらで取り計らいますので」

 彼の中でにイトに会うことは決まっているのかもしれない。それに尾形は思わず眉をひそめる。

 しかしそんな尾形の様子に気付くことなく、彼は他用でもあったのかその場を後にしてしまった。廊下に一人残った尾形は長いため息を吐く。

 彼と彼女を会わせるつもりはなかった。会ってしまえば、否が応にも彼女は本家と関わりを持ってしまうかもしれないのた。
 それに彼らが隣に並んでいるのを想像すると、胃の辺りがむかむかとした。呑気に自分を弟だと宣う奴にきっとイトは戸惑いながらも正直に受け入れてしまうだろう。
 そして口八丁に言い包められ、義姉様だとか言われて良いように扱われるのだ。それがありありと思い浮かべられるのが、また何とも腹立たしい。

 しかし彼とイトが隣り合っている光景は、そこに自分がいるよりもはるかに自然に思えてしまった。育ちが良い彼と不器用だが素直で気立ての良い彼女。善良な二人はおそらく気も合うだろう。

 そういえば、イトはああいう男を好んでいたのを思い出す。彼女と結婚する前に、彼女が心惹かれていたという役場の男もそうだった。彼女の叔母から半ば強引に話を聞きだしたため知っているが、穏やかで少々野性味に欠け虫も殺さぬような男を少女のように想っていたそうだ。

 自分のような歪な男ではなく、ああいった男と一緒になれたのならば良かったのだろうか。イトまでも、あの男は何とでもないような顔をして奪っていくのだろうか。

 尾形の脳裏に、妻である彼女だけでなく、亡くなった母や本妻のもとへ行ってしまった父の姿が過ぎった。
 その瞬間、尾形の中で沸々と熱く腫れ上がるような痛みが生まれる。同時に冷水を頭から被ったかのように、あの男を殺すことを淡々と考えていた。

 そして尾形は、二〇三高地で彼の頭を撃ち抜いた。頭に血飛沫をあげながら、丘の上で彼が力なく倒れる。さっきまで揚々と立っていた若い男が無残にも雑踏に踏み潰されていく様を見ると、胸の内がすいたような心地がした。





「愛情のない親が交わって出来る子供は何かが欠けた人間に育つのですかね?」

 それから幾日。
 とある屋敷の一室で、白い布に雁字搦めに縛られ芋虫のように横たわる男がいた。
 腹から血を流し息も絶え絶えなその男の横には尾形がおり、その男をじっと見つめながら淡々と語る。

「父上と本妻との間に産まれた息子さん………、花沢少尉が高潔な人物だったことも証明している気がします。互いに愛し合って生まれた子だ」

 尾形から父上と呼ばれたその男は怒りで上瞼を引きつらせ目を血走らせる。そして父の腹を掻っ捌き、それでも顔色一つ変えない化け物のような実の息子を見上げた。

「花沢少尉が二〇三高地でどうやって亡くなったか、本当のことはご存知ないでしょう?」

 そんな父に対して、尾形は続ける。

「俺が後頭部を撃ち抜きました」

 自身の打った銃弾が頭部にあたり、血飛沫を上げながら死んでいった男の姿が脳裏を過る。糸が切れた人形のように崩れ落ちていった様を思い出した瞬間は何とも呆気なかったが、確かに尾形はあの時ようやく殺せたと思ったのだ。

 それを言えば、父は興奮が抑えられないのか怒りで体が震わせた。
 しかし血走った目には殺意が芽生えているが、反対に顔色は白い雪のようで、後わずかな時間で彼はいよいよ死んでしまう。

 すると彼は息も絶え絶えに言う。

「貴様の言う通り、冷血で出来損ないの倅じゃ」

 それに尾形は答えることなく、ただ死んでゆく父の姿を見つめた。
 しかしその時、彼の口からぽつりとその場に似つかわしくない言葉がこぼれた。

「………貴様、一人前に嫁をもらったらしいな」

 知っていたのか。脅すつもりかと思ったが、軍人の端くれでもある彼が女を盾にするのは考え難い。
 ちらりと彼の顔を見れば、尾形にも、そして撃ち殺された息子にもしない、どこか憐れんでいるような顔をしていた。

