最近、ようやく高専に馴染めてきたような気がする。

 相変わらず五条君とは「松本さん……?」「松野浦だよ」と名前を覚えられない日々が続いているけれど、家入さんのことは「硝子ちゃん」と呼べるようになったし、それに何より夏油君とよく話すようになった。

 任務の無い日に一人でいると声をかけてくれるし、共同キッチンで趣味の料理を作っていると夏油君が食べに来てくれたりするのだ。

 あれ?でもこの感じ、優等生がクラスに馴染めていない子を気遣うあの感じに似てないか……?

 馴染めていると思いきや、よくよく考えてみるとそうでもなかったと少しだけ悲しい気持ちになった。

「セナって夏油のことをどう思ってるの?」
「夏油君のこと?」

 硝子ちゃんと話していると、ふとそう聞かれる。

 夏油君は一人で実家の内職をしている私に「えらいな」と言ってくれたり、私の作ったものを食べてはめちゃくちゃ褒めてくれたりするのでとても優しいと思う。

 しかし夏油君のそれが一体何によるものなのか分からないため、硝子ちゃんの言葉にどう返せば良いのか分からなかった。
 そして硝子ちゃんが何故私に夏油君について聞いてくるのかも分からない。

 もしかして硝子ちゃん、夏油君のことを……?
 そう思えばそれを察したのか「別に夏油のこと気になってないから」と言われる。

「夏油君は優しいと思う」
「優しいだけ?」
「だけ……?」

 そう答えれば硝子ちゃんは「あいつあんなに頑張ってんのにな……」と遠い目をしながら言った。



◆◇◆



 夏油傑は最近、何故か体の調子が良かった。

 そして呪霊を取り込む際に口に広がる、吐き気を催すような味を一切感じなくなったのだ。

 呪霊の過度な取り込みによって体が変異したのかもしれないが、ごく普通に食事を摂る時には味覚はきちんと作用する。
 念のために家入に診てもらったが身体に異変は何もないとのこと。
 しかしそんな夏油に対して五条が「松宮さんの呪力を感じる」と首を傾げた。

 五条が相変わらず松野浦の名前を覚えられないことに何とも言えない気持ちになったが、夏油は件の少女の姿を思い出す。

 松野浦セナ。
 平安末期からの古い一族の流れを組む松野浦家の長女であり、夏油達の同級生だ。

 そんな彼女には無機物に呪力を転移させ加護を付与するという一族特有の術式を持っており、五条の見解によると「松平さんの加護が傑にかかっているんじゃないの?松平さんの持ち物とか持ってたりする?」という話だった。

 それに確かに……と納得する。
 最近夏油は松野浦に気にかけてもらえるよう行動を共にするようになっていたのだ。
 しかしその際に彼女から何かをもらったという事実はない。

 松野浦本人にもそのことを聞いてみたのだが、彼女自身にも身に覚えはないらしく「私が原因で夏油君の身体が変な感じになってるの……?」と言って距離を置こうとするものだから慌てて止めた。

 呪霊の味が無味になったこと以外何の支障もないのだ。

 むしろそのおかげで夏油の精神も摩耗せず、以前感じていたような呪霊を取り込むという作業に負担は無くなっているのだから。



 ───単独任務を終え、深夜に疲れ切った体を引きずりながら夏油が高専の寮へ戻ると共同キッチンから明かりが漏れていた。
 誰か起きているのだろうと顔を覗かせば、そこには松野浦が台所に立っており何やら作っている。

 そしてそんな夏油の視線に気付いたのか、彼女はくるりと振り返り「あ、夏油君。お疲れ様」と言った。

「………何作ってるんだ?」
「お腹すいたからうどん作ってたの」

 夜食で食べるらしいうどんを茹でている松野浦をじっと見ていると「夏油君もいる?」と言われて頷く。
 そして夏油は共同キッチンの椅子に座りながら、台所に立つ松野浦の背中を見てぼんやりと思った。

 ───良いな、こういうの。

 疲弊しきったぼろぼろの状態で帰ってくると気になっている少女が自分のために食事を用意してくれる。
 夏油の胸にその光景はとてつもなく沁みた。

 そんな夏油の様子につゆほど気付かず松野浦が「できたよ」とお椀を出す。
 金色のつゆにうどんの上にはほうれん草や温玉がのっている。優しい出汁の香りのするそれに食欲が湧く。

