私は百之助さんが一年ぶりに平屋の家に戻ってきたことを思い出していた。真夜中に突然現れた彼は私を起こし、朝一の列車で叔母の旅館へ向かうよう言ったのだ。渋る自分を見て間男でもいるのかと言い放った百之助さんに「自分だって女でもいたのだろう」と思ったの覚えている。一年も男ばかりの兵舎へ寝起きしていれば外で女でも作っているだろう。

 そんな予感をうすうすしていたけれど、いざ目の前で見せつけられてしまうと胸が張り裂けてしまいそうな程苦しくなった。彼とその横にいる美しい女が憎らしい。

「本当に女がいたのね」

 私は声を震わせながら呟く。
 狼狽えることなく、怖いくらい表情を変えない彼らは傍目から見て異様であった。
 不貞を見られたというのに落ち着き払った二人のその様子に私は眉をひそめる。
 そもそも百之助さんは私のことなんてどうでも良いと思っているのかもしれない。
 だから愛人との逢引の最中に私が現れても、何も取り繕おうとしないのだろう。

「この人が私に何したか、知ってるの?」

 家永さんの顔を見ながら問い詰める。

「…………知ってて一緒にいるの?」

 百之助さんは、彼女が私を殺そうとしたのを知っている上で一緒にいるのだろうか。顔色一つ変えず黙ったままの彼に失望する。脳裏に幼少の頃から今までの彼との生活の記憶が走馬灯のように過ぎった。
 もうきっと、あの頃のようには戻れないのだろう。

「何だか目が覚めたみたいだわ」

 そして何も言わない彼らを背に、私はホテルへと戻って行った。



◆◇◆



「誤解されましたわね」
「…………お前、あいつに何したんだ」

 イトの突然の来訪に硬直してしまっていた尾形と家永はゆっくりと口を開く。
 用事があると言って土方と永倉、そしてその護衛に牛山が街へ出ていき待ち合わせ場所である山中のホテルにて二人が待っていたところ、何故か札幌にいるはずの尾形の妻であるイトが現れたのだ。
 イトの出現に驚いていれば、彼女は尾形が家永と一緒にいることで何かよからぬ勘違いをしそのまま踵を返して去ってしまった。
 その間際に家永を見て言ったイトの言葉が引っかかる。

『この人が私に何したか、知ってるの?…………知ってて一緒にいるの?』

 信じられないというように泣きそうな顔で問う彼女を思い出す。
 それを家永に言えば、彼は困ったように笑い出した。

「私のホテルにいらっしゃったんですの。その時に、まあ、色々ありまして」

 そう言って微笑む家永に尾形は沈黙する。
 家永が自身の経営していたホテルで客を殺し気に入った部位を食べる趣味を持った男だということは牛山から聞いていた。おそらくイトは何らかの形で巻き込まれたのだろう。

「あら、どちらに?牛山様達の待ち合わせはどうなさるのです?」
「夜には戻る。先に行ってろとあのジジイ共に言っとけ」
「勝手にされると困りますわ」

 尾形はため息を吐きイトが入っていったホテルへ向かおうとすれば、後ろから家永が止める。
 それに尾形はイトと会わない内に長くなった自身の髪を撫で付け、ため息を吐きながら言った。

「お前が巻いた種みたいなもんだろ。誤魔化しとけ」



◆◇◆



 体調が悪いと言って部屋で一人、ぼんやりとソファに座り込んでいた。
 叔母は心配そうにしながらも私のあまりの顔色の悪さからそっとしておいた方が良いと思い、ロビーにあるカフェにいると去っていった。

 叔母に申し訳なさを感じながらも、自身に起きたことを彼女に伝える気力もなく茫然自失のままそこで項垂れる。
 もう疲れてしまったのだ。百之助さんと結婚してからこんなことばかりだと思う。
 苦労するとは思っていても、まさかここまでとは思いもしなかった。鶴見さんから彼の恐ろしい過去を聞き、そして当の本人にやっと再会できたと思えば自分を殺そうとした女と一緒にいるなんて。

 うっすらと目に涙がたまる。
 するとその時、部屋の窓の外からがさりと木々の葉が擦れるような音がした。

 すぐ近くにリスでもいるのだろうかと思い顔を上げる。
 けれど窓の外にいたのはリスでも動物でもなく、そこにはしかめっ面をした自分の旦那がいた。日の光を部屋に入れるため比較的大きく作られたガラス窓の向こうに、どうして何食わぬ顔で百之助さんがいるのだろう。もしかしたら幻覚でも見ているのだろうか。

 私は目を白黒させながら窓の外にいる彼を見つめる。
 そして百之助さんはがらりとガラス窓を開けて、猫のように室内へ入ってきた。

「おい、何回ノックしたと思ってんだ。わざわざ窓から入る羽目になったぞ」

 どうやら窓から現れる前に部屋の扉を叩いていたらしい。
 私は呆然と彼を見つめたまま状況を理解することができずぽかんとする。さっきからありとあらゆることが起きてついて行けないのだ。彼はといえば服についた葉を呑気に落としている。
 そして私が何かを言う前に彼は口を開いた。

「何でここにいる」
「はあ?」

 ソファに座ったままの私を百之助さんはやれやれといった様子で見下ろしている。
 あんな不貞現場を見られておいて、なんて太々しい態度なのだろうか。彼にそんな殊勝な態度を求めること自体無理な話であるのかもしれないが、今の私にはそれを冷静に考える余裕はどこにもなかった。

