それから一ヶ月後。

 旅館の改築作業も順調に進み、叔母の話によればあと数週間で終わるそうだ。旅館の営業再開に向け、得意先へ葉書を用意したり従業員の呼び戻しの連絡等をしたりしている間に時間はあっという間に過ぎていった。

 あれから百之助さんは一切姿を見せなかった。
 そして彼からの手紙も電話も何もこなかった。百之助さんの所属していた第七師団のもとへ訪ねようかと思ったが、この件について深く追求しても良いのだろうかと踏み留まってしまう。

 彼自身は軍を抜けたと言っていたものの、私は未だにそれを信じきることができなかった。もしかしたら彼は秘密裏で何らかの任務についている可能性だってあるかもしれないのだ。
 それを考えてしまうと私は雁字搦めになったように何もできず心はゆっくりと磨耗していった。



 ◇



 久しぶりの休日に、私は札幌で働いていた頃にできた友人と会う約束をしていた。
 待ち合わせの茶屋でぼんやりと待っていると、しばらくして友人はやって来た。
 そして私の顔を見て、彼女はぱっと笑みをこぼして口を開く。

「久しぶりねえ。元気だった?」
「ええ。久しぶり。そっちはどう?」
「全然!うちの子達の元気が有り余っていてこっちはくたくたよ!」

 そういってからりと笑う彼女は八重という。八重は商店街にある床屋の娘であり、私が札幌に住んでいた頃いつもその床屋で髪を整えてもらうことから知り合うようになったのだ。彼女は現在二人の子どもがおり、子ども達は今は母の実家に遊びに行っているらしい。
 八重は近くにいた店員にみたらし団子を頼み、軽快に話し出す。

「それにしても珍しいわね。誘ってくれるなんて」

 そんな彼女の言葉にそんなことないわよ、と笑って返した。
 ただ最近、ぽっかりと胸が空いたような気持ちがして仕方がないのだ。その虚無感からか、誰かと一緒にいたいと思うようになっていた。

 それから彼女と近況を語り合い、少女の頃に戻ったかのように話に没頭した。専ら内容は八重の産んだ二人の子どもについてだが私はそれが楽しく、そして半ば羨ましく思いながら耳を傾けていた。

「ところで大丈夫なの?百之助さんとうまくやれてる?」

 話も一段落し八重が聞いてくる。百之助さんと聞いて私はぎくりとした。
 八重は以前、百之助さんに会ったことがある。戦前、私と彼が新居の見学をしていた時に、偶然小樽へ買い物に出掛けていた彼女と会ったのだ。
 そこで百之助さんに八重を紹介したわけだが、彼は気分が乗らなかったのか珍しく猫を被ることなくどこか素っ気ない態度で対応した。そしてそんな彼の様子に八重は眉をひそめ、私は大層困ってしまった。

 そんな彼らはきっと互いに良い感情を持っていないだろう。もしかしたら気が強い者同士合わないのかもしれない。その後八重から本当にあの男と一緒になるのかと何度も心配された。

 そして八重は今も心配し、どこか怪伬そうな顔をしている。そんな彼女に私は言葉を濁した。

「うまくというか、喧嘩はしたりしないわね」

 うまくやれていることが喧嘩をしないということに繋がるとは限らない。それを八重も思ったのか納得していない様子で顔を歪めた。本気で言っているのかとありありと顔に書かれている。
 そんな八重に私は思わず噴き出してしまった。

「まあ、それで良いのなら良いけど………」

 八重が呆れたように私を見ながら言う。呑気に笑う私に何を言っても無駄だろうと思ったのかもしれない。

「イトは相変わらず………。そんなんで札幌で暮らしていけるのかしら」
「というと?」
「最近、ここら辺治安が悪くなってきてねえ」

 その言葉に首を傾げる。そんな私の様子を見て、八重は言った。

「知ってる?最近観光客が行方不明になってるの」
「そうなの?」
「そうそう。最近人の出入り激しいのよね。だからそれに乗じて誰がどこで何があったのかわからなくって犯人も見つかってないみたい」