 そしてそれを口にした瞬間、夏油の脳裏にある考えが閃いた。

 五条の話を聞く限り今の夏油の体には松野浦の加護が宿っており、呪霊に対して味覚が消失している。
 しかし松野浦のお守りも私物も持っていないため一体どこから彼女の加護が宿ってしまったのか不明であったが、夏油は目の前に出された食事を見て「……これか?」と思いついた。

 以前から松野浦の作った趣味の料理を食べるようになり、これまで夏油は何の違和感も感じたことはなかったが、意識して目の前のうどんを見るとわずかに松野浦の呪力を感じるような気がするのだ。

 これなのか?このおかげで松野浦の加護が宿ったのか?

 本人の顔をちらりと見れば、彼女は何も知らないような顔でうどんを食べている。
 もしかして無意識の内に行っているのだろうか。
 長年悩んでいたことをこうもあっさりと解決するとは、と夏油は苦笑し肩の力が抜けてしまった。

「松野浦、結婚してくれ………」
「あはは。そんなに美味しかったかな」

 夏油がぽろりと吐いた言葉を冗談だと捉えた松野浦は呑気にうどんをすすった。





 この日、呪術高専に松野浦家の当主であり実父がやって来ていた。

 何故かというとつい先日、七海君と灰原君が二級呪霊の討伐任務に向かった際に一級呪霊と遭遇し灰原君が襲われて右腕を骨折したからだ。

 今の話と父の訪問にどう繋がりがあるのかと言うと、去年私が渡した松野浦家の護符の加護がその時発動したものの、護符がありながら灰原君に怪我をさせてしまったこと、そして不完全なものを渡してしまった責任があるということで父が直々に高専へ謝罪に来たというわけだ。

『松野浦家の護符を渡しておいて怪我させてしまったんだ。試作品とはいえ加護が正しく発動しなかったものを渡してしまったからには謝罪は必須。それに不製品を学生に渡してしまったことによって松野浦家のイメージはおそらく地に落ちるだろう。灰原君本人だけでなく、高専と親御さんにも謝罪せねば……』

 そう父が電話越しに震えながら話していたのを思い出す。

 一応灰原君本人だけでなく、高専の学長や夜蛾先生、そして任務に同行したらしい七海君にも話を通したのが、皆「そこまでしなくても……」と言っていたため松野浦家の(あってもないような)ブランドイメージが守られている様子にほっと安堵した。

 私も七海君を通して灰原君に護符を渡した身であり責任の一端があるため、彼には本当に申し訳ないことをしてしまったと思う。

 そして高専への謝罪を終えた父が、今度は灰原君のご両親にお詫びに行こうとしたところで夜蛾先生に「良いんです。そこまでしなくて良いですから」と力ずくで止められ山梨の実家に帰ることになった。

 高専から山梨の地元に帰ろうとする父を私と灰原君が見送る。
 逆に灰原君には恐縮させてしまったようで「見送らせてください!」と着いて来てくれたのだ。
 父と私はそんな彼にまたも申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。

「灰原君。本当に大丈夫かい?一応新しいバージョンの護符を渡しとくけど本当に悪かったね。それからご実家のご両親に謝罪はやめとくが一筆書かせてもらうよ」
「本当に気にしないでください!あの時死ぬのを覚悟したんですが松野浦家の護符のおかげで助かったんです!右腕の骨折くらいで済んだのが逆に信じられないくらいで……」

 なんて良い子なの……。

 父と私は感動して感極まった表情で灰原君を見つめた。
 そして門から帰る時に「言い忘れてた」と父が振り返る。

「そういえば、最近松野浦家で新しい商品を売ることになったぞ」
「新しい商品?」
「神社に置いてもらえるような小売のお菓子でも売ろうかなって」

 父の話によると母が作った料理を食べた際に加護が宿っていたらしく、原因を辿れば無意識な内に呪力を食材に移してしまっていたそうだ。
 それに着想を得て知り合いの食品メーカーと提携し、今度新しく松野浦印の商品を開発するらしい。

