病院から退院した私は叔母とともに改築後の旅館にて営業再開の準備をしていた。
 改築後の旅館は古くなった部分を補修し、内装は以前と変わらない。けれど新しく中庭ができ、そこには桜の木が植えられた。咲くのはまだ先であるが、満開の桜を想像して叔母は早く暖かくならないものかとそわそわしている。
 あれから、私は鶴見さんの言葉を何度も反芻し思い出していた。

『あの男は自分の母親を殺している』

 本当にそれは事実なのだろうか。確かに百之助さんは昔から人とはどこか違う雰囲気をまとっており、私は常にそれに怯えていた。もし彼のあの狂気が親殺しから来ているものだとしたら納得してしまいそうになる。

『君さえ良ければ、こちらで良い男を紹介しよう。私は見合いの席で立会人をした責任もある。今度こそ幸せになれるよう、力の限り尽くそうじゃないか』

 鶴見さんの言葉が脳裏を過る。
 彼の言う通り、あんな男と一緒にならない方が良いと私は自覚していた。
 例え彼の親殺しが真実でなくとも、私に何も言わず行方をくらますような男だ。いつ帰ってくるかも分からない男をずっと待ち続けているのは辛かった。
 彼の母のように気が狂ってしまうほどに。

 そうして私は、段々と百之助さんではない別の誰かと一緒になることを少しずつ考え始めていた。けれどそんな簡単に進む話ではないだろう。彼のことを気に入っている私の両親や仲介役をした叔母がきっと黙っていない。

 それに離縁した女を再び貰い受けてくれるような男はいるのだろうか。鶴見さんは紹介してくれると言ってくれたが、いまいち彼を信用しきれない。あの病院での一件にて、どこか不信感が芽生えてしまった。

 自身の心が僅かに曇る。

 何でこんなことになったのだろう。

 最初からうまくいくような結婚ではないだろうとは思っていた。相手があの尾形百之助なのだ。何を考えているかいまいち分からない、一癖も二癖もあるあの男の妻になるのは苦労すると分かっていたはずだった。

 けれどふと思い返す。まだ戦争が始まる前の、結婚したばかりで新居の相談なんかしていた時の平和だった頃を。

 この人と一緒になっても良いとさえ思い始めていたのだ。少しずつ、百之助さんのことを好きになっていったあの時のことを思い出すと、たまらなく悲しくなった。





 数日後、旅館が再開するとのことで叔母はホテルを営んでいるという知り合いの夫婦のもとへ挨拶しに行きたいと言った。
 札幌から大分遠い所にあるが、叔母が旅館を始める際に世話になったのともう随分と顔を合わせてないとのことで行くと決めたらしい。

「良かったら一緒に行かないかしら」

 叔母が私を誘う。そして私もそれについて行くことにした。
 しばらくはもう、百之助さんのことも何も考えたくなかったのだ。





 札幌から出ている鉄道に乗車し、叔母と隣り合って二人用の座席に座る。
 窓から流れる景色を横目にしながら、ぽつりぽつりとこれから行くホテルの夫婦について話す。

 その時、自分達の座る座席から通路を挟んで斜め向かいに座る一組の母子に気付いた。まだ五歳にも満たないだろう幼い少女が小さな手でお手玉を転がしている。

 すると列車の揺れで少女の持っていたお手玉が私の足元に転がってきた。鮮やかな色の布の切れ端で作られた小さなお手玉は私の手の中にすっぽりと入る。

 そしてお手玉を落として眉を情けなく下げた少女の元へ渡しに行けば、彼女は嬉しそうに顔をほころばせた。

「はい」
「おねえちゃん、ありがとう!」

 かわいい、と私はその少女を見て思った。頬を林檎みたいに赤くして笑う少女はとても愛らしかった。

「すみません!駄目じゃない。きちんと持っていなきゃ」
「ごめんなさあい」

 横に座る母親らしき女性が慌てて頭を下げ、少女に注意をする。それに私は小さく首を振って、元の座席へ戻っていった。

「かわいいね」
「そうねえ」

 私のその言葉に叔母が笑みを浮かべて頷く。
 少女が再びお手玉で遊び始めるのを見て、その隣に座る母親は注意する。

「列車の中でお手玉は駄目よ。お父さんに会いに行くんだから良い子にしてなさい」
「はあい」

 その母子の光景に私はふと思う。いいな。もしかしたら自分にも子どもが出来ていたかもしれない未来を思うとちくりと胸が痛んだ。
 するとその時、叔母が口を開いた。

「そういえば、百之助さんとはどうなの?」

 はっとして横を向けば、叔母がどこか心配そうな顔をしていた。

 いつか百之助さんのことを聞かれるだろうと思っていたが、いざそう言われてしまうと口ごもってしまう。鶴見さんに言われたことをそのまま彼女に正直に話すのは憚られた。

 そしていつも通り笑みを浮かべ大丈夫だと言ってみせようしたが、そこでふと体が硬直する。はくはくと口を動かすが、うまく言葉が出てこない。笑みも作ることができなかった。そんな私の様子に叔母がますます心配そうな顔をする。

