北海道の札幌にある叔母の旅館は街から少し離れた場所に位置し、橋を渡ったその先の川向こうに構えていた。昔炭鉱業で成功したという成金の小さな別荘を叔母が買い取って旅館に改装したのだ。
 白壁に深い藍色の屋根の上品な佇まいに周りには松の木が植えてある。

 ───そんな北海道の札幌で旅館を営んでいる叔母のもとに働きに出て早幾数年。

「ねえ、イトちゃん。良い人いないの?」

 旅館の片隅にある従業員以外は立ち入り禁止の事務室にて。新規客の名前を冊子にまとめていたところ、横で帳簿をつけていた叔母がぽつりと呟いた。
 事務室には現在私と叔母しかいないため彼女の声がよく響く。

「いや、それがいないのよね………」
「そう?まあ、そういうのに困ってないならとやかく言うのは野暮だけどね」

 叔母があっけらかんとそう言った。
 小さな鼻に狐のような目をしたきつい印象の美人の叔母は数年前に事故で夫を亡くし再婚することなく一人で生きている。
 叔母のその言葉に苦笑しながら何とでもないような顔をして私は再び冊子に視線を戻した。

 しかし叔母の話した内容がぐるぐると頭の中で回る。表には出さないが、私は最近それを一層気にしていたのだ。
 北海道に来てからというものの仕事ばかりしていたためか男っ気はなく、たまに言い寄られ良い雰囲気になったとしても相手に他に女ができたりするなどしていつも駄目になるのだ。
 いつまでもこのままではいかないと理解しながら、それから縁もなく日々を淡々と過ごしていた。

 すると叔母がぽつりと言う。

「知り合いに良い人がいるんだけど、良ければ紹介しようか?」
「ぜ、ぜひ」

 それに私は食い気味に答えた。
 しかしそれ程までに私はこの出会いのない現状に焦っていたのだ。結婚し子どもが欲しいと思っていたのもあるが、お節介焼きの旅館の客人や近所の住人から良い人はいないのか、結婚はしないのかと度々言われるのがたまらなく嫌であった。

 そんな私の様子を見た叔母が愉快そうに笑い出す。そして叔母がおもむろに机の引き出しから一枚の写真を取り出した。

「この人よ。この人。一応写真用意しておいたの」

 準備してくれていたのかと思いながらその写真を見れば、そこには眼鏡をかけた優しそうな印象の男がいた。良いと思う。いや、すごく良い。穏やかで優しそうだ。
 かすかに微笑む写真の相手をじっと見ていれば、叔母は少しだけ笑いながら私に言った。

「町の役場で働いていて、趣味は読書と散歩だってさ。周りの評判も良くて、先生って呼ばれてるみたいだよ」
「先生?」
「休みの日に、たまに近所の子らに勉強見るんだって」
「へえ………」

 そんな叔母の言葉に私はほうと息をつく。
 まるで幼い頃から思い描いた理想の男性像そのものじゃないだろうか。将来はこんな人と一緒になりたいと昔から思っていた。
 穏やかで優しい男と結婚できたらと少女特有の夢をずっと抱いていたのだ。それがまさか叶ってしまうかもしれないとは。私には勿体ないくらいの人である。

「良い人そうだわ」
「ええ」

 思わずぽつりと呟くと、それを叔母が微笑ましそうに私を見つめて頷いてくれた。



 ◇



 しかしその数日後、叔母が申し訳なさそう顔をしながら私に謝ってきた。

「ごめん!お相手さん、実は親しい人がいるみたいなのよ………」

 仕事もひと段落して休憩室で茶を飲んでいたところ、慌ただしく叔母が現れた。
 それに私は思わずぽかんとする。しかし叔母の言葉を聞いて、この見合い話は破談になったのだと理解した。

「あ、そうなんだ。全然気にしてないから平気よ」

 むしろ気を使わせてしまって申し訳ないとでも言うように明るく言ってみせる。
 けれどやはり期待していた分落胆も大きく胸の内では残念だと項垂れていた。やはり良い人にはすでに恋人がいるものなのだろう。そういう人はみんな放っておかないのだ。