「可哀想に」

 彼はぽつりと呟く。おそらく尾形の妻であるイトに向けて言ったのだろう。こんな人として欠けた男に嫁ぐなんて、この先苦労するに決まっている。
 尾形もそれは理解していた。それこそずっと、昔からだ。

 そして彼は尾形を見つめ、吐き捨てる。

「呪われろ」

 腹を裂かれた状態の父を放置し、尾形は屋敷を後にした。外に出れば、迎えの馬車がすでに来ている。

 それに乗ると、そこには自身の上官である鶴見中尉が座っていた。馬車に乗り込む尾形を一瞥した後、鶴見はしばらくしてから、ぼそりと言った。

「中央は第七師団に責任をかぶせるだろう」

 それに尾形は視線だけ動かして彼を見た。
 鶴見はそんな尾形を気にすることなく語り出す。

「我々にとって厳しい時になるが耐え忍ぶのだ。外敵を作った第七師団はより結束が強くなる」

 そして鶴見は隣に座る尾形を見据えながら言った。

「第七師団は花沢中将の血を引く百之助を担ぎ上げる。失った軍神を貴様の中に見るはずだ」

 先の戦争で負わされた責任から失墜した師団の威光を再び蘇らせるため、鶴見は尾形を祀り上げ利用することを、当の本人である彼もうすうす理解していた。

「よくやったぞ。尾形」

 そんな白々しい茶番に、たらしめがと尾形は内心毒付く。
 話は終わったとばかりに思っていたものの、そこで鶴見はわずかに笑みを浮かべながら続けた。

「それと、君の奥方のことは気にするな。我々の方で彼女の安全を保障しよう。敵が多くなるにつれ、彼女も行く先々で狙われるかもしれない。君だって彼女が大事だろう?」

 彼のその言葉に尾形の瞳はわずかに揺れた。聞こえは良いが鶴見はイトまでも巻き込もうとしていることに気付いた。

 今思えば、鶴見がただの一般人である彼女を尾形の妻にすることに反対しなかったのは、そういった思惑があってこその考えだったかもしれない。後ろ盾のない彼女ならば、多少手荒な真似をしても大事にはならない。鶴見は花沢中尉と違い相手が誰であろうとやってのけるだろう。

 幼馴染であり、自分の妻でもあるイトの顔が思い浮かぶ。

「いえ、結構。あいつは勝手にやるでしょう。どうせ外に出て男でも作ってる。気にかけているだけ、時間の無駄ですよ」

 価値などないとでもいうように吐き捨てれば、鶴見はしばらく思案した後ただ一言、そうかとだけ言って前を向いた。
 鶴見のがらんどうな目からは、彼が何を考えているのか一向に読めない。しかしこうなってしまえば、尾形はイトへの手紙を返すことを諦めていた。

 そしてそこでふと、幼い頃の記憶を思い出す。
 そういえばイトは昔、男に放っておかれたら離縁してやるって言っていた。
 北海道に行って知らない男と一緒になるのではと焦った自分がイトに心ない言葉を投げつけた時に、彼女は珍しく強気に言い返して来たのだ。
 その時は結婚しても男と別れる可能性が少なからずあると分かり単純にも安堵したが、まさか自分にその危機がふりかかろうとは思いもしなかった。

「どうした。何を笑っている」
「いえ」

 鶴見に言われ、尾形は知らずに笑っていたことに気付いた。
 そして無性に、彼女に会いたくなってしまっていた。


 それから尾形はイトからの手紙を返すことなく、一年が経とうとしていた。最初の頃は定期的に来ていた手紙も尾形からの返信が来ないこともあり、段々と減っていくようになる。

 そして遂には、彼女からの手紙は来なくなってしまった。







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