『夏油と結婚してどう?慣れてきた?』
「………実は最近、傑君と会えてないんだよね」

 呪術高専を卒業して早数年。

 高専時代の友人である硝子ちゃんに電話で近況報告をしている最中、そう答えれば『は?』と返されてしまった。

 ───高専を卒業した私は後方支援型の呪術師として働くようになったのだが、去年傑君と結婚した。

 結婚するに至るまで色々とあったわけなのだがそれはさておき、私は任務中に傑君を庇って大怪我を負ってしまい呪術師を引退。幸い怪我の後遺症はないものの、傑君の進言で辞めることになったのだ。
 そして現在は実家からの仕事をしながら、彼ともに都内のマンションで暮らしている。

 しかしここ半年、傑君と私は同じ家に住んでいるのにも関わらず全く会うことができていなかった。

 傑君は高専卒業後、教員となったのだが特級呪術師として任務に駆り出されることがかなり多い。
 そしてここ最近は特に忙しいらしく、家に帰ってくることもなくなっていた。

『高専であいつと会うけど、そんなに家に帰ってなかったのか。確かに忙しそうだったが……』
「やっぱりそうなの?大丈夫?傑君、怪我とかしてない?」
『怪我はないが過労で倒れそうではある』
「あと非術師の人達を猿って呼んで見捨てたりしてない?」
『たまにしようとしてる』

 たまにしようとしてるのか。
 高専時代、とある集落での任務をきっかけに傑君は非術師へのあたりが若干強い。
 そこら辺はどうしているのかと聞けば『五条がうまくフォローしてる』と硝子ちゃんが教えてくれた。本当にありがとう、五条君……。

 一応毎日連絡は取っているが、正直不安で仕方がない。
 呪術師はいつ死んでもおかしくないのだ。彼が特級だとしても心配であるし、なるべく顔を見たいと思う。だけど……。

『今度高専で会ったら家に帰れって話しておくよ』
「そう言ってもらえると嬉しいけど……。でも忙しいなら無理して家に帰ってきてもらうのも悪いと思っちゃうんだよね」

 私と傑君が結婚に至ったのは、高専時代に彼の味覚を私が勝手に変異させたのがきっかけだった。

 呪霊操術という術式を持つ彼は、祓った呪霊を黒い球状の塊にして口から摂取することによりそれを使役させることができる。
 そしてその呪霊の塊はとてつもなく不味いらしいが、その味を一時的になくす加護を私はつけてしまったのだ。
 私の作った食事をとるとその加護がかかる仕組みであり、傑君に勝手に加護を付与した責任もあって私達は結婚することとなったわけである。

 始まりはどうであれ、私はいつの間にか傑君のことを一人の人間として好きになっていたため、政略的な婚姻が多い呪術師の一族の中では恵まれた方なのだ。
 そのため、これ以上彼に何かを求めても良いのかと我儘を言うのもはばかられる。

 そんな煮えたぎらない私の言葉に硝子ちゃんははあ、とため息をはいた。

『浮気とか心配してないのか?』
「…………う、浮気?」
『いや、私が悪かった。夏油はそういうことする奴じゃないな』

 あまりそういったことを考えないようにしていたものの、そう言われてぎくりとしてしまう。

 でも傑君の性格からしてそういうことはしないんじゃないかな。いや、だけど私って地味でぱっとしないし半年も会わないってことはもしかすると……。

 嫌な想像が浮かんでは消えていく。
 すると硝子ちゃんは話を変えるかのように言った。

『ま、夏油もそろそろ限界そうだしな。今日明日でひょっこり帰ってくるんじゃないか?』

 限界?そう思ったが、おそらく出張先のホテルや高専の仮眠室で過ごしていたとしても疲れは取れないのだろう。
 傑君には悪いと思いつつも、もしかしたら一度家に帰ってくるよう連絡した方が良いのかもしれない。

 

◆◇◆



 夏油傑は限界だった。

 度重なる上級呪霊の討伐から高専関係の業務。そしてとどめと言わんばかりの両面宿儺を取り込んだという虎杖悠仁という存在。
 親友でもあり同僚でもある五条とともに上層部への根回しをする最中、もう半年も会えていない松野浦に申し訳なさがふつふつと沸き上がる。

 妻である彼女とは連絡もまめに取っており声だって聞いているが、そろそろ直接会いたい。
 そして半年も家に帰れていない現状に愛想つかされてもおかしくないのでは、と顔には決して出さないが焦っていた。

 これまで夏油は松野浦と結婚するに至るまでかなりの時間がかかった。
 婚約まであっという間に(無理矢理)漕ぎつけることができ、高専卒業後にすぐに籍を入れる予定だったのだが、寄りにもよって上層部からの反対されてしまったのだ。
 非術師の家系であり呪霊操術の使い手でもある夏油を歴史が長いだけの松野浦家ではなく派閥の大きい旧家に婿入りさせることが望ましいとされ、それを抑えるのに数年もかかってしまったわけである。

