それから幾年か過ぎ、私と百之助君は十二歳となった。
幼い頃程の気安さはないがたまに思い出したように彼は私のもとに訪れ、気まぐれに鍋を作れだとか服がほつれたから縫ってくれだとか強請ってくる。それに私は昔と同じように、はいはいと言って彼に付き合うのだった。
そして当時、私は北海道の札幌に住む叔母の旅館へ働きに行かないかと両親から言われていた。どうやら叔母の旅館では人手が足りないらしい。
それを私は受け入れた。私の家には両親の他に兄が一人いて、自分が外に働きに出ても家に兄が残るのなら良いだろうと思ったのだ。それに時折茨城の家に遊びに来る叔母を私は慕っている。
夕飯の支度を手伝いながら母と話していると、ぽつりと母は呟いた。
「百之助君にも札幌に行くの、言っておいた方が良いんじゃないかしら?仲が良かったじゃない」
そんな母の言葉に頷く。元々そのつもりであったのだが、未だにそれを伝えることはできていなかった。
というのも最近百之助君と会っていないのだ。用事がある時に百之助君はふらりと現れるが、それ以外で彼が何をしているのか分からなかった。
この間猟銃を持って山へふらりと消えていくのを見たため狩りでもしているのだろうが………。彼が自分から来ない限り私の前に現れることはなかった。
「でも本当に良いの?北海道なんてすごく遠いのよ?」
母の言葉に平気だと言えば何故か眉を寄せられる。不思議に思い首を傾げれば、母の口からとんでもない一言が飛び出してきた。
「だって百之助君と離れ離れになっちゃうじゃない。イトは百之助君のこと好きなんでしょう?」
「へ?」
そんなさも当たり前だというように言われ、思わず私は声を漏らしてしまう。
百之助君が好き?私が?
「いや、え?そんなことはないけど」
「あら?そうなの?あんなに仲良いのに?」
改めて否定しても当の母はけろっと言ってのける。それに私は言葉を失った。
あれは仲が良いというのだろうか。確かに百之助君に対して私は情のようなものを抱いているが、それは幼馴染としてのものだ。それに幼い頃よりたくさんのわがままを聞いてきた身としては若干の苦手意識もある。
おまけに今はもう落ち着いてきたが、一時期百之助君は私と自身の母を重ねていたのだ。きっと彼も自分の母と重ねていた少女とどうこうなりたいとは思っていないだろう。
「将来二人は結婚しちゃうんじゃないかって思っていたのよ?」
「いや、それはないかなあ」
「ま、結婚はまだ早いわよね」
くすくすと面白がってからかってくる母に苦笑する。
「けど、結婚ねえ………。もし年頃になってもお相手が居なかったら札幌のみっちゃんに頼みましょうかしらね」
いつの間にか私の将来の結婚相手の話にすり替わっていた。ちなみに札幌のみっちゃんとは叔母のことである。
将来の相手だなんて想像がつかないと苦笑するものの母はさして気にした様子もなく、くすくすと笑っていた。もしかしたら私の将来の伴侶になるかもしれない人を思い浮かべているのだろうか。
けれどもし誰かと将来を共にするのならば、あの幼馴染の少年のようにいまいち何を考えているか分からない相手ではなく心穏やかで優しい人が良いなあと思った。
◇
それから数日後、そろそろ百之助君に北海道行きの話をしなくてはと思い彼の家へ行くことにした。おじいちゃん達にはこのことをすでに話しており、百之助君には私から直接話すと彼らに伝えていた。
隣にある彼の家へ行き戸を数回叩く。
すると中からがらりと戸が開いた。
「あ、百之助君」
そこには当の本人が立っていた。運が良いことに彼は家にいたのだ。
「久しぶりだな」
「うん。おじいちゃんとおばあちゃんは?」
「近所の薬屋に行ってる」
そうなんだとこぼし、久しぶりに見る幼馴染の顔を見つめる。
丸い坊主頭はずっと変わらないが、背は伸びて外に出ることが多いのか色白の肌は陽に赤く焼けていた。
少し前まで私よりも小さく華奢であったのに、いつの間にこんなに大きくなったのだろうと思う。
「あがれよ」
玄関先で北海道行きの話を済ませてしまおうかと思っていたが百之助君の誘いに頷き、言われるがまま中へ入って行った。
そして庭の縁側に案内され、そこに腰を下ろせば彼も隣に並んで座る。
こうやって百之助君と話をするのは久しぶりだった。幼い頃はあんなにも一緒にいたというのに。少しずつ離れてゆき今では彼から私のもとに現れない限り会わない日が何日も続くようになった。
「お前の母ちゃんから聞いた。北海道の叔母の所に行くのか」
すると百之助君がぽつりと呟く。
「………聞いてたんだ」
「ああ」
自分から話そうと思っていたのだが、すでに母から北海道の話を聞かされていたらしい。母も百之助君に話したのなら教えてくれれば良いのにと思う。
「北海道は寒いぞ。お前みたいな弱い奴は寒さにやられてすぐにくたばっちまう」
淡々とそう言うのに対して私は思わず苦笑してしまった。それに大丈夫だと答えれば彼はそのままじっと黙り込んでしまう。
もしかして北海道へ行く私を心配してくれているのだろうか。けれどこの子のことだから、その可能性は限りなく低いだろう。それでももし純粋に北海道へ行く幼馴染の私を気にかけてくれているのだとしたら嬉しかった。
「百之助君は会ったことないと思うけど、北海道に住んでる叔母さん、たまに私の家に遊びに来てくれたりしたんだよ」
久しぶりに百之助君と会い、思いのほか話すことができて気分が高揚してしまう。