「それにしても、イトちゃんも隅に置けないねえ」

 内心落ち込む私に対して叔母は眉を下げながらも何故かにやにやと笑みを浮かべて言う。
 それに首を傾げると叔母は一通の手紙を着物の懐から取り出し掲げてみせた。

「実家からお手紙よ。私宛でもあったから先に読ませてもらったけど」

 叔母にその封の開いた手紙を渡されそれの宛名を見る。そこには茨城にいる自分の両親の名前が書いてあった。



 ◇



「久しぶりだな」
「ええ、本当に」

 ───何年か振りに会う幼馴染の男、尾形百之助が私の目の前にいる。それに私は顔を引きつらせていると、彼はそんな自分を見て軽く笑った。

 札幌にある老舗の料亭の一室で私は彼と、そして彼の上司であるらしい壮年の男と対面していた。私の隣には叔母もおり、彼女はそんな私達を見て何を勘違いしているのか仲が良いみたいねところころと笑っている。

 何でよりによって、この男が………。

 婚約者としてやって来た百之助君に、私はくらりと眩暈がした。
 叔母や両親から送られてきた手紙によれば、兵学校を卒業した彼は北海道へ移動することになったらしい。
 そして北海道に渡る直前、私の見合い話を茨城にいる私の両親から聞いたそうだ。
 私と唯一親交をもつ男である彼が雰囲気のある男に成長し、自分の娘なんぞ相手にされないだろうと思っていたらしい。そんな彼に世間話のつもりで私の見合い話を話したところ、そこで自分ではだめかと手を挙げたそうだ。
 あの尾形百之助が、だ。

 どういう風の吹き回しだと膝を合わせてこんこんと問い詰めたいところだが、彼の付き添いの上司や叔母がいる手前それもできない。精一杯の余所行きの笑みを貼り付けて対面していてもどうしても顔が引きつってしまう。

 そして彼の上司と叔母があとは当人同士で話しなさいとばかりに去ってしまい私達は部屋にとり残されてしまった。そこでようやく体の力がふっと抜けて、溜め込んでいた息を吐いた。

「何でここにいるのよ」

 人の目が無くなって遠慮なく百之助君に言う。
 すると彼はにやにやと笑いながら、私と同じように格好を崩した。

「どうやら男に逃げられたそうじゃないか」

 いけしゃあしゃあと言ってのける彼に思わず眉を寄せる。
 どこでそれを聞いたのかと聞きたいが、おそらく叔母か私の両親から聞いたのだろう。きっとわざと私の癪に触るような言い方をしているのだろうが、それが分かっていても苛立ってしまう。
 私はむっとしながら言った。

「相手に恋人がいたのよ。逃げられたわけじゃないと思うわ」

 彼の相変わらずな物言いに反論する。決して逃げられたとかではない。最初から相手に恋人がいたのにも関わらず、それを知らなかった周りが勝手に話を進めていただけである。あわよくば見合い相手と一緒になれたらと思い落胆したものの恋人がいるのならば仕方がない。
 写真でしか見たことはないが叔母から相手の評判は何度も聞いた。そんな立派な人にはさぞ素敵な恋人でもいるのだろう。

「………穏やかで優しそうな人だったから、きっと誰も放っておかないわよね」

 けれどやはり、未だにそれは私の胸に突っかかっており、ぽつりと吐き出した。

 すると百之助君はぶっきらぼうに言った。

「お前、人を見る目ないな」
「え?」

 その言葉に首を傾げれば、彼は不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「そんな絵に描いたような男いるはずないだろう。ああいう輩に限って裏はある。先生と呼ばれるのも稚児趣味があるのかもな」