 おまけに夏油は彼女から無理矢理呪術師を引退させていた。
 任務中に自分を庇って大怪我を負ってしまった松野浦に対し「これ以上君が呪術師を続けて怪我を負うようなら呪詛師に転向する」と言って脅した。

 そんな過去のいざこざを含め、現在の状況と加味して松野浦が夏油との結婚生活に嫌気がさしていないか非常に不安なところである。

 そもそもそれ以前に、夏油は松野浦本人の意思を確認する前にノータイムで婚約まで漕ぎつけた男だ。
 家入からすれば「惚れた女を合意なしで囲むクズ」であり、そういった前科もあってこれ以上松野浦を幻滅させるような真似はしたくなかった。

 ───もういいかな。帰っても。というかもう今晩帰ってしまおうか。

 夏油の目の前では呪術高専の一年生達がわいわいと術式ありの組み手をしている。
 ジャージ姿の虎杖と伏黒がもつれ合い、それを女子生徒の釘崎と、そして数年前に集落から救った美々子と奈々子が観戦していた。

 それをぼんやりと見ながら、夏油は今夜松野浦のもとに帰宅することを勝手に決め始める。
 そんな彼のもとに虎杖と伏黒の対戦に飽きたのか釘崎が話しかけてきた。

「ねえ、夏油先生の奥さんってどんな人なの?」

 おそらく美々子と奈々子から聞いたのだろう。
 ちなみに戸籍上では婿入りしたため姓は松野浦だが、業務上の混乱を招かぬようそのまま【夏油】と名乗っている。
 釘崎の年頃らしいその問いに微笑ましく思っていれば、情報の発信源であるらしい双子の少女達が口を開いた。

「ねえさんは優しいよ。たまにする無茶がすごいけど」
「うん、まじで人が良い。でもどこかのネジは無自覚に外れてると思う」

 美々子と奈々子はあれから呪術師の家に養子に出されることはなく、松野浦家の養子として引き取られた。
 もう一人の妹である天内理子とともに二人は松野浦に大層可愛がられている。

「あの夏油先生の奥さんだけあるのね」

 釘崎のあっけらかんとした言葉に夏油は「こらこら」と苦笑する。

 担任である五条よりも多少ましではあるが、釘崎から見て夏油は情緒が不安定であった。
 高専二学年の真希に対しては非常に親切であるが、呪霊討伐の際に夏油の中で一定のラインを超えるような非術師がいればあっさりと見捨てようとしたり、猿と呼んだりする。

 彼のその気質を矯正しようにも逆に呪詛師に転向する危険性があるとメンタルチェックで診断されたため、それをされるくらいならばと五条や周りの呪術師がフォローに回っているらしい。

『松田さんが現役の頃は彼女がフォローに回ってたんだけどね……』

 ふと釘崎は五条との会話を思い出した。

『夏油先生の奥さんは松田じゃなくて松野浦家の人でしょ』
『あそこの血筋の人は認識阻害の呪いがかかってて僕は認識できないんだよ。それはそうと彼女が呪術師やってた頃はうまく傑の手綱を引いてたんだけどねえ〜』

 五条の話によると、任務中に夏油を庇って大怪我を負ってしまったらしい。その時に夏油の強い勧めもあって辞めたと釘崎は昔聞いたことがあった。

 あの夏油の手綱を引いていたのだからきっと優しくも、きっと豪胆な女性なのだろう。
 釘崎は実在の松野浦と非常にかけ離れた印象の女性を思い浮かべ、一度会ってみたいとぼんやりと思った。 






 婿入りした傑君に代わって隠居した父は現在、非術師の家庭に生まれた呪力の高い子どもへのサポート活動をしている。
 知り合いの神社仏閣関係者や公共機関からの依頼を得て問題のある家庭に赴き、呪霊への自衛手段や必要とあれば呪霊の姿を見えなくする加護を施した眼鏡を渡したりしているのだ。

 そしてその人手が足りないとのことで打診された私は、傑君の許可を得て手伝うこととなった。

「初めまして。松野浦セナといいます」
「どうも……」

 父から紹介されたのは吉野順平君という男子高校生だった。
 シングルマザーの凪さんが吉野君の様子に違和感を抱き話を聞いたところ、幼少の頃より呪霊を視認できることが発覚したらしい。
 そして近所の寺に相談して私の父のところまで連絡が来たそうだ。

