「悪かったな」

 彼の言葉が私の頭上に降ってくる。あまりにも珍しい彼からの謝罪に彼を知る者なら目を丸くさせるだろう。私もそれに驚いた。

 しかしあれだけ望んでいた言葉を言われても決して気持ちは晴れることはなく、反対に戸惑ってしまう。そもそもこの男は 本当に悪いと思っているのだろうか。昔から百之助さんは平気で嘘をつくことができるのだ。それにこんな謝罪一つで一体何が許せるのだろう。そう思い直した。

「何に対して謝ってるの?」

 鼻をすすりながらそう聞けば、百之助さんはため息を吐きながら答える。

「家永とは何とも無い。あいつは男だ」

 それに私は怪訝そうな顔をする。
 家永さんが彼の言った通り男に見えなかったからだ。百之助さんなりの冗談か言い逃れにしてはあまりにも雑すぎる。もしかしたらそれは事実なのだろうか。
 けれど私は首を振った。男だから何だと言うのか。性別なんて関係ない。

「そんなの理由にならないわよ。男でも恋仲の人はいるわ」

 ぴしゃりとそう言えば、彼は勘弁してくれといったように顔をしかめた。
 涙はだんだんと引っ込んでいき、目元を指で拭う。百之助さんの前でここまで本気で悲しみ怒るのは初めてであった。
 そして彼の体から離れて、ぽつりとこぼした。

「…………鶴見さんに会ったわ。あの人からあなたのことを色々聞いた」

 彼の肩がぴくりと揺れた。

「あなたの母親のことから何もかも、全てよ」

 私の声はわずかに震えていた。

「全部本当のことなの?」

 そう聞くと彼は淡々と答える。

「あぁ」

 それに私は俯き、目を伏せた。



◆◇◆



 彼女の丸い頭に、美しい緑の黒髪、わずかに濡れた睫毛が尾形の目に映る。
 いつかきっと自分の過去が明らかになると思っていたものの、こういった形でばれるものなのかと尾形は半ば感慨深かった。

 イトの両肩を掴む。細い肩がすっぽりと手に収まった。このまま握りつぶしてしまえば折れてしまいそうだ。
 そして身を屈ませて、彼女の耳に囁く。

「怖いか?」

 自分の問いに彼女は何て答えるのだろう。自分の過去を知った時、一体どんな態度を取るのだろうと尾形は常々思っていたのだ。
 するとイトは顔を上げた。悲しげに顔を歪ませながらも、怯えることなく尾形の目を見て睨みつけていた。

「怒りで蹴飛ばしそうだわ」

 母を自らの手で殺した男に対してこうも憮然としているとは。イトの中では尾形の罪に対する怒りとずっと一緒にいたというのにも関わらず彼の狂気に気付いてやれなかった自分自身への怒りが綯い交ぜになっていた。
 するとそんな彼女を見て、尾形は笑い出した。

「はは、お前は昔からそういうやつだよな」

 そして尾形は心底嬉しそうな顔をして言う。

「本当に最高だよ」

 尾形はイトのこういったところが好きだった。尾形を恐れさめざめと離れて行くかと思いきや、予想に反して猛烈に怒りを感じ、離れて行くどころか今にも頬を引っ叩いてきそうだ。彼女の母性も甲斐甲斐しさも、そしてこの突拍子のなさもたまらなく愛おしかった。
 そんな尾形の態度にイトは眉を寄せる。
 そして気にすることなく、尾形は世間話でもするかのように話を変えた。

「俺がいない間何してた?」

 その言葉にますますイトは顔をしかめる。元々尾形は何でも一人で完結する癖があるのだが、未だに彼女はそれに慣れることはなかった。先程までの話は終わったというような口ぶりにまたもや苛立っているのだろう。

「絶対に言わない」

 まともに答えるつもりはないようだ。再会したら話したいことも言いたいこともたくさんあり、尾形に会える日をどれだけ楽しみにしていたのかということをイトは伝えようと思っていた。

 けれどこんな風になってしまえばもうどうでも良いと、イトは意地でも尾形にそれを話すつもりはなかった。
 そんな彼女に尾形は猫のように口をにやつかせながら言う。

「本当に家永とは何もない」
「信じないから」

 そんなイトの頑なな態度に彼はますます笑みを深める。
 その態度はまるで尾形のことが好きで仕方がないと言っているようなものである。
 イトのその態度が愛おしい。彼女といると尾形の気持ちは満たされてきた。けれど、彼女の方はいつまでも辛いだけだろう。尾形はそれをずっと自覚していた。
 自身の父の腹を掻っ捌いた時に、彼が言った最後の言葉が蘇る。

『可哀想に』

 尾形の妻になったイトに対して言った言葉だ。確かに彼女は可哀想な女であった。自分と一緒になったばかりに。
 あれだけ手に入れたいと思っていた女の苦しむ様は尾形に快楽を与えるのと同時に、それは尾形をも苦しめた。結局尾形は、この幼馴染みの笑みが何よりも好きなのだ。それは幼い頃からずっと変わらない。