「普段から料理してるだろ?だから色々意見聞いたりするかもしれないから、その時はよろしく頼むぞ」

 そして父は補助監督の人が運転する黒塗りの車に乗って去っていった。

「灰原君、この度は本当にごめんね」
「松野浦先輩ももう謝んないでくださいよ!むしろあの護符のおかげで助かったようなものなんです」

 そう言って私に対して元気よくお礼を言ってくれる灰原君に改めて感動する。

 なんてよく出来た後輩なんだ……。
 夏油君が彼を可愛がるのも分かる気がする。

「それにしても松野浦家って色々やってるんですね。俺は非術師の家系なんで呪術師のお家事情ってのはよく分からないんですか……」
「うちは呪霊もろくに祓えないからこうやってお金を稼ぐしかないんだよ」
「そういうものなんですか?」

 灰原君の言葉に情けなく思いながらも頷く。
 自分で言っていてあれだが、何だかとてつもなく悲しくなってしまった。

 しかしそこではた、と止まる。
 父が言っていた件って夏油君のことと随分当てはまるんじゃないだろうか。

 夏油君は以前から呪霊の味覚が無くなっており、五条君の話によれば松野浦家の加護が関係しているんじゃないかと話していた。
 その時は一体何のことかさっぱり分からなかったが、母が無意識の内に食事に呪力を移していたように、私も知らぬ間に同じことを夏油君にやっていたのかもしれない。
 
 え、それって結構やばくないか……。

 最近夏油君が私の趣味の料理をめちゃくちゃ褒めてくれるのを良いことに色々と食べさせてしまっていた。
 夏油君自身は呪霊の味を感じなくなっていたことに「良かった」と言っていたが、同級生の女子に勝手に体を作り替えられていたのだ。

 それを意識してしまうとあまりの気持ち悪さに気が遠くなってしまいそうだった。

「あ、あの、灰原君。全然話が変わるんだけど参考までに教えてほしくて……」
「何ですか?」
「ええと、もし自分の知らない間に他人によって身体を作り替えられたりしたら、どう思う?」
「それは気持ち悪いっすね……」
「だ、だよねえ!そうだよねえ!」

 あの明るくて朗らかな灰原君がドン引きして苦笑している。
 彼のその言葉を聞いて、もしかしたら夏油君に気持ち悪がられてしまうかもと冷や汗が流れた。



◆◇◆

 

 担任である夜蛾先生と夏油君に、私の作った食事のせいで夏油君に変な加護がかかってしまったかもしれないと話せば「やっぱりお前か」という目で見られてしまった。

 夏油君はむしろ呪霊の味が無くなって感謝していると言われたが、知らない間に同級生の女子から身体を変異させられていたのだ。
 普段明るい灰原君が発したあの「気持ち悪いっすね」という言葉通り、私も気持ち悪いと思う。

 だって勝手に他人の身体を変えるなんて……。

 夏油君はしきりに気にするなと言ってくれたが本心ではどう思っているかも分からない。
 そのため私はまともに夏油君に話すことができなくなってしまった。

 硝子ちゃんから「そろそろ夏油に構ってやらないと何してくるか分からんぞ」と変なことを言われたが、それでも彼に対しての申し訳なさと自分の気持ち悪さでうまく話せない。

 しかし夏油君も夏油君で、最近任務に駆り出されて忙しそうにしているため会うこと自体が少なくなってきた。
 これ以上私の情けない姿を晒すことは無くなるためちょうど良かったかもしれない。

 そしてしばらく夏油君と話さない日が続く中、私は単独任務を命じられた。

 岐阜県の温泉街に建てられた旅館への出張だ。その旅館では昔から売店のお土産として松野浦家の作ったお守りを卸しており、それの定期点検へ行かねばならないらしい。

 硝子ちゃんからは「お土産よろしく。あと帰ったらちゃんと夏油に構ってやれよ」と言われたので、帰ったら再度彼に誠心誠意謝ろうと心に決めた。





 ───某日。


 旅館の売店に売られているお守りの点検任務にて。
 無事に作業を終えた私はさて東京に帰るかとしようとしたところ、旅館の女将さんから「せっかくならゆっくりして行ってくださいな」と言われた。

 確かに新幹線の時間まで結構あるし、ここらで少しゆっくりしても良いかもしれない。

 そう思ってせっかく山間部に来たのだから山道を散歩しに行ってこようかと言えば、旅館の女将さんから注意を受けた。

「近くの山道を歩かれるのなら大丈夫ですが、あまり山奥に入らないようにしてくださいね。ここらの山にはいわくつきの集落があるので」
「いわくつきの集落?」
「ええ。集落の人間がこの温泉街まで足を運ぶことはないのですが、閉鎖的でよそ者の人間を毛嫌いしているんです。前に役所の人が集落に行った際に猟銃で追い返されたそうですよ」
「猟銃……」