 突然現れた彼に呆気にとられたものの、時間が経つにつれて再び怒りが沸々と込み上げてきた。

「あなただって何でこんなところにいるのよ。しかも窓から入ってきて」

 ソファから立ち上がって憮然と百之助さんに詰め寄れば、そんな私の態度が気に食わなかったらしく彼は呆れたようにため息を吐いた。

「今は俺が聞いてる」
「あらそう。何であなたに言わなきゃいけないのよ」

 目をそらしながら言えばまたも彼は疲れたようにため息を吐く。ため息をつきたいのはこっちの方だ。
 しかしそこでふと脳裏に家永さんの顔が過ぎる。
 彼女を放っておいて何故わざわざ自分のもとに現れたのだろうか。打ちひしがれた私の顔を見て笑いにでもきたのだろうか。わざわざ、窓から入ってきて。

 そこまでして会いに来るとは思えなかったが、もう百之助さんのことが分からなかった。幼い頃から一緒にいても、自分は彼のごく側面しか知っていなかったことを今になって痛感していたのだ。
 私は彼に対して当て付けるように言い放った。

「本当に最低ね。どうせあの女とホテルで楽しんでたんでしょう。そういう柄じゃないと思っていたけど私が知らなかっただけなのよね」

 女遊びは好きではないと思っていたが、それは自分が知らなかっただけらしい。それとも遊びではなく本気で家永さんを好いているのかもしれない。あの美しく色っぽい彼女と自分を隣り合って思い浮かべた時、ひどく惨めな気持ちになった。
 すると彼はそんな私にぽつりと呟く。

「お前、一丁前に焼いてるのか」

 その言葉に私はめらりと殺意が芽生えた。

「焼いていないわよ、この馬鹿!」

 相変わらず他人よりどこかずれている。彼の飄々とした態度に馬鹿にされているのかと眉をひそめた。

 さっきから本当に何なんだ。百之助さんには聞きたいことが色々とあり過ぎた。鶴見さんのことも第七師団のことも、そして彼自身のことも何も知らない。どこから聞いていいものやらと思うものの、家永さんの顔を思い浮かべるとそれらはあっという間に頭の片隅に流されて、沸々と怒りが込み上がるのだ。
彼の顔も見たくないと思い視線を床に下げていれば、低い声が降ってきた。

「家永に何された?」

 その言葉に思わず顔を上げてしまいそうになったがぐっと耐える。

「本当に何も聞いていないの?」

 そう聞けば、ああと彼は短く言う。
 それに私は苦笑しながら吐き捨てた。

「あなたなんかに言わないわよ。言ってもどうせ何とも思わないんでしょう?何も知らないままあの人と仲良くしていれば?」

 我ながらひどい言葉だと思う。けれど今の今まで我慢していた私の口から、すらすらと出てくる言葉を止めることはできなかった。
 するとその時、彼は私に向かって言う。

「殺してやるよ」

 その言葉に今度こそ私は顔を上げた。

「私を?」
「ちげえよ。お前が嫌なら殺してやるよ」

 家永を。

 死んだ獣の目のようなのっぺりとした光のない瞳に私は息をするのを忘れた。
 そして同時にもの悲しさが胸を満たしていく。

「殺したって意味ないわよ」

 彼はどうして分からないのだろう。

「小さい頃も言ってたわよね。私にちょっかいかけてきた男の子を、殺してやろうかって」

 遠い昔のことを思い出していた。まだ十二歳の頃、村に引っ越してきたばかりの少年がしつこく詰め寄り、それに傷ついた私は家に閉じこもるようになったのだ。
 そしてそれを聞いた幼い彼が事もなしげに言ったのだ。殺してやるよ、と。その頃の幼い少年と今私の目の前にいる彼の姿が重なる。

「あの時は冗談だと思っていたけれど今なら分かるわ。あなたが本気でそう言ったことを」

 百之助さんを見てはっきりと言う。

「あなた、昔から本当に何も分かっていないのね」

 人形のようだった幼い頃と比べて体つきも何もかも変わったが、根本的な部分で彼は全く変わっていなかった。

「殺したくらいで、その人が行ったことが消えるわけじゃないのよ。私の受けた傷も」

 百之助さんに対して向けられていた怒りはゆっくりと静まり、そのかわりに私は彼の人らしくない考え方に悲しくなった。

「誰かを殺したりすることで何かが解決するわけじゃないの」

 鶴見さんが以前言っていた彼の過去をぼんやりと思い出す。その複雑な生い立ちが百之助さんをそうさせてしまったのかもしれない。幼い頃から一緒にいて気付いていたはずなのに、私は彼の狂気が恐ろしく指摘することができなかった。
 そしてそれは、今も彼の心を巣食っている。

「何ですぐそう言うの」

 私の目からいよいよ涙は溢れこぼれてしまった。私は彼に家永さんを殺してほしいわけではなく、ただ一言謝ってほしかっただけなのだ。ずっと感じていた寂しさをほんの少しでも彼に理解してほしい。しかし、肝心の彼にそれが伝わっているのかもう分からない。
 きっと百之助さんにはそれが難しいことなのかもしれない。

「何で分かってくれないのよ」
 
 私は握った拳で彼の胸を叩き、泣きながらうつむいた。








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