戦時中は製糸工場で働いた。
 時折手紙を書いては百之助さんのもとへ送ったのだが、彼がそれを読んでくれていたのかは分からなかった。彼からの手紙の返事は来たことがなく、きっとそれどころではなかったのかもしれない。

 そして戦争も終結し百之助さんは私の待つ家へ帰ってくるかと思えば、数日帰ってきただけで彼は兵舎に戻ってしまった。
 理由を聞いても決して教えることなく、はぐらかすのみ。
 百之助さんがわずかにいた数日、ぽつりと言ったあの言葉が忘れられない。

『───弟に会った』

 彼のその複雑な家庭を私は知っている。妾の子として産まれた彼と違い、本妻の子として生まれ愛されて育った腹違いの弟。どうやら軍でその弟に会ったようだった。

 戦争から戻ってきた百之助さんは以前とは明らかに違っていた。感情はより削ぎ落とされ、まるで底の知れない幼少のあの頃に戻ってしまったかのようだった。
 そして私は工場をやめ、縫い物の内職と彼から月始めにくる給与から生計を立てて今日まで暮らしてきた。



 ◇



 札幌の駅に着けば、そこには叔母が待っていた。聞けば百之助さんから電話で朝一の列車に乗って私がやって来るということを伝えていたらしい。
 いきなり来てしまったことを謝れば叔母は首を振った。

「本当に久しぶりね。元気だった?」
「ええ。叔母さんは?」
「私はずっと変わらないわ。病気もなくぴんぴんしてる」

 旅館を切り盛りしている叔母は今もとても若々しい。旅館を出ても大丈夫だったかと聞けば、現在改築している最中で営業はしていないらしい。

 駅前に停められていた鉄道馬車に乗り込み、私はそこでようやくほっと息ができたような心地がした。
 馬車の上からぐるりと周りを見渡せば、札幌の街並みは自分が住んでいた頃と然程変わっていなかった。赤煉瓦造りの建物が並んでおり、往来の隅には連日振り続けている雪が積もり溜まっている。

「でもびっくりしたわ。百之助さんから急に電話があって」

 叔母が苦笑しながら言う。

「軍の方で揉めていて被害が及ぶかもしれないって聞いたわ。訳ありみたいだけど大丈夫なの?」

 それを聞いてどう答えればと一瞬思案した。
 彼は大丈夫なのだろうか。私自身も百之助さんが今どうなっているのか詳しくは分からない。そんな中で叔母に不用意に言うのも憚られ誤魔化すように言った。

「平気だと思うわ。全部済んだら帰ってくるって言ってたし」

 そして笑ってみせれば叔母は心配そうにしながらもそれ以上は聞いてこなかった。

 ───改築中の旅館につき叔母が寝泊まりしている離れの一室を借りた。
 荷ほどきをしながら、私はそこで列車の中で振り返っていた幼馴染との記憶をぼんやりと思い出す。
 そして一つの言葉が私の脳裏をかすめた。

「離縁か………」

 随分と昔に幼い自分が言った言葉が蘇る。

『そんな風に扱われたら、離縁するよ』

 外に女が出来て放っておくような男が旦那になったら離縁する。確か私が十二歳の頃に言ったのだ。
 今の今まで私自身も忘れてしまっていたが、きっと百之助さんもその言葉を忘れてしまったのだろう。でなければここまで自分の妻を待たすはずがない。戦争が終わって一年は待った。今度は何ヶ月、いや何年待たなくてはならないのだろうか。
 彼を待っている間、あの小樽の住宅街で様々な声が私の耳に入った。

『あそこの尾形さん、旦那さん帰ってこないらしいわよ』
『女でもできてるんじゃない?結婚したばかりなのにねえ』
『子どももいないんだってね。尾形さん、一人で可哀想』

 街を歩けばそんな言葉が不意に聞こえてしまう。
 周りからの悪意はなかったものの同情されて言われていたからこそ、それはがりがりと私の心を削っていった。
 そして私と同じくらいの歳の女が旦那らしき男と子どもを連れて歩いているのを見ると胸が痛んだ。自分だってもしかしたらあんな風になれたかもしれないのだ。

 しかし彼にそういったことを期待するのは難しいだろう。それを思ってはあと大きなため息を吐いた。離縁し、新しい旦那と巡り合って、子どもを作る。百之助さんと別れたらそんな未来が訪れるのだろうか。
 するとその時、部屋の戸の向こうから叔母の声が聞こえた。

「荷ほどき、終わったかしら?」

 そう言って叔母は部屋に入ってくる。
 考えごとをしていたものの手は動かしていたため、ほとんど作業は終わっていた。
 それに頷けば叔母はぱっと笑みを浮かべる。

「良かった!申し訳ないけど七草亭の饅頭を買ってきてくれない?」
「ええ、分かったわ」

 結婚するまでこの札幌に叔母とともに住んでいた。そのため近辺の地理は大体把握している。七草亭と聞いてすぐそばにある菓子屋だと理解した。
 そして叔母はついでに散歩もしてらっしゃいなと笑って言った。

 ───多分、気を使ってくれたのかもしれない。
 先程の叔母の様子を思い出しながらふと思う。きっと気分転換がてらに外の空気でも吸ってこいとのことだろう。
 叔母の気遣いにありがたく思いながら、改めて目の前に広がる札幌の街を見つめた。
 札幌の中心街から少し離れた商店街では店が並び、どこからかあぶった餅の匂いや焼いた魚の脂の匂いが鼻をかすめる。往来には人が賑わっており、その間を縫うように歩きながら周りを見渡した。