 そんな女将さんの言葉に私は顔を青くしながら頷いた。



◆◇◆



 …………こ、困った。

 女将さんの言葉に従って山道を散策していたのだが愚かなことに道に迷い、よりにもよって件の山奥の集落にたどり着いてしまったのだ。

 そして集落の人に見つかって「よそ者か!?捕まえろ!」と何故か追い回されて、どこかの建物の座敷牢に入れられてしまった。
 荒れた山道を逃げたせいで転んだり木の枝にぶつかったりして身体はぼろぼろだ。
 おまけに集落の人に無理矢理引きづられたせいで額は切れてしまったし、情けないことにタイツは破けて足も傷だらけである。

 な、なんて情けない……。
 呪術師として普段からなるべく鍛えているようにしてはいるが碌な抵抗もできなかったのだ。

 しかし捕まる直前、山岳救助隊と補助監督の人に連絡を入れられたのは幸いだった。
 きっと運が良ければすぐに助けが来てくれるだろう。

 そして座敷牢には、私以外にも二人の小さな女の子達(双子?)もいて隅の方で震えていた。

「ええと、初めまして。松野浦セナです。あなた達のお名前は?」

 小さな子供達を前にできるだけ優しくそう聞けば、彼女達は「美々子」と「奈々子」と名乗った。

 頬が腫れ、細い腕には切り傷のような傷ができており血が滲んでいる。
 暴力を振るわれたような跡がところどころ見受けられる限り、きっと集落の誰かから虐待を受けていたのだろう。

 私はポケットから取り出したハンカチを引き裂き、彼女達の怪我をしている腕に巻いた。
 びくりと体を震わしたものの敵意が無いことと私自身がぼろぼろの状態であったため、危険は無いと思われたのかそのまま大人しくしてくれている。

「ありがとう………」

 そうぽつりとお礼を言ってくれる彼女達に首を振る。
 そして双子の内の一人、奈々子ちゃんがそんな私に慣れてきたのか口を開いた。

「おねえさんはどうしてここに?」
「私は山で迷子になっていたら捕まっちゃったんだよね」

 美々子ちゃんと奈々子ちゃんは?と聞こうとしたが聞いても大丈夫だろうか。
 すると彼女達の方からぽつりぽつりと事情を話してくれた。

 彼女達の話によると集落で最近動物の変死体や集落の人間の不審死といった現象が起こっているらしく、それを美々子ちゃんや奈々子ちゃんのせいにされたそうだ。
 美々子ちゃんも奈々子ちゃんも昔から周りの人間には見えない【化物】が見えてしまっていたため、そういったことから原因の一端として迫害されてしまったらしい。

「それって呪霊なんじゃ……」
「じゅれい?」
「うん、何か気味の悪い怪物みたいなやつだよね?私もそれ、見えるんだよ」
「おねえちゃんも?」

 それに頷けば、初めて自分達と同じ仲間を見つけられたと言うように彼女達は目を丸くする。
 そして何度も「本当に?本当に私達と同じで見えるの?」と聞いてくるものだから、私は呪霊や呪術界についての説明をしてあげた。

「そうなんだ……」
「私達だけじゃないんだね」

 美々子ちゃんと奈々子ちゃんがどこか安心したようにそうぽつりとこぼす。

 そうだよね。私は元々呪術師の家に生まれたから大丈夫だったけど、非術師の家庭だったら変なふうに思われるよね。

 集落の人達から付けられただろう彼女達の傷が余計に痛ましく見えて、思わず二人の頭を撫でてしまう。
 美々子ちゃんも奈々子ちゃんも驚いたように固まってしまったため慌てて手を退かそうとするが、彼女達は首を横にふってそのまま静かに目を閉じた。
 それが何だか心を開いてくれたように見えて、私もほっと安堵する。

 ───それにしても救助隊や補助監督の人達は本当に来てくれるのだろうか。
 一応連絡はしたから来てくれるとは思うが段々不安になってきた。
 集落の人達もいつここに再びやって来るか分からないし、もう自力で逃げてしまった方が良いかもしれないと思えてくる。