 淡々とそう言う彼に思わず聞く。

「知り合いなの?」
「いや、知らん」

 知らないのか。随分と知った口ぶりで言うものだからてっきり知り合いかと思ってしまった。全て彼の想像で言ったことだと分かり眉をひそめる。

「それは、少し失礼だと思うけど………」

 知らない相手に対してよくそこまで言えるものだ。私自身も評判だけ聞いて穏やかだの優しいだの勝手に想像している身分なだけに同じなのだが、彼の発言は流石に失礼すぎる気がした。

「あれと添い遂げたってお前は幸せにならんと思うぞ。評判の良い男は周りに女が寄ってくる。その内女ができて放っておかれるだろう」

 その言葉に私はずっしりと胸が重くなる心地がした。百之助君がどういうつもりでそれを言ったのかは分からないが、今の私にとってその言葉はひどく堪える。
 私が好きになる男はいつもそうだった。一緒にいてつまらないと言われ、他に女を作られて捨てられる。
 昔、北海道に行く前に幼い百之助君から言われたことを思い出す。

『北海道で旦那を見つけても、外に女でも作られて放っておかれる』

 きっと、自分の何かが駄目なのだろう。だから結局、私の好きになった男は自分のもとから離れて行くのだろう。

「最悪ね………」

 何だか虚しくなってしまう。そして自分が嫌になってしまい吐き出した。
 するとそれを聞いた百之助君が眉を寄せた。

「未来の旦那にそれは失礼なんじゃないのか?」

 どうやら彼は自分に対して言ってきたのだと勘違いしているらしい。そんな自尊心の強い彼に辟易とする。
 おまけにこんなに失礼で過去に因縁がある男とこれから添い遂げると思うと私は嫌で嫌で仕方がなかった。人並みに恋愛をしてみたいと思っていたが彼とだけは懲り懲りである。

「知らないわよ。この話は破談よ。破談」
「おいおい。あの叔母の顔に泥を塗らせるのか?お前の両親だってあんなに喜んでた
のに」

 彼の言葉にかちんとくる。やはり百之助君にはいちいち腹が立つ。久しぶりに会ったと思えば、この言い草だ。

 そこでふと私は茨城に住んでいた頃のことを思い出した。小さい頃は自分の思い通りにならないと黙って睨みつけてくるだけだったが、彼は大きくなるにつれて拗ねたように嫌味を言うようになっていったのだ。
 そしてそれは今も変わっていないのだろう。むしろ大人になって口が達者になった分、もっと厄介になった気がする。

 けれど私も成長したのだ。昔は大人しく従っていたが、この面倒臭くていけ好かなくて女心を何一つ理解しない幼馴染に対して何か一言言ってやろうと思った。

「百之助君、いや、百之助さんって昔っからそういうところが子どもっぽいのよね」

 すると彼の顔から表情が消えた。それに私はふいと目を逸らす。
 嫌な汗が額を流れるが、これぐらい言ってやっても良いだろう。私も十分子どもらしいところはあるが、今はそれを棚にあげて言ってやった。
 ちらりと再度彼の顔を覗いてみれば、口が弧を描いていたが肝心の目は笑っていなかった。相変わらず短気な男だ。昔から私が口答えするとすぐにむきになって不機嫌になる。そういうところが本当に子どもっぽいのだ。

 そしてそのすぐ後、見合いの席だというのに私達はそこで軽い口喧嘩を勃発させることとなる。



 ◇



 けれどもこの話は破談になることなく順調に進み、私と百之助君、いや、百之助さんは小樽の住宅街にて買った平屋の一軒家で共に暮らすこととなった。
 その際、あんなにも面倒くさくややこしい男だと思っていたのだが思いのほか彼は優しかった。一体何をされるのかと身構えていたものの、その落差に拍子抜けしてしまう。

 そして私も、幼馴染ということで見栄をはったり無理に背伸びをしたりする必要もなく彼と共にいて居心地が良いとさえ思うようになっていた。たまに言い争いなどはするが、彼と軽口を叩き合うのが何だかとても楽しかったのだ。
 少しずつ私は彼のことを愛おしく思うようになっていた。

 ───しかしその直後、戦争が始まってしまった。








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