ぼんやりと昔の夢を見ていた。戦争が終わり、百之助さんが私のもとへ一時的に帰ってきた時のことだ。
 駅に迎えに行けば、ちょうど列車から降りてきた彼を見つける。混み合う駅のホームにて、人の合間を縫って近寄れば、向こうも私に気付いて顔を上げた。

「お帰りなさい」
「ああ」

 久しぶりだ。小綺麗にしてはいるが、少しやつれた様子だった。
 すると百之助さんは私の手を取ってさっさと歩き出す。人の多い駅から早く出たいようだった。それに苦笑していれば彼はじっと見つめてきた。

「な、何?」
「いや、久しぶりだと思ってな」

 まじまじと自分を見つめる彼に私は笑う。

「私の手紙、読んだ?」
「読んだぞ」

 少しおかしくなってしまい笑いながらそう聞けば、百之助さんは表情も変えずにさらりと言う。

 本当だろうか。戦争に行った彼に向けて書いた手紙をきちんと読んでくれたのだろうか。彼があまりにも淡々と言うものだから少しだけ信じられなかった。百之助さんは昔から飄々としていて、たまに意味のない嘘をつくのだ。
 けれどもうそれは今の私にとってどうでも良かった。

 駅を出て、街の往来を歩きながら私は思ったことをそのまま口にする。

「良かった。本当に。生きて帰って来てくれて、本当に良かった」

 目頭が自然と熱くなる。この隣にいる生意気で面倒くさい幼馴染に涙こそ見せまいと思いつつも、いつのまにか目は潤み、声はかすれてしまった。
 この男の異常さは理解しているものの、やはり彼のことが好きだったのだ。
 繋いでいる手の力が自然と強くなる。

「ああ………」

 するとその時、私は彼の様子がおかしいことに気付いた。人気の少ない道路にて彼が急に立ち止まる。

「どうしたの?」

 寒々しい木枯らしが吹く。灰色の雲に覆われた空は今にも雨が降りそうだ。
 深く被った軍帽で彼の表情が分からない。私がどうしたのだと尋ねれば百之助さんはぽつりと呟いた。

「───弟に会った」

 その言葉に私は目を見開く。そして弟と聞き、ふと脳裏を過ぎったのは随分昔におばあちゃんから聞いた彼の複雑な生い立ちだった。
 本妻の女との間に男児が生まれた途端、父親は彼らのそばに寄り付かなくなったらしい。その本妻の女との間に生まれた腹違いの弟に軍で会ったのだろう。

 分厚い雲の合間からわずかに日の光がこぼれる。
 それにより見えた彼は幼少の頃の私がいつも怯えていたあの目をしていた。



 ◇



「おい起きろ!姉ちゃん!」

 朦朧とした意識の中、不意に誰かの声が耳に飛び込んできた。
 はっと目を覚ませば、何故か坊主頭の男が目の前にいる。状況が分からず目を白黒させていると彼はほっとした様子で息を吐いた。

「良かった。目を覚ましたか」
「あの………?」

 慌てて立ち上がろうとすれば、その瞬間自分の身動きがとれないことに気付いた。
 自分の両手が鎖によって縛られていたのだ。おまけに辺りを見渡せば、部屋には鉄製の拷問道具がずらりと並んでいた。
 赤い蝋燭の光に照らされた数々のおぞましいそれらに私は顔を青ざめさせる。
 何でこんなところに………。そう思ったものの、私は家永さんから出されたお茶を飲んだ後から記憶がなかった。もしかしたら彼女によって拘束されてしまったのだろうか。

 するとその時、大砲を打つような轟音が横から聞こえてきた。
 真横を振り向けば、そこには十字架型の巨大な台座を扉に向けて振り上げる熊のような大男がいた。彼は白目を剥き一心不乱に扉を壊そうとしている。

「ああ、あれは気にすんな。あいつ、姉ちゃんが大人しく寝てたから気付いてねえみたいだけど、あんたに気付いたら襲われちまうかもしんねえぞ」

 その異様な光景に私はさらに顔を青ざめさせれば目の前にいる坊主頭の男がこそこそと言う。
 それから彼は爪楊枝程の細い針金をどこからともなく取り出し、ごく自然な動作で私の鎖についた南京錠をいじり始めた。
 そして私が驚く暇もなく、あっという間に伴を開けて鎖を解いてしまう。

「ほらよ」
「あ、ありがとうございます」
「姉ちゃん、立てるか?」
「は、はい」

 手を借りて何とか立ち上がるものの、ふらりと体がよろめいた。体は気怠く頭もずきずきと鈍く痛む。家永さんに飲まされたであろう薬の影響がまだ残っていた。
 するとその時、一心不乱に扉を破壊しようも台座をぶつけていた大柄な男性がついにその扉を破り、どかどかと走り去って行ってしまった。
 それを呆然と見送った後、私は冷や汗をだらだらと流しながら目の前の男に向けて疑問を投げ掛けた。

「あの、これは一体どういう状況なんですか?あの人は?そもそもあなたは?それから家永さんは?」

 あまりの訳の分からなさにいよいよ混乱して目の前の男に詰め寄ってしまう。さっきから意味が分からないのだ。
 そんな私に彼は苦笑する。

「あいつは牛山。俺は白石。それから家永はどっか行った。ここまでは良いか?」
「はあ」
「まあ、言いてえことは色々あると思うがさっさと逃げるぞ。とりあえず背負うからしっかりつかまっとけ」

 え、と思ったのも束の間。自分のことを白石と名乗った男は私に向かって背を向ける。どうやらおぶされとのことらしい。
 どういうことか聞いてみれば、彼はこの部屋を天井にある穴から出ようとしているそうだ。