 凪さんに身分証明書の提示と呪霊を目視できる眼鏡を渡し彼の置かれている状況を説明したが、非術師の立場から見れば私はかなり怪しいだろう。

 とりあえず週に一度、家庭教師として吉野君に呪霊からの自衛手段を教えることになったが、よくよく考えると見切り発車感が否めない。
 そもそも私は人に何かを教えられるほどコミュニケーション能力はないのだ。
 高専時代から多少ましになったと思うものの、とてつもなく不安である。

 しかししばらくすると私も吉野君も互いの存在に慣れてきた。

 最初は胡散臭いセールスマンを見るような目つきで見られていたのだが、年下の子供に対してひどく緊張し呪霊についての説明を噛みながらする私のその残念な雰囲気を察したのか、当初抱いていた警戒心はだいぶ解かれてきたような気がする。

 彼の母親である凪さんから吉野君について学校のこととか聞いていたが、私みたいなへっぽこ術師に対して馬鹿にすることなく接してくれるためきっと良い子なんだろうなあと思った。

「呪術師には術式を持っているって言っていましたよね?松野浦先生はどんな術式を持っているんですか?」

 呪霊の勉強の合間に近所のカフェで休憩していると、吉野君がぽつりとこぼす。
 普段私は吉野君に教えることは呪霊を見かけたらまず逃げることと、どういう場所に呪霊が潜んでいるかということくらいだ。
 
 しかし緊急時には高専の呪術師に助けを求めるように、と呪術師や彼らの持つ術式について以前説明したことがあった。
 その時の内容が頭に引っかかっていたんだろう。

「私の術式は全然大したものじゃないんだけど無機物に呪力を移すことができるよ。それで呪力を移したものには色んな加護が宿るの」
「加護?」
「といっても運が少し良くなるとか防御力があがるとか、そんな感じだけどね。高専時代の同級生の術式がすごすぎて全然かすんでたけど……」

 あはは、と自虐して笑って見せたものの吉野君には「へえ」と何とも言えない顔で苦笑されてしまった。
 あの五条君や傑君、硝子ちゃんに比べると私の術式のしょぼさが浮き彫りになってしまう。

「僕にもあるのかな。そういう術式が……」

 そんな彼の言葉に頷けば、吉野君はぱっと笑みを浮かべた。
 きっと吉野君にも術式はあるだろう。傍目から見ても彼は呪術師になりえるほどの呪力を持っている。

 吉野君の術式は調べてみれば分かると思うが、それをするのは少しばかりためらってしまう。本人は期待するような目で私を見てくるが……。

 「術式はまだ知らなくても良いんじゃないかな?」と言えば、吉野君は首を傾げた。

「術式は使い方によってはすごく危険で、呪霊にも効くしそれこそ人に対しても効く場合があるの」
「………松野浦先生は僕が術式を悪用すると思っているんですか?」
「そうじゃなくて……。術式が使えるようになると、もしかすると吉野君の力を悪用とする呪詛師や危険な呪霊が集まるかもしれない。それらから身を守るために逃げ回ったり、それがきっかけで吉野君が呪術師になる可能性も出てくると思う」
「僕が、呪術師に?」
「うん。でも呪術師って本当に危険な職業でそれこそ望んだように死ねるのはごく一部なの。幸い私は運が良くて呪術師を引退するまで生きることはできたけど……」

 今の吉野君の置かれている状況はとても曖昧だ。
 呪霊が見えるもののこのまま非術師の世界で暮らすこともできるし、可能性があれば術式を得て呪術師にだってなれてしまう。

 しかし吉野君が呪術師の世界に入るのは個人的に反対であった。
 私は元々呪術師の家系であったため仕方ないが吉野君はそうではない。
 呪術師は万年人手不足ではあるものの、安全に穏やかに暮らせる未来があるのなら私はそちらの方を勧めたかった。

 だからこそ吉野君が自分の術式を知ることによって、いよいよ呪術師になり得る将来に少しでも近づいてしまうんじゃないのかと思ってしまう。

「そういうことを考えるとすごく心配なの。何ていうか……偉そうなこと言ってごめんね」

 吉野君には凪さんと一緒に少しでも穏やかな生活を送ってほしい。
 そのことを伝えれば、吉野君はぽかんとした瞳で私を見つめていた。

 あれ、でも術式だけ知るのはやっぱり良いのかもしれない。
 それによってやってくる呪詛師や危険な呪霊だって吉野君の術式でもしかすると倒せるかもしれないのだ。
 いや、でもそうすると呪術界に目を付けられて、吉野君が呪術師になってしまうのでは?
 だけど吉野君が呪術師になりたいと言うんだったら、先生としては応援しなくてはならないんじゃないだろうか……?