 そして私は懐から針金を取り出し座敷牢の鍵を開けようとした。
 ここでかっこよく鍵を開けられるたら良いのだが中々開かない。

「………お姉ちゃん、どこか行っちゃうの?」
「うん。ここから逃げようと思って」

 それから「二人も一緒に行こう」と言えば、彼女達はくしゃりと顔を歪めて私の腰にしがみついた。

 するとその時、部屋の扉が勢いよく開いた。
 集落の人達が来てしまったかと思い慌てて座敷牢の鍵から手を離したが、そこには見知った顔があった。

「松野浦………?」
「げ、夏油君?」

 どこか疲れ切った様子の夏油君が座敷牢の中にいる私を見て茫然と立ち尽くしていた。
 あれ?夏油君って今日は別任務があったような……。もしかして夏油君の任務ってこの集落のことだったのかな?

 驚いて目を丸くしていると夏油君はゆらゆらとやって来て、使役している呪霊の力であっという間に座敷牢の鍵を壊してくれる。さ、流石です。

 そして礼を言って美々子ちゃんと奈々子ちゃんとともに座敷牢から出れば、夏油君はどこか虚ろな目をして口を開いた。

「その子達は?」

 私の腰にしがみついている美々子ちゃんと奈々子ちゃんを見て疑問に思ったのだろう。
 正直に「呪霊の原因じゃないかって勘違いされて捕まえられてたみたい」と答えれば、ぼろぼろな姿の彼女達を見て夏油君は納得したように頷く。

「………………で、その怪我は誰にやられたんだ?」

 そしてそう聞いてくる夏油君に彼女達の怪我は集落の人間達がつけたものだと言えば、夏油君は「それはもう分かっている。松野浦の怪我について聞いてるんだ」と言われてしまった。

 確かに夏油君の言う通り、私も彼女達と同じでぼろぼろな状態だ。
 血はもう止まっているが、額は怪我しているしタイツも破れて足は擦り傷だらけ。何とも情けない姿である。

「ええと、これは………」

 すると夏油君はぼんやりとした目で私を見つめ、そのまま手の平で私の頬を撫でた。
 それにびっくりして私は会話の途中だと言うのに固まってしまう。

 あ、あれ。なんか夏油君の様子がおかしいぞ……。

 いつもこう、にこにこしている夏油君が今まで見たことない顔をしている。
 それが少し怖くて私は言葉を失ってしまった。



◆◇◆



 傷だらけの彼女の姿を見た時、夏油の胸はさっと冷えていくのが分かった。
 破れたタイツを見て、おそらく未遂ではあるがそういったこともされかけたのかと勘ぐってしまう。 

「これは逃げてる途中に転んだりして出来た傷だよ」

 松野浦が慌ててそう言うが果たしてそれは本当だろうか。
 心優しい彼女のことだから、もしかしたら集落の人間を庇って言っているのかもしれない。

 鬱蒼とした目で松野浦の頬を撫でる夏油に、彼女は話を変えるかのように切り出した。

「それより早く逃げた方が良いんじゃないかな。集落の人も来ちゃうし……」
「あの猿どもを消せば良いだけだろう」
「さ、猿……」

 集落の人間を猿と呼べば、松野浦はいよいよ言葉をなくして夏油を見つめる。
 そんな彼女に夏油は続けた。

「なあ、松野浦。こんなことをされてもまだ松野浦はあいつらを庇おうとするのか?」
「夏油君、話を……」
「非術師である猿どもをいくら守ろうともあいつらはそれを理解しない。そんな奴らをどうして救える」

 高専に入学した当初、夏油は呪術師は非術師を守らなければならないと信じていた。
 しかし任務や呪霊を取り込んでいく内に、また何の評価もされない松野浦の姿を見てそこまでして彼らを守る価値はあるのだろうかと自問するようになっていったのだ。

 そしてそんな夏油の「非術師は守る価値がない」と暗に言った言葉を松野浦は理解した。
 このままだと夏油君が闇落ちしそうだぞ、とあの鈍感な彼女は珍しく察したのだ。

「私は別に非術師だからとか、呪術師だからとかで誰かを庇ったり守ったりしようとしたことはないよ」

 続けて「非術師でも良い人はたくさんいるよ」と松野浦が言う。 

 それは夏油にも分かっていた。分かっているのだが、呪術師の立場のことを思うと納得は出来なかった。
 呪霊が見えるというだけで迫害を受ける双子の少女しかり、目の前にいる心優しい松野浦セナという少女しかり。
 こんなふうに彼女達が非術師達に傷つけられるのなら守る意味なんて最初から無いのではないかと思ってしまう。