 うまく笑うことができなかった。自分の気持ちが追いついていないということに、その時初めて私は気付いた。

 そしてぽつりと私の口から出てきたのは弱々しい言葉だった。

「分からないわ………」

 いつもなら平気だと言ってのけられたのに。私は笑いながらそれを叔母に言うことができなかった。彼のことなんて、自分が知りたいくらいなのだから。

 すると叔母はそんな私に対して言った。

「あのね、男は何も百之助さんだけじゃないのよ?」
「え?」

 そんな彼女の言葉に思わず顔をあげる。

 叔母は眉をひそめていた。まさか叔母の口からそんな言葉が出てくるとは。叔母は確か、百之助さんのことを気に入っていた気がする。
 呆気にとられていると、叔母は呆れたように続けた。

「もしそれで気を滅入ってしまうくらいなら離縁したって良いと思うわ」

 叔母も鶴見さんと同じことを言っているはずなのだが、彼の言葉と違って素直に私の心にすとんと落ちる。
 叔母は私を心配してそう言っていたのだ。

「でも周りから何言われるか………」
「少なくとも私は何も言わないわよ。だってここまで放っておく彼が悪いわ」

 その言葉に息をのむ。

「辛いとは思うけど、あなたにもあなたなりの人生があるんだから」

 それを聞いて私ははっとした。
 もしかしたら百之助さんは、自分の人生の中で出会ったほんの一部分の人間なのかもしれない。まだ将来を共にする人と出会ってないだけで、それは彼ではないのかもしれないのだ。

 そう思えば、ほんの少し気持ちが楽になった。私は知らない内に病んでしまっていたのかもしれない。

 少しだけ笑ってみせれば、叔母は私の様子にほっと安堵する。

 そして叔母は天気の話でもするかのように軽い口調で言った。

「ちなみにどんな人が好みなの?」

 それを聞いて、私は今度こそ笑ってしまう。
 まだ離縁している訳でもないのに、まるで叔母は冗談めかして次にいこうと勧めてくるかのようだった。私を心配してこその物言いだとは理解しているが、そんな叔母の様子を可笑しく思った。

「そうね。穏やかで落ち着いていて、私のことを大事にしてくれる人とか」
「あら、そうなの。でもそんな人、きっとたくさんいるわよ」

 私もそれに同調して答えてみせれば、叔母はあっけらかんと言い放つ。
 ほんの少しの罪悪感を抱えながらも、私はまた少女のように笑ってしまった。





 鉄道をおり、町から離れた山の麓にそのホテルはあった。外国人の住んでいた別荘を改築した、白い煉瓦造のその洋館は鬱蒼と広がる青い森の中でよく目立った。

「相変わらず綺麗ねえ。洋風の建物も洒落っ気があって良いわ」

 鉄道から馬車に乗り換えて辿り着いた美しい洋館を眺め、叔母が顔をほころばせて言う。
 ホテルの前にはすでに従業員らしき男がいた。しかしその男は何故か申し訳なさそうな顔をしている。

「申し訳ありません、奥様。ただ今オーナーは急用があり留守でして………」

 彼の言葉に叔母と私は顔を見合わせた。
 事前に連絡をとっていたものの急用でいないのならば仕方がない。

「あら、そうなの。それじゃあ戻ってくるまで部屋で待ってるわ」

 叔母が特に気にした様子もなく答える。それにほっと安堵した男は馬車から荷物を下ろし、ホテルへ案内しようとする。

 そして中へ入ろうとしたその時、私は自分の視界の隅にふと何かが映ったことに気付いた。洋館の右側にぽつんと建てられた小さな小屋で人影が横切ったような気がしたのだ。
 従業員の誰かかと思ったが見覚えのあるその人影に私は眉をひそめる。

「ごめん、叔母さん。先に中に入っててくれる?」

 叔母にそう言い残し、その離れにある小屋の方へ歩いていく。
 胸の辺りがざわざわとする。私の見た人影は、自分がずっと見てきた人のものとよく似ていた。遠くからでも何となく分かってしまう。背格好や歩き方から、まさかあの人がここにいるのではと期待してしまっていた。もしかしたら、彼がそこにいるかもしれない。

 そして小屋に近付き裏手に回って見た瞬間、飛び込んできた光景に目を丸くした。そこには旦那である尾形百之助と、何故かあの家永カノの姿があったのだ。

「え?」

 自分の夫が、自分を殺そうとした女の側に何故いるのだろう。私はその現実が受け入れられず、呆然としてしまう。
 私の存在に気付いた二人も驚いて自分を凝視していた。私の姿を見て百之助さんは猫のような目を見開いている。
 彼がこうも感情を表に出すのは珍しい。そう頭の隅で思いながら私は自分の胸の内で、沸々と怒りが込み上げてくるのが分かった。

 この人は今、何をしているのだろう。自分を放っておいて女とホテルにいるだなんて。しかもその女は自分を殺そうとしたのだ。

「あなた達………」

 家永さんがいるにも関わらず、私は怒りに任せて口を開く。
 今まで聞いたことのないその低い声音に彼は驚いている。
 相手が自分の旦那でも殺人鬼でも関係なく、私はただ目の前の光景が信じられず、今まで感じたこともないような怒りで体を震わせていた。







 | 

表紙へ
top