 一向にこちらを向こうとしないイトに尾形は言う。

「それでいい」

 尾形の言葉に眉を寄せた。そんな彼女に尾形は口を開く。

「新しい男を作れ」

 そして尾形ははっきりと言い放つ。
 尾形の言った言葉が理解できずしばらくイトはその場で立ち尽くしていたが、その丸い瞳がみるみる内に潤んでいくのが分かった。

「俺のことはもう忘れろ。散々振り回して悪かったな」



◆◇◆



「…………私のことは、もういやなの」

 彼の言葉に、私は絞り出すように呟いた。

「そんなことは言ってねえ。お前だって分かるだろ。俺が今、どんな状況か」

 本当は理解していた。師団を抜けて謀反を起こした百之助さんと共にいても先がないことを。この先夫婦でいても私は帰ってこない彼に苦しむだけなのだ。
 私はぐっと口を噤んだ後小さく息を吐いた。そして低い声で言う。

「最悪。本当にあなた、最低ね。本当に嫌いよ。大嫌い」

 私の言葉がぽつりぽつりとこぼれる。

「ああ」
「何で、そんな…………」
「それから鶴見とは関わるな。もし俺のことを聞かれたら離縁したと言え」

 私の目に再び涙が流れた。何て酷いことを言うのだろうと思う。
 幼い頃から面倒くさくて、すごく怖くて、自分勝手で、色々あったけどずっと一緒にいて、いつのまにか好きになっていたのに。この男も、自分と同じ気持ちであればいいと思っていたのに。

「私、あなたのこと、すごく好きだったのよ。何でか全然分からないけど」

 顔を俯かせてながら言う。

「平屋の家で一緒に住んで、いつか子どもが生まれて、育てて。そんな風に思ってた」

 けれど百之助さんを何一つ理解できないまま終わってしまうのだ。こんなにも好きだというのに。

「もう無理なのね」
「ああ」
「家永さんと駆け落ちするの?」
「する訳ねえだろ」

 私の言葉に彼は嫌そうに顔を歪める。
 ここまでくれば、本当に家永さんとは何もないのかもしれない。もうそんなこと、私の知ったことではないのだが。
 不意に顔を上げると、子どもの頃からずっと変わらない彼の猫のような目と自分の目が合う。

「私、あなたとは離縁しても良いけど、男を作ることはしないわ」

 私がそう言えば、彼は眉をひそめた。

「一生一人のままで、夢見ていた結婚も子どもも諦めて死んでいくの」
「おい」
「あなたにはもう関係ないから口出ししないで」

 そして私は彼に向かってはっきりと言う。

「百之助君が私を捨てたのよ」

 昔のように彼の名を呼び、私は恨むかのように言い放つ。それが彼にとってどれだけ苦しめるものかも知らずに。
 もしかしたら、百之助さんは自身の父を思い出しているのかもしれない。彼の父が彼の母にしたようなことを私にしようとしているのだ。男に捨てられた彼の母と今の自分が重なっているような気がした。

 黙り込む彼に自分でも性格が悪いと思いながら呆れる。そんなつもりで私と別れようとしていないの理解できるものの、何か言ってやらないと気が済まなかった。

「嘘よ。そんなことしないわ」

 そう言った私を百之助さんは表情を変えずじっと見つめている。
 あいかわらず能面のような表情だけれど、その爛々と探るような彼の瞳を懐かしく感じた。幼い彼が私に構う時いつもそんな目をしていた。鍋を作らせる時、祖母のかわりに縫い物を頼む時、そして珍しく喧嘩をした時に私の顔をじっと見つめるのだ。
 それを見ていつも私は仕方がないなあと彼を許していた。

「本当にもう、終わりなのね?」

 そう聞けば、彼は頷く。

「鶴見さんから言われているの。誰か良い人がいたら紹介するって」
「それは駄目だ」

 凡庸な私が鶴見さんと関わっても良いことにはならないだろう。それを百之助さんも思ったのか利用されて終わるだけだと言ってくる。私は素直に頷いた。

「そう」

 脳裏に走馬灯のように百之助さんとの日々が蘇っていた。私のこの先に、彼はもう
いないのだろう。

「最後までずっと我儘なのね」

 百之助さんの我儘に私は何だかんだ付き合っていたものの、しかしそうさせ続けたのは彼の性質だけではないだろう。

「お前がそうさせたんだろう」

 百之助さんがそう言い、私もそれに頷いた。
 甲斐甲斐しくどこまでも甘やかして、彼の中に歪んだ執着心を生ませたのだ。それを私は今となってようやく理解した。
 するとその時、部屋の扉がノックされる。
 私は思わず扉の方へ振り返ると、ホテルのロビーにいるはずの叔母の声がした。おそらく伴を閉めていたため不審に思ったのだろう。

「ごめんなさい。今開けるわ」

 私はそう言って、改めて彼を見据えた。
 これでもう終わりなのだ。

「さようなら」
「ああ」

 幼い彼が病んだ母のために獲ってきた鴨を私が代わりに手にした瞬間から、まさかこんなことになるとは思わなかった。
 そして百之助さんは踵を返し、窓から外へ去っていった。
 ホテルの一室にぽつりと残された私は、もしかしたら最初から自分の人生に彼はいなかったのではと思うほどの虚無感を感じた。







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