 しかしそんな夏油に対して彼女は口を開いた。

「でも、もし苦しいのなら夏油君が頑張って非術師の人達を守ろうとしなくても良いと思う。か、かわりに私が非術師の人達を助けるよ。私、夏油君に比べたら本当に頼りないけど……」

 実直なまでに言う松野浦の言葉に今度は夏油が言葉を失う。

「松野浦は、どうしてそんな………」
「さっきも言ったけど、非術師だとか呪術師だとか本当に関係ないの。どうしても私は頼りないしお守りとか作ったりするくらいしかできないけど、自分の手が届くなら非術師の人達も、もちろん夏油君も助けたい」

 それは彼女の本心の言葉であった。
 松野浦からしてみれば、彼女達の一族は昔から非術師との交流が多く反対に呪術界からは影響力がないことで蔑ろにされてきた。
 そういった経験も含め、非術師達の中には良い人間もいるし同じ同僚であるはずの呪術師達にも悪い人間がいると理解している。
 そのため、どちらも同じ人間という括りの中で良いも悪いも無かったのだ。

 だからこそ、夏油がその現状に苦しんでいるのなら松野浦は彼を少しでも助けてやりたいと思った。
 それに普段の夏油はとても優しく、いつも彼女は世話になってきたのだから。

 そしてそんな松野浦に対して夏油は何も言うことができなかった。
 集落の人間のような非術師達に対する嫌悪は決して消えないが目の前の彼女がそこまで言い、尚も自分まで救おうとするのならば、夏油は松野浦の考えを裏切るような真似はできなかった。

 するとその時、外がやけに騒がしいことに気がついた。
 人々の怒号にヘリの音、そして外から松野浦の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。

「夏油君、実は救助隊と補助監督の人呼んじゃってるんだよね……」

 おおごとにしてごめんね、と謝り、それから松野浦は夏油を見つめてまっすぐと言った。

「あと言うのがおそくなっちゃったけど、助けに来てくれてありがとう。本当に嬉しかった」

 そんな松野浦を夏油は思わず抱き締めた。
 今回の任務で、その時夏油は救われたような気がしたのだ。



 

 あれから私達は救助隊と補助監督の人達に無事に助けられた。

 そして美々子ちゃんと奈々子ちゃんは呪術師になり得るほど呪力があるそうで、彼女の身柄はいずれどこかの呪術師の家に引き取られることになったらしい。
 それまでは松野浦家で彼女達の面倒を見ることになったが、どさくさに紛れて父が「そのままうちの子になっても良いんだよ!」と言っている。
 それはそれでもちろん私も大歓迎だ。

 美々子ちゃんと奈々子ちゃんを山梨の実家に連れて行く時、夏油君も一緒に着いて行くことになった。
 何故夏油君も……?と思ったが実際に美々子ちゃんと奈々子ちゃん(そして私)をあの座敷牢から救出してくれたのは彼であるし、彼女達も夏油君に懐いているため一緒にいれて嬉しそうだ。

 そして山梨の実家に戻ると、屋敷の前に父が待っていた。
 久しぶりに理子ちゃん達にも会いたいと思い、理子ちゃんと黒井さんは?と父に聞けば「二人は母さんと一緒に美々子ちゃんと奈々子ちゃんの歓迎会の準備をしてるよ」と言われる。

 それから美々子ちゃんと奈々子ちゃんを連れて一通り屋敷の案内をし終わった後、ぽつりと夏油君が口を開いた。

「松野浦、少し義父さんと二人で話したい事があるから時間をくれないか?」

 夏油君の「とうさん」呼びに一瞬違和感を感じたが頷く。
 父も父で夏油君にそう言われて首を傾げながら「あ、じゃあ客間に行く?」とよく分かっていないような顔をしている。大丈夫だろうか……。

 父と夏油君が去っていった後、私は美々子ちゃんと奈々子ちゃんと一緒に庭の縁側で待つことにした。
 松野浦家では遠慮は無用だと二人に話していると、奈々子ちゃんが目をキラキラとさせて聞いてくる。

「おねえちゃんは夏油様と付き合っているの?」

 え、いきなり……?と思ったが聞き逃せない単語が二点、奈々子ちゃんの口から飛び出してびっくりする。
 夏油様……?付き合っている……?