「さっきの男性が壊した扉から逃げないのですか?」
「あいつが逃げた先に罠があるかもしれねえだろ?それなら天井から逃げた方がまだましだ。俺はあそこから落っこちたから仕掛けが無いのはすでに分かってる」

 そうなのか、と私は納得し申し訳なく思いながらも彼の背に乗った。───余談ではあるが、あの牛山さんとやらが出て行った先に安全に逃げ出せる道があるわけでもなく数々の罠や出口不明の迷路のような隠し通路が存在していたらしい。天井の穴から脱出するという白石さんの判断が正しかったということを後々私は警察から知ることとなる。

 白石さんは私を背負っているにも関わらず、軽い身のこなしで天井の穴に向かって登りだした。

「あ、ありがとうございます。あの、それでここは?」

 そう聞けば、彼は答える。

「ホテルの地下だ。姉ちゃんはどこまで覚えてんだ?家永の知り合い?」
「はい、最近知り合って………。確かいっしょにお茶を飲んでいたら、いつの間にか記憶が途切れていて」
「なるほどな」

 そして彼も事の顛末を話し出した。家永さんによって気絶させられ、この地下で監禁さられたと。

「家永さんは何でこんなことを………」

そう呟けば白石さんは苦笑する。

「あいつとは俺も知り合いだが………。ま、知らねえ方が良い。今は逃げ出すことを考えようぜ」

 そして白石さんは天井の穴を登りきり、地下から一階の廊下らしき場所へ出た。

「よっと」

 背から下ろしてもらい改めて礼を言えば、彼は少し焦った様子で口を開いた。

「姉ちゃん、こっから一人で逃げれるか?」
「え?」

 てっきりともにこのホテルから脱出すると思っていたが違うのだろうか。

「あなたは逃げないのですか?」

 そう聞けば、白石さんは首を振る。

「まだ俺の連れがホテルにいるんだよ。そいつらに家永のことを教えなきゃなんねえから」

 それは大変だ。もしかしたら今も白石さんの連れの人が家永さんに襲われようとしているのかもしれない。それならば一刻も早く行ってあげた方が良い。まだ体を思うように動かすことは難しいものの、ホテルから逃げ出すことくらいできるはずだ。
 平気だと頷けば、白石さんはほっとした表情をした。

「気を付けてな」

 そして彼はその場から風のように去ってしまった。
 白石さんと別れた後、私は体を引きずりながらホテルの出口を探していた。
 薬の影響か、体は怠く時折足がもつれてしまう。しかし家永さんに見つかる前に早くホテルから脱出しなければならない。
 けれど狭く細い、入り組んだ廊下を歩き続けたものの出口が中々見つからなかった。
 額にひやりと冷や汗が流れる。お茶をご馳走すると言った家永さんに部屋を案内された時は気にも留めていなかったが、このホテルの造りはひどく複雑であった。
 焦りに焦って歩き回るものの外につながる窓さえ見つからない。おまけに真上の天井や真横の壁向こうからどたどたと人の走り回る音が聞こえてくる。
 誰かが家永さんから逃げているのだろうか。それとも我を忘れて暴れていた、牛山と呼ばれていた大男の足音だろうか。

 するとその時、どこからともなく激しい爆発音が鳴り響き、ぐらりとホテル全体が揺れた。地震のような突然の揺れに立っていられなくなり、その場にしゃがみこんでしまう。しばらく揺れは続き老築化したホテルの所々から軋む音が響き渡る。
 天井から埃や木屑が雨のように降り注ぎ、自分の頭を抑えながら蹲った。

 そして揺れが収まったかと思えば床下の板の間から灰色の煙が滲み出ているのに気付いた。先程の爆発音といい、ホテルのどこかで火事が起きているのだろう。
 それに息をのみ、いよいよ自分の身が危険なことを悟った。家永さんに会うよりも前に、火事で焼け死ぬかホテルが倒壊して死んでしまうかもしれない。

 もつれる足で立ち上がり、よろよろと歩き出す。
 早く、早くここから脱出しなければ。

 ───しばらくしていつの間にか一面に煙が広がり、私は力が抜けるように倒れ込んでしまった。ホテルのどこかで爆発音が連続的に聞こえ、火の影は見えないが辺りは熱で茹だるように蒸し熱かった。息苦しくもう這いずる力も残されていない。ふと気を抜いた瞬間、意識をもっていかれそうだ。
 ここで自分は死んでしまうのだろうか。死にたくないと強く思いつつも、半ば諦めに近い感情が胸を占める。世話になっている叔母や茨城の実家にいる家族、そして自分の旦那である尾形百之助の顔が思い浮かぶ。

 百之助君。

 いつの間にか私は懐かしい呼び名で彼の名を呼んでいた。
 自分が死んだらどう思うだろうか。少しでも気にかけてくれるだろうかと、そんな物寂しい考えが思い浮かぶ。

 するとその時、私の耳に慌ただしい足音が聞こえた。床に突っ伏しているため、すぐそばまでその足音が来ていることに気付く。
 けれど意識が朦朧としており体が思うように動かないため起き上がることができなかった。

「おい!そこのあんた!大丈夫か!」

 誰だろう。瞼は閉じかけていて、それが何者かを確認することができない。けれどどこかで聞いたことのある声だった。

「俺が背負う。杉元はアシリパを抱えてやれ」

 別の男の声も聞こえる。ぐったりとする私の体を誰かが抱えた。

「この姉ちゃんは………」
「知り合いか?」
「いや、知り合いってほどじゃねえが………。急ぐぞ!」

 息がうまくできない。そこで私は意識を手放した。









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