 彼女の話を聞くところによると、数ヶ月前からこの札幌近辺で人がふらりと消えているらしい。観光客を狙った犯行らしく、噂では遊郭や炭鉱に売られていったのではと囁かれているそうだ。

 そこでふと私は叔母から暗くなる前に帰ってくるようにと言われていたことを思い出す。叔母からそんな話を聞いたことはなかったものの、私の現状に気を使って表立って言わなかったのかもしれない。

「見ない顔がどんどん増えてきたし治安も悪くなるし。ここも変わっていったわよねえ」

 八重がはあとため息を吐く。
 全く変わっていないと思っていた札幌の街にそんなことが起こっていたとは。不安に思いながらも、私はそれをどこか他人事のように聞いていた。



 ◇



 友人の八重と別れ一人帰路につく。空は赤く染まり影法師がゆらりと地面に伸びていた。

 そしてその道中にて、コート(当時でいう東コート)のポケットに手を入れれば、こつりと何かが指先に当たった。
 手にとって見ればコートのポケットから片方だけのイヤリングが出てきた。色ガラスか宝石か、どちらかは分からないが大きくて美しい赤い石がはめ込まれた豪奢なイヤリングである。

 叔母か、それとも先程会った友人の八重のものか。そう思ったが叔母は耳が痛くなるといってイヤリングはしないし八重もアクセサリーには興味がない。誰のものだろうか。

 そう思いながら再びそのイヤリングをポケットに仕舞った。身に覚えのないはないものの一度叔母に尋ねてようと思ったのだ。

 そしてそのまま歩を進める。
 するとその時、建物の角から突然一人の少女が飛び出してきた。

「えっ」

 私と少女は互いの存在に気付いたが、止まることができずそのままぶつかってしまう。
 そしてその反動で地面に尻餅をつく。向こうは体重の軽い子どもであるため、私よりも勢いよく地面に転がってしまった。
 それを見て私は慌てて立ち上がり、その少女に手を差し出した。

「ぶつかってごめんなさい。怪我はない?大丈夫?」
「すまない。私が走っていたから………。そっちこそ怪我はないか?」

 そして少女は平気だと頷く。
 私は彼女を起こして砂埃を払った。しゅんと落ち込み申し訳なさそうにする少女に本当に大丈夫だと笑ってみせれば、彼女は少し安堵したようである。私の方こそ前をよく確認していなかったのだ。それについて謝れば、少女は少しだけ笑って首を横に振った。

 そしてそんな彼女の衣服に施された、見事な刺繍の文様を見てふと気付く。
 まだあどけない、可愛らしいアイヌ民族の少女だった。

 街ではあまり見かけないアイヌにふと先程一緒にいた友人の言葉を思い出す。最近札幌で人の出入りが激しいと言っていたが、まさかアイヌの子どもまでとは。時折街にやって来る彼らの大人達の姿しか見たことがなかった。

 それにしても、アイヌの子どもが一人でいるなんて珍しい。少女の周りには保護者の姿が見当たらなかった。まだ日は出ているが、もうそろそろ暗くなり一人で出歩くには危ないだろう。先程八重から聞いた行方不明事件のこともあるため、この少女が心配だった。

 するとその時、その少女に向かって駆け寄ってくる一人の男性がいることに私は気付いた。

「アシリパさん!」
「杉元」

 顔に目立つ傷跡を残した、体格の良い男性だ。
 アシリパと呼ばれたこの少女の知り合いなのか心配そうな顔をしている。
 この少女が一人でなかったことにほっと安堵し、おそらく保護者であろう男に声をかけた。

「すみません。さっきこの子とぶつかってしまって………」
「いや、私が走ってぶつかったんだ」

 私と少女が互いに言えば、彼はは大体の状況を把握したらしい。そのまま苦笑した。

「走ったら危ないだろ、アシリパさん。姉ちゃんも悪かったな」

 それにいえ、と首を振れば杉元さんの顔が和らいだ。顔の傷から近寄りがたい雰囲気があるものの、笑うとまるで仔犬のように幼くなる彼の顔に私はつい頬が緩んでしまう。

「じゃあ、行くか。アシリパさん」
「ああ」

 そうして二人は軽く会釈して、そのまま去って行った。






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