「夏油君のこと夏油様って呼んでるの?」
「だって私達のこと助けてくれたでしょ!」

 な、なるほど。
 しかし小さい女の子達に様呼びさせるのは側から見ても良い印象はない。親しみを込めて「傑君」や「おにいちゃん」と呼んでみては?と提案すれば彼女達は素直に「そうする!」と頷いてくれた。

「それから私は夏油君と付き合ってないよ」
「でも抱き合ってたよね?何で?」
「奈々子、きっと二人には色々あるからそんな風に聞いちゃだめだよ」
 
 色々も何もないのだが二人は納得したように分かったとサムズアップする。
 全然分かってないよ。誤解だよ、と言ってみたものの彼女達から「おねえちゃんは鈍いのね」と言われてしまった。
 どうしよう。抱きついてきたのは夏油君だし、夏油君の口から誤解を解いてくれたら嬉しいんだけどな……。

 するとしばらくして父と夏油君は戻ってきた。
 夏油君はいつも通りにこにこしているのだが、反対に父は何故かあわあわとした様子で私の方に向かって来る。
 猛烈に嫌な予感がするのだが……。一体どうしたんだろうと首を傾げていれば父は私の肩を勢いよく掴んだ。

「ちょっと父さん聞いてないんだけど!夏油君の味覚変えたって!」
「…………あ!!」

 言い忘れてた!

 私の呪力が移った食事を食べたせいで無意識の内に夏油君に加護がかかってしまったのだ。
 呪霊の味を感じさせなくするもので、そのことについて父に報告するのをすっかりと忘れていた。おまけ私は少し前まで夏油君を避けていたのだ。

 色々ありすぎて忘れてしまっていたが気まずくて仕方がない。
 あわあわとしている父の顔も、そしてその後ろに控える夏油君の顔も気まずくて見れない。

「呪霊の味が無くなったのは良いみたいだけど、勝手に人の身体を変えたらだめでしょ!」
「ご、ごめんなさい」

 そう慌てて謝り、再度夏油君にも謝罪しようとすれば先に彼の方が口を開いた。

「松野浦さんの飯を食べてそうなったんですが、しばらくするとまた味覚が元に戻るんですよ。呪霊が無味になって良かったのにまた元通りになると精神的にくるんですよね……」

 目を少しだけ伏せて悲しそうに夏油君は話す。
 そんな彼を前に父はぶくぶくと泡をふきそうだ。

 相手は学生とは言え、松野浦家の一族が束になっても叶わないだろう呪術師。
 そんな人の身体を勝手に作り変えたのだから気が遠くなるだろう。
 私もその事実に直面した時はどう償おうか頭を悩ませたものだ。

 夏油君の様子を見る限り、味覚を変えたことに対しては気にしていないみたいだが、反対に加護が切れて呪霊の味を再び感知できるようになってしまった時の落差に参っているようだった。

 ど、どうしよう。
 慰謝料でも払った方が良いのでは……と思っていると、顔を青くする私を見て夏油君がいつものようににっこりと笑って言った。

「松野浦さえ良ければ、この先ずっと俺のために食事を用意して欲しいかな」

 何だかプロポーズみたいだな……?と思いながらも私はそれに頷くしかない。
 それで夏油君の気が収まるのなら喜んで責任を取ろう。

「それに私のことを助けてくれるんだろう?」

 そんな夏油君の言葉を聞いて、私はあの集落での出来事を思い出す。
 あの時確かに私は彼を助けたいと言ったのだ。それに対して決して嘘はない。
 優しくてしっかりしてはいるけれど、真面目過ぎてどこか生き辛そうな彼に少しでも楽になってほしいと思う。

 とりあえず集落の人達に捕まえられてしまうくらい私は弱いのだ。
 少しでも頼ってもらえるようにもっと修行をしようと心から誓う。

 私がもちろん、と頷けば夏油君は嬉しそうに笑ってくれた。




 そしていつの間にか父公認で夏油君との婚約が決まったのは、また別の話である。






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