 そう混乱しながら考え始める私に吉野君がくすりと笑う。
 そしてそのことをしどろもどろ伝えれば、吉野君はとうとう吹き出してしまった。

「松野浦先生が心配してくれてるのは何となく分かりました。自分でよく考えてみてそれでも術式のことを知りたいと思ったら、また相談させてください」
「あ、うん。全然大丈夫だよ。何だか本当にごめんね。うまく言えなくて……」
「………学校の先生が松野浦先生みたいな人だったら良かったのに」

 そう呟く吉野君に対して、思わず感動する。

 なんて嬉しいことを言ってくれるんだ……。

 恥ずかしそうに目を伏せてはにかむ吉野君にほっこりとした気持ちになる。
 そんな吉野君に少しでも穏やかな学生生活を送ってほしいと思い、調子に乗って私は懐から松野浦家の護符を取り出した。

「これは?」
「これは実家で作っている護符でね。良かったら吉野君に御守りとして持っていてほしくて」

 松野浦家が作っている護符の中でも特別な品だ。
 あらゆる呪霊や人間の敵意から守護する加護が宿っているためきっと吉野君の身を守ってくれるだろう。
 しかしこれはあまり出回ることのない品物であり渡すにしてはやりすぎかと思ったが……。
 初めて出来た生徒だ。少しくらい贔屓にしたって構わないだろう。

「本当に良いんですか?」
「良いの良いの。元々余ってた分だしお裾分けだと思ってもらってくれるとうれしいな」
「あ、ありがとうございます」

 そしてちょうど二枚あるため「凪さんの分もあるよ」と言って吉野君にもう一枚護符を渡す。

 吉野君には穏やかな生活を送ってほしいと心から思った。



◆◇◆



 松野浦からもらった護符を財布に入れるようになってから、吉野順平の周囲は明らかに変わった。

 呪霊が吉野の周りを近寄ってこようとしないのだ。宙を浮遊する小さな呪霊が吉野の肩に触れそうになった時、弾けるようにそれはポーンと彼方へ飛んで行った。

 おまけに呪霊だけではない。
 以前は街で偶然学校の同級生達に鉢合わせると嫌がらせと言わんばかりに絡まれていたが、護符を持ってからは違う。
 吉野を見つけた瞬間、彼らは何もないところでこけたり反対にどこからか現れる反社会的な風貌の人間に目を付けられて逃げていくのだ。

 この間、過去に吉野を苛めていた伊藤という少年にも会い難癖つけられそうになったが、それをたまたま仕事中の伊藤の実父が目撃。「この馬鹿息子が!」とそのまま彼は父親に連れ去られ、後日吉野家には詫びの品と二度と吉野には手を出さないという念書が送られた。

 最初は偶然かと思ったが、呪霊も人間の敵意からも何か見えない力によって阻害される。
 偶然では済まされない数々のそれらに吉野は怯え、松野浦からもらったこの護符はあまりに強力な加護がついているんじゃないだろうかと冷や汗が流れた。

 自分を苛めていた学校の奴らはこぞって死んでしまえ、と過激な思想を持っていたものの、いざこうして人智を超えた力を見せつけられれば「ざまあみろ」という気持ちよりも恐ろしさの方が勝る。
 しかもあの人畜無害ですとでもいうかのような松野浦がにこにこ照れ笑いをしながら差し出してきたのだ。あの先生は一体何を考えてこれを渡したんだという恐怖もあった。

『松野浦先生、本当にこの護符って僕に渡しても良いものなんですよね?』

 以前あまりの効力の強さに松野浦に聞いてみれば、彼女は慌てた様子で「大丈夫大丈夫」と頷いた。

 本当に大丈夫なのか……?

 けれど非術師の家系に生まれた吉野にとってこの護符が呪術界で如何のような扱いを受けるのか全く分からないし、これが普通なのか、それとも強い効果があるのにも関わらず貴重なものをぽんと渡す松野浦が異常なのか判断できない。

 吉野の母である凪は「ありがたいわね。金運とかアップしそう」と言って財布に入れていたが、そういった感覚で扱っても良い品物なのだろうかと吉野は不安で仕方がなかった。






「映画館で変な人に会った?」
「映画館で、その人が高校生達を……」

 数日後、吉野君から突然電話で呼び出されて向かうと彼は顔を真っ青にさせて私にそう告げた。

 話を聞くところによると、一人で映画館に行った際に見ず知らずの男が三人の男子高校生の身体をぐにゃりと捻じ曲げたらしい。
 その男は吉野君の存在に気付かず去ってしまったが、その光景を見て呪霊の仕業かもしれないと思い私に連絡したそうだ。

 とりあえず吉野君を連れてその映画館に向かうと、そこはすでに警察によって封鎖されていた。
 呪霊が関わっている可能性もあるとのことで高専に連絡すれば、ちょうど呪術師が調査していると聞く。