 するとその時、少し離れた道の隅で一人の女性が蹲っているのに気付いた。人の混み合う往来でそこだけぽっかりと穴が空いたように避けられている。
 近づいてみれば?蹲る彼女の周りには果物や野菜がいくつも転がっていた。どうやら持っていた布袋から果物や野菜が地面に散らばってしまったようだ。
 周りの人々は買い物途中でどこか忙しなく、それを横目で見て通り過ぎていくだけだった。
 そんな彼女のもとへ近寄る。

「大丈夫ですか?」

 散らばったそれらを拾っていた女性が振り返る。大きな目と口元のほくろが色っぽい、美しい人だった。黒色の洋装がとてもよく似合っている。そして彼女の小さな耳についた大ぶりの赤い石のイヤリングがきらりと光った。
 どこか浮世離れした迫力のある美人に驚く。

「拾うの手伝いますね」

 目を丸くさせる彼女に声をかけ一緒になって地面に散らばったそれらを拾った。
 すると彼女は女性にしてはわずかに低い声で小さく礼を言った。

「ありがとうございます。お恥ずかしながらつまずいてしまって」
 
 恥ずかしそうに目を伏せる彼女の洋装を見て、なるほどと納得する。
 丈が長く鈴蘭の花のようなふんわりとした形のドレスはこの人混みの中ではきっと歩きづらかっただろう。
 しばらくして地面に転がってしまった果物や野菜を全て拾い上げ布袋の中に仕舞えば彼女は改めて礼を言った。

「本当にありがとうございました」

 じっと見つめられながらそう言われ、いえと首を振る。
 こうして真正面から見ると本当に目の前の女性は美しく緊張してしまった。

 それにしてもこの令嬢のような雰囲気の彼女が使用人のように大量の食材の入った布袋を持つ姿は少しだけ違和感があった。その細い腕のどこにそんな力があるのだろうと不思議に思う。
 そしてそのまま立ち去ろうとすれば、彼女は囁くように呟いた。

「あなた、綺麗な髪をしてますわね」
「え?あ、ありがとうございます」

 突然そう言われて足を止める。
 気にしたことはなかったが、自分の髪は他の人よりも黒く艶やかであった。光の加減で緑色に光るそれを昔から褒められていたのだ。今は髪を一つに編んでおり後ろにおろしている。
 しかし何故いきなり髪のことを言うのだろうかと不思議に思っていると、彼女はごく自然な動作で私の髪を触れてきた。
 それに私は驚いてしまいとっさに距離をとった。

「あらやだ、私ったら!いきなり触れてごめんなさい」

 彼女はそんな私の様子を見て我に返ったのか、ぱっと手を離す。

「あ、いえ、すみません。私もびっくりしてしまって」

 慌ててそう言えば彼女はほっと安堵したようだった。
 人懐こいだけなのかもしれないが、それにしては距離があまりにも近いのではと思う。
 笑みを浮かべながらも内心身構える私に気付いていないのか、彼女は思いついたとばかりに目を輝かせた。

「そうだ。もし良かったらお礼をさせてくれないかしら?私がやってるホテルがあるのだけど、そこでお茶でもどう?」

 すぐそこにあるの、そう言って指差す彼女のその先を見れば『札幌世界ホテル』と看板にかかれた建物があった。本当にすぐそこだった。
 しかしまだ叔母の使いの用事を済ませていない。お茶までしていたら流石に時間がかかり過ぎて叔母が心配するかもしれない。
 そう思って私は彼女の誘いを断った。

「すみません。用事がありますので」

 すると彼女はそう、と残念そうに引き下がる。

「私は家永カノよ。いつでもいらしてくださいね」

 それに私も自分の名を名乗って彼女の言葉に頷いた。彼女は私のその様子に満足そうに笑い、待ってますわねと言った。



 ◇



 商店街にある、そこだけ時代を切り取ったかのような一際古い建物が老舗銘菓店七草亭である。もうすぐ師走になるためか店内も人が多く混み合っており、若草色の揃いの割烹着を着た店員らも忙しそうにしていた。

 そして叔母から頼まれた七草亭の炙り饅頭を注文し包みに入れられるのを店内の隅の方で待っていた。そこでぼんやりと先程のことを思い出す。
 家永カノと名乗ったあの目の覚めるような美女のことだ。
人を寄せ付けないような美しいあの女性がするりと私の髪を触れたのには驚いた。

『もし良かったら、お礼をさせてくれないかしら?私がやってるホテルがあるのだけど、そこでお茶でもどう?』

 彼女の言葉が脳裏をかすめる。彼女の指した先のホテルは私が札幌に来た十二歳の頃からあったものだ。目新しく洒落た西洋風の建物に観光客は昔からよく足を運んでいた。
 しかしそこでふと思う。確かあのホテルは老夫婦が二人で経営していたはずではなかっただろうか。私が一年前に札幌にいた時、ホテルには家永カノという女性はいなかった気がする。

 あんな美しい人がいたらそれこそ噂になっているはずだろう。老夫婦と彼女の関係は何なのか、そして何者なのかと思った。









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