「自立していてすごく格好いいの。この人のそばで働いてみたいなって思ってたんだ」
最初に両親から叔母の手伝いをしに行かないか提案された時どうしようかと迷った。しかしいずれ私はこの家を出て奉公へ出なければならない。それならば慕っている叔母のもとで働きたいと思ったのだ。
それが嬉しくて顔をほころばせながら語る。百之助君がどんな表情でそれを聞いているのかも知らずに。
「本当に行くのか?」
彼のその言葉に反応し顔を上げる。
けれど百之助君の顔を見た瞬間、私はぞっとした。
幼少の頃によく見かけた焦点の合わない濁った瞳で私を見つめていたのだ。互いに成長し、あまり見なくなったと安心していればこうして再びあの瞳と合間見えてしまう。
おそるおそる頷けば、百之助君はそうかと目を閉じた。
もしかしたらこの子はまだ私を彼自身の母と重ねているのだろうか。最近はめっきりとなくなっていたはずのそれに背筋がぞっと凍る。
するとその瞬間、突然彼に腕を引っ張られた。そして私を押し倒しその上に覆いかぶさってくる。
「な、なに」
その突然の行動に目を白黒させて上に覆いかぶさる彼を見つめた。日の逆光で表情は影がかかってはっきりとは見えない。
何をする気なのかと恐怖していると百之助君が口を開いた。そしてぽつりと呟く。
「…………向こうで旦那でも見つけるつもりなのか」
「だ、旦那?」
しかし百之助君の言った言葉の意味をうまく理解できなかった。何を言ってくるのかと身構えていたのだが、何故私の将来の伴侶になるかもしれない人について聞いてくるのだろう。
ぽかんと呆気にとられ私は目を丸くさせる。
そしてしばらくして、彼の言った言葉の意味を把握して私はふと母を思い出した。
『けど、結婚ねえ………。もし年頃になってもお相手が居なかったら札幌のみっちゃんに頼みましょうかしらね』
もしかしたら母は百之助君に北海道行きの話だけではなく私の結婚話についても言ってしまったのかもしれない。
そんなことまで百之助君に話してしまったのか!
途端に恥ずかしくなり、脳裏に浮かんだ自分の母に物申した。
それと同時に私は今の状態に動揺してしまっていた。幼い頃の百之助君は力も背丈も私と同じくらいであったのに、女の自分では出せないような強い力で引っ張られ押し倒されたのだ。
その時、私ははじめてこの幼馴染が男であるのだとはっきりと理解してしまった。
背丈も高くなって身体つきも変わったのだと分かっていても、目の前で覆いかぶさる彼を見ると改めて大きく見えた。
「ど、どいてよ」
先程までは恐怖で体を縮こませていたものの拍子抜けしてしまったせいか段々と居心地が悪くなる。おまけによく分からない気恥ずかしさも沸々と湧き上がり顔が熱くなった。
しかしそんな私に気にすることなく、百之助君は続けて言う。
「どうせお前のことだ。北海道で旦那を見つけても、外に女でも作られて放っておかれる」
「ええ………」
失礼にも程があるんじゃないだろうか。彼の言葉にふと呆れてしまう。
「百之助君には関係ないでしょう」
そうだ。百之助君には何の関係もないはずなのだ。幼馴染というだけでそこまで干渉される筋合いはない。
私ははあとため息を吐き覆い被さる彼の胸をぽすんとはたく。
「もしそんな風にされたら離縁してやるんだから」
私が弱々しくもはっきりとそう言えば、百之助君はわずかに眉をひそめた。
そしてしばらくその黒目がちな瞳で見つめた後、気分が変わったのか体を起こして私の上からのそりと退いた。
「お前、やっぱり変なところで気が強いよな」
それはどういう意味なのだろう。気は済んだのかいけしゃあしゃあと言ってくる。
こっちは散々怯えたり身構えたりしていたというのに、肝心の本人がこうも飄々としているのを見ると段々と言いようのない怒りが込み上げてきた。
さっきから理不尽すぎる行いに腹が立つし、北海道に行くというだけで何故百之助君から未来の旦那に女ができるとか放っておかれるとか言われなきゃならないのだ。
「お前、もしそういう男と一緒になったら別れろよ。まあ、そもそもそんな相手できないだろうが」
そしてその言葉に私の胸はずきりと痛んだ。
何で百之助君にこうも言われなくてはならないのか。今まで彼に付き合ってきたものの、こうまではっきりと馬鹿にされたことは一度だってなかったのだ。
まして何故か彼にそう言われてしまうと言い様のない悲しみが胸に込み上げた。
「…………もう帰る」
そう突き放すように言って私は彼の顔も見ることもなく足早にその場から立ち去った。この時初めてはっきりと拒絶したのだ。
もしかしたらもう、彼と会えなくなってしまうかもしれない。それを理解していても胸の奥の柔らかい部分をずたずたに引き裂かれたようで、彼の顔を見ることなんてできなかった。
そしてそれ以来、私は百之助君と一度も会うことなく北海道へ渡っていった。
◆◇◆
幼馴染の少女が帰って行った後、尾形は縁側でぼんやりとしていた。
時折発作のように起こることもあるが、今はもうイトを自分の母と重ねることはなくなりつつある。昔は母の面影を彼女に見ていたが、成長しはっきりと自分でものを考えるようになってからは、代わりにふつふつと歪んだ愛情をいつしか抱くようになっていた。
少しの力を入れただけで押し倒されてしまう、あの少女の頼りない体や細い腕を思い出す。
尾形はイトが自分の知らぬところに行ってしまうのがたまらなく歯がゆかった。
← |
→
表紙へ
top