 そして目撃者の子を連れていると言えば、調査をしている呪術師と合流するよう命じられた。

「松野浦先輩?」
「七海君?」

 今回の任務に当たっている呪術師を吉野君と待っていると、そこに現れたのは高専時代の後輩である七海君と薄茶色の髪をした男の子だった。
 七海君が私をぽかんとして見つめた後「お久しぶりです」と丁寧に頭を下げてくる。

「あ、いえいえ、七海君も元気そうで……」

 久しぶりに会う後輩に緊張してしまい、私も慌てて言う。
 彼は一時非術師として一般企業に勤めていたが、脱サラして再度呪術界に復帰した呪術師だ。数年のブランクを感じさせることなく灰原君と任務をこなしていると傑君が話していた。
 すると彼の横に立つ、吉野君と同い年くらいであろう男の子が口を開く。
 
「虎杖悠仁です。おねえさん、ナナミンと知り合いなの?」

 ナナミン……?
 え、七海君、ナナミンって呼ばれてるの!?君そんなキャラだっけ!?

 しかし七海君は気にした様子もなく虎杖君という男の子に「この方は高専時代に世話になった先輩です」と教えている。何だろう。灰原君といい、七海君は明るい雰囲気の子と仲良くなりやすいのかな。

「松野浦セナです。それからこの子が今回目撃した吉野順平君」

 吉野君が二人に会釈する。
 するとその時、虎杖君が首を傾げた。

「松野浦って名前、どこかで聞いたことがあるような気がするんだけど……」
「松野浦先輩は夏油さんの奥さんですよ」
「夏油先生の!?」

 そして虎杖君は私を見ながら「へえ、あの……」と目を丸くする。
 あの、とはどういう意味なのだろうと不安に思いながらも、いつもお世話になっておりますと頭を下げた。



 ───それから吉野君が映画館で見たという男の情報を二人に一通り話し終えた後、しばらくして七海君が口を開く。

「それにしてもよく無事でしたね。同じ館内にいながら目を付けられないとは」

 七海君のその言葉を聞き、確かにと思う。
 二人の話によると上級レベルの呪霊による仕業らしいので、近くにいた吉野君が無事であったのはかなり運が良い。

「多分これのおかげだと思うんですが……」

 そう言って吉野はポケットから私が以前お裾分けと称して渡した護符を取り出そうとする。

 あ、待って!吉野君、それを七海君の前に出そうとしないで!
 吉野君に渡した松野浦の護符は特注レベルのものであるが、もちろんそれは私が予備の余りとして持っていたものであり渡す分には何の問題もない。 
 しかしそれをごく普通の男子高校生に渡したとなると、きっと七海君からお前は何を渡してるんだというような目できっと見られるだろう。

 そして吉野君を止めようと思ったものの間に合わず、彼がぺらりと護符を出した瞬間七海君は案の定硬直した。
 あああ、これはですね、その……と口ごもっていると七海君が耳打ちしてくる。

「あれって皇室に献上されるレベルの……!」
「で、でも余っていたやつだから!全然問題ないから!また私が作るし!」

 「一介の男子高校生になんてもの渡してるんですか」と七海君が強めに言ってくるが、初めての生徒に気合が入りまくってつい渡してしまったとは決して言えず「吉野君が心配だったから」とうやむやにして返した。

 七海君がまるで常識の通じないサイコパスを見るような目つきで見つめてくる。
 高専時代から七海君にはそういった目で見られていたが、慣れることなく視線が痛い。

 そしてそんな七海君から視線を外し、話を変えるつもりで吉野君に護符について説明した。

「でもその護符に認識阻害の加護は付与されていないはずだよ。所持している人によって加護の内容は多少変わるけど……」
「じゃあ本当に向こうが単に気付かなかったっていう可能性もあるんですね」
「どっちにしろ運が良かったってことだな」

 虎杖君のその言葉に頷く。

 とりあえず現場に居合わせた吉野君はしばらく虎杖君が護衛することとなり七海君は特級呪霊の詳細を調べることとなった。私にも何かできないかと言えば七海君から「あなたはもう呪術師を引退した身です。任務には関わらないように」と言われてしまう。

 この件について私を巻き込まないように言ってくれているのはもちろん理解できるが、これ以上あんたが関わると変なところでややこしくなるんだよ、と暗に言われているような気もしなくはなかった。

 ───そして一先ず今後の方針を話し合い解散しようとした瞬間、虎杖君の方から見知らぬ男の声が飛び出してきた。

「随分と久しいな」

 あまりにも禍々しいその気配に振り向けば、何故か虎杖君の頬から口が生えている。
 く、口?

「お、おい!宿儺!勝手に出てくるな!」
「五月蠅い小僧。指図するんじゃない」

 そう言えば以前傑君が両面宿儺を取り込んだ少年が高専に入学したという話を聞いたことがあった。
 もしかすると虎杖君がその少年なのかもしれない。
 しかし大丈夫なのだろうかと思い、ぽかんとする吉野君の前に立つ。

 するとそんな私を見て七海君が「五条先輩の話ですと、虎杖君によって両面宿儺は制御されていますが気まぐれにこうやって会話するそうです」と言った。
 なら大丈夫なのかな……?

 そして虎杖君の頬から生える宿儺の口は勝手にぺらぺらと話し出す。

「貴様、あの松野浦の末裔か」
「おい、宿儺!松野浦さんはお前と何の関係ないだろ!?」

 虎杖君もまさか両面宿儺が私に話しかけるとは思っていなかったらしく、焦ったように言う。

 宿儺のいうあの松野浦家とはどういう意味だろう。どの松野浦家だ……?

 というかあの呪いの王が何故、私に話しかけてくるんだ?虎杖君の言う通り、私達一族と両面宿儺は何の関係も無いはずだ。

 すると宿儺はため息を吐き「関係ならあるぞ」と答えた。 

「松野浦家の認識阻害の呪いは俺がかけたからな」

 そしてそれを言うだけ言って宿儺は虎杖君の頬からすうと消える。
 吉野君はきょとんとしているが、虎杖君は顔をこわばらせ七海君に至っては胃を抑えていた。

 認識阻害の呪いを両面宿儺がかけた?
 あれ……、でも認識阻害の呪いって呪術界に蔓延る影の薄い松野浦家への揶揄じゃなかったっけ。

 呪いの王が落とした爆弾発言をうまく処理することができず、とりあえず先代の松野浦家当主であった実父から詳しく話を聞くことに決めた。



◆◇◆


 
 両面宿儺は久方ぶりの気配を感じ意識を覚醒させた。

 とっくの昔に忘れていたはずの松野浦家の血族。
 平安末期、彼らの始祖である呪術師の男に認識阻害の呪いを気まぐれにかけたのが始まりだった。

 それが今もなお脈々と血族に受け継がれており、それでもなお彼ら一族が今日まで安穏と生きているという事実に宿儺は呆れかえる。

 虎杖と会話していたあの女の間の抜けた雰囲気同様、過去に認識阻害の呪いをかけたあの男もどこか抜けていたなと思う。
 そして両面宿儺は彼ら一族の始祖、平安時代の呪術師【松野浦幸徳】との出会いをぼんやりと思い出した。



『───あれ、薫子殿は?』

 両面宿儺が根城とする、都の貴族から奪った山奥の別邸にて。
 庭の桜の木の上で次はどの屋敷を襲おうかと考えていると、一人の男が宿儺の根城にのこのことやって来た。

 薫子殿?はあ?

 木の上にいた宿儺は物の怪もうろつくこんな夜更けにやって来た馬鹿者の上に遠慮なく下りる。
 ぐしゃりと地面に突っ伏した男は混乱し、自分の背に乗っているのが今都で噂される悪鬼【両面宿儺】と言うことに気付くと恐れわなないた。

 そして男は顔をぐちゃぐちゃにしながら這いつくばり、謝罪と何故ここにやって来たかという説明を聞いてもないのにし始める。

 その男の話によると、同僚から好いている女がここで悪漢に襲われていると聞き飛び出してきたらしい。
 しかしその女も悪漢もどこにもおらず彷徨っていたところ、こうして宿儺に見つかってしまったそうだ。
 
『いっつもそうだ……。馬鹿にされて騙されて、挙句の果てには両面宿儺に殺されちゃうんだ。俺だって、俺だって……』

 べそべそと泣き出す男に苛立つものの、根城にかけた結界を物ともせず侵入したということはそれなりの腕前の呪術師なのだろう。

『お前、名前と術式は何だ』
『な、名前と術式……?松野浦幸徳、術式は無機物に呪力を込めて加護を宿すことができます……』

 時代が時代ならばオーディション番組の自己紹介にも思えなくない。そして素直に答える松野浦という男に宿儺はにやりと笑った。

『ただ殺すには芸がないな』
『へ?』

 この松野浦幸徳という男は話を聞く限り強力な術式を持っていてしても、同僚である呪術師からは大層なめられている。
 そのくせ承認欲求が人一倍強いと見た。
 恵まれた術式を持っていながらも元来の不器量さでうまく立ち回れず、けれど決して希望捨てられずいつかいつかと燻っている。

 だったら己の力量が一切日の目を見ず、この松野浦という男が腐っていく様子を見るのも一興かもしれない。

『おいお前』
『は、はい?』

 そう言って宿儺は男の顔をわしずかむ。
 男はひくりと喉を鳴らし、圧倒的な宿儺の呪力に怯え縮こまった。

『お前は許可なく俺の根城に入り込んだんだ。本来なら万死に値するが今の俺は気分が良い。今日のところは見過ごしてやるが、お前はこの先岩の下に潜む虫のように這いつくばって生きることになるだろう。日の目も当たらず腐り果てていく様をじっくりと見てやろうじゃないか』

 その瞬間、男は宿儺の手によって呪いをかけられた。
 そして宿儺は無造作に手を放すと、男は顔を真っ青にさせながら後ずさり弾けるようにその場から逃げ出した。

 ───呪力を込め、対象物に加護を宿す術式。
 その強力な術式によって、この世がどんな地獄になるか興味があった。

 松野浦という男の恰好を見るにおそらく宮廷に仕える呪術師であろう。
 そのため宮中にある様々な無機物に加護を宿し、もしかするとそれは帝の手から市井にまで流通している可能性だってある。

 加護は呪いにもなり得るのだ。
 そんな松野浦家の道具の加護が呪いに転換した時、一体どうなるのだろう。
 松野浦がこの世に絶望したが最後、どんな災厄を振りまくのかと思うと宿儺は愉快でたまらなかった。

 しかし、宿儺から認識阻害の呪いをかけられた松野浦幸徳という男は人一倍承認欲求が強く、いつかは自分の力を周囲に認めさせたいと思う一方で、かなりの小心者であった。

 周囲に認められなくとも「そりゃそうだよな。俺の術式って大して呪霊を払うこともできないし」と変に納得し、認識されなくとも「俺って影が薄いもんな……」と諦めてしまう。

 時代は移り変わり、魑魅魍魎の蔓延る平安時代よりも呪術師達の呪力の質が低下した昨今。

 呪いによって松野浦を認識できない高呪力者達の数は減っていったが、そういった過去の積み重ねによって松野浦家は呪術界ではいない者として扱われた。

 しかし両面宿儺から呪いをかけられた始祖が根っからの日陰者であり、そしてその血族の者達も往々にしてその気質を受け継いだことは宿儺の唯一の誤算であった。






 父に両面宿儺について話してみたところ、彼も全く把握していなかったらしく泡を吹くほど驚いていた。

 しかし両面宿儺と少なからず関わりがあるかもしれないのだ。
 可哀そうなくらい顔を真っ青にさせる父を巻き込み、過去の松野浦家の調書を片っ端から調べなければならない(ちなみに傑君はいうと仕事で忙しいため調書探しには参加させなかった)

 そして山梨にある実家の蔵をひっくり返し、ようやく見つけた始祖【松野浦幸徳】の日記を鑑定した結果、過去に彼が両面宿儺と出会っていたことが分かった。

 どうやらご先祖様は好いた女が悪漢に襲われていると同僚にころっと騙され、宿儺の根城に突撃してしまったらしい。

 は、恥ずかしい……。
 父も私もご先祖様のあまりの間抜けっぷりに一周回って恥ずかしくなってしまう。

 両面宿儺の呪いについては全く分からなかったが、日記には好きな女性が襲われてなくて良かったということと宿儺に対する恐怖が長々と書かれていた。
 【両面宿儺と会っても殺されなかったのは自分があまりにもひ弱だったからに違いない】という記述でもう駄目だった。あの両面宿儺に見逃してもらえたのだ。弱かったから。

 この残念な感じが父にも私にも似ていて、段々解読した日記を読むのが辛くなってくる。
 ご先祖様の黒歴史が自分と重なって見えてしまって恥ずかしい。これが共感性羞恥というやつか。

「これは未来永劫封印だな……」
「うん……」

 きっと先々代当主らもこんな気持ちになって、両面宿儺との関係を次代に語り継ぐことをやめたのかもしれない。

 とりあえず松野浦家の現当主である傑君には呪いについては全く分からなかったが、ご先祖様が両面宿儺と対峙したことは確かであったと説明した。
 松野浦家のご先祖様が同僚に騙されて宿儺の根城に行ったことを話すのは大変恥ずかしい。

 しかし傑君は都合よくご先祖様が好きな女のために飛び出して行ったというところに注目して「松野浦幸徳は呪術師らしくない程、情に深い男なんだな」と朗らかに言った。

 前々から思っていたが、傑君は私だけではなく松野浦家全体に対しての勘違いも酷いように思えた瞬間であった。



◆◇◆



 松野浦家と両面宿儺の因果はとりあえず傑君から上層部に話してくれることになった。

 そして七海君と虎杖君が追っている特級呪霊についてだが一度遭遇したものの逃げられてしまったため、現在も調査中とのことだった。
 途中その特級呪霊が凪さんと接触しようとしたが、松野浦家の護符の加護が発動したそうで彼女の身は無事らしい。よ、良かった。

 それから吉野君はというと、どうやら呪術高専に通うことが決まったそうだ。

「え、吉野君高専に行くの!?」
「はい。松野浦先生には事後報告になってすみません……」

 久しぶりに吉野君に会うと、彼は申し訳なさそうに私に頭を下げた。
 詳しく話を聞くと、吉野君の護衛についていた虎杖君から色々と話を聞き転入することを決めたらしい。

 最終的に吉野君が決めることとはいえ遠回しに「呪術師はやめておいた方が良いんじゃないかな?」と言ってみたが彼の意思は固そうだ。
 いや、でも……と言い淀む私に対して吉野君も引く様子がない。

「今回の件で自分がいかに力不足か分かったんです。母の身も、それから自分の身だって松野浦先生の護符や呪術師の人の力がなきゃ守れない。この先、どんなに危険な目にあったとしても自分の力が足りないせいで大事なものを失うようなことはしたくないんです」

 吉野君の中で母である凪さんが特級呪霊に襲われたことが相当ショックだったのだろう。そう話す吉野君をそれ以上引き留めることができない。

「………無理しないでね。辛いことがあったらいつでも相談してね」

 せめてもと思いそう言えば、吉野君は穏やかな顔で頷いてくれた。


 ───それからしばらくして、吉野君は高専に通いだした。

 彼からの電話で同性である虎杖君や伏黒君という子達とはうまくやれているらしいが、女子の個性が強すぎると聞く。
 また吉野君の同級生には美々子ちゃんと奈々子ちゃんもおり、彼女達とはどうかと聞けば『松野浦先生の妹さんだなんて知らなかったし、めちゃくちゃ怖い』と嘆いていた。
 一体どうしちゃったんだろう……。

 そして高専に入学してからというもの、傑君が色々と面倒を見てくれているらしい。
 二人ともしっかりしているものの、何となく危なっかしい一面を抱えているような気がするため少々心配になってしまうが、周りには五条君や、あの明るい虎杖君がいる。

 だからきっと、大丈夫だろう。






 夏油傑は相変わらず忙しい日々を過ごしていたが、自分自身の限界と松野浦に愛想をつかされたくないという思いから最近は何があっても家に帰るようにしていた。

 いつもはきっちりとまとめている髪を無造作におろし、ソファでぐったりと項垂れている夏油の横に松野浦が座る。

「傑君だって忙しいのに両面宿儺のこととか吉野君のこととか、本当にありがとう」

 そんな彼女に夏油は苦笑し首を振った。
 高専時代、夏油は彼女に何度も救われてきたのだ。星漿体の天内理子のことも、あの集落のことも、呪霊の味のことも。夏油が心折れそうになった時にいつも松野浦は何とでもないような顔をして救ってくれた。

 本人は気付いていないだろうが、それらの数々を思えば夏油が今彼女のためにしていることは苦でも何でもない。

「……………最近不満とかないか?」
「不満?」
「ほら。少し前まで私は家にも帰ってこなかったし………」

 かりに不平不満だらけで愛想つかされていたとしても別れる気はさらさらなかった。
 しかし彼女との生活があまりにも心地よくて、たまにこんなに幸せになって良いのだろうかと思ってしまう。
 松野浦の意思も関係なく無理矢理婚姻を結び、それでも彼女は何も反発せず穏やかに夏油と一緒にいてくれるのだ。

 呪術師らしくない恵まれた人生を歩む中、いずれそれがふと壊れるのではないかという恐怖がある。
 そして何より松野浦自身が本心でどう思っているのか聞いておきたかった。

 不満……と思い悩む彼女は不意に顔を上げ「ちゃんと言ったことはなかったと思うんだけど……」と口を開いた。

「傑君のことが好きだから今こうやって結婚できてすごく幸せだよ。だから不満とかはないし……。でも心配はいつもしてるかな」

 「普段は中々言えないんだけどね〜」ともごもごとさせながら照れたように言う。
 そして恥ずかしくなってきたのが彼女は締まりなく笑い出した。

 そうか。そうなのか。
 思いがけない松野浦の言葉にぐっとくるとともに、ここで死んでも何の後悔もないだろうと夏油は思った。

「……………私はもう死んでもいいかもしれない」
「な、何で!?」

 自分でも訳が分からないことを言っている自覚はあった。そして松野浦は夏油に「疲れてるんじゃない?」と頓珍漢なことを言いだす。

「傑君がこんな風になるまで疲れるだなんて……。やっぱり呪術師って忙しいんだね。人手不足だし私も復帰した方が良いんじゃ……」
「君が呪術師に復帰したら私は呪詛師に転向する」
「それだけはやめてね」
「セナが大怪我もせず死ななければそんなことしないよ」

 そんな夏油を見て松野浦は高専時代よりもさらにメンタルが不安定になっていないか?と思ったが、前ほど生き辛さは感じていないようでほっと安堵する。

 そして夏油も、実は自分のことをちゃんと好きだと打ち明けてくれた松野浦がますます愛おしくてたまらなくなった。







 | 

表紙へ
top