庵歌姫には二人の可愛い後輩がいる。
一人は家入硝子という反転術式の使い手で、もう一人は松野浦セナという少女だ(もう二人、五条と夏油という可愛げのかけらもない後輩がいるが今は説明しない)
その内の一人、松野浦セナと任務帰りに新幹線でばったり鉢合わせた。向こうも別の任務についていたらしく、制服は少しほつれ疲れ切っているのか顔色も悪い。
しかしそんな様子を見せまいと笑みを浮かべる松野浦に、歌姫はけなげな後輩だとしみじみと思った。
「どこの任務だったの?」
「名古屋です。呪霊が小学校に群れていたのでその討伐に行ってました」
隣の座席に座る松野浦に聞けば、彼女は素直に答える。
松野浦の術式は『呪力転移』というもので無機物に様々な加護を宿す術式だ。戦闘には向いていないため、もっぱら彼女は後方支援と言う形で他の呪術師と組むことが多い。
今回の任務で組んだ呪術師はどうしたのだと聞けば、現地で解散したようで一人で高専に帰ることになったらしい。
「歌姫先輩はどうでした?」
「私も似たようなもんよ。廃病院に溜まった呪霊の討伐に行ってきたんだけど数が多くて……」
そう言いながら歌姫は新幹線の座席に深く腰を下ろす。
この業界は常に人手不足であり、それに反比例するかのように呪霊の数は増えていく。過酷な職場であると分かっていても歌姫はうんざりとしていた。
おまけに呪術界にいるような人間は揃いも揃って曲者ばかり。まともな神経の人間は早々に辞めていくため、残った呪術師は誰も彼も変わっていた。
特に歌姫の可愛くない方の後輩、五条と夏油は一癖も二癖もある。彼らは性格が悪く、そして先輩である歌姫に対しての態度も悪かった。
そんな歌姫の考えを知ってか知らずか、松野浦は「お疲れ様です」と言う。
「あ、そうだ」
するとその時、松野浦は鞄から何やら取り出し「お土産です」と言って歌姫に差し出した。
上品な水色の包装紙で、歌姫が以前から気になっていたバームクーヘンの店舗ロゴが描かれている。
「前に食べてみたいって言ってましたよね?私も気になっていたから買ってみたんです。帰ったら硝子ちゃんも呼んで一緒に食べませんか?」
「え、覚えてくれてたの?」
「はい。私も気になっていたし、名古屋の店舗しか売っていないみたいだったので……」
そう言って微笑む松野浦の後ろに後光が指しているように見えた。歌姫はそんな松野浦をまぶしく思う。
何だこの子。あまりにも良い子すぎないか?世界児童文学か道徳の教科書の世界の人間じゃないのか?
中々お目にかかれない善性の塊のような少女に感動と、今後呪術界で苦労するであろう彼女の性分に歌姫は心配になる。
しかしそこで、歌姫の脳裏に何故か夏油傑の顔が思い浮かんだ。
松野浦を思うと、いつもあの胡散臭そうな雰囲気を持つ狐目の青年が横に並ぶ。そして彼女の腰を抱いて「心配しないでください。私が松野浦のそばにいますから」といけしゃあしゃあと言い放つイメージがよぎるのだ。
そう、松野浦は不幸にも夏油に気に入られていた。
何があったか知らないが星漿体の護衛任務以降、夏油は松野浦を気に入ったようで暇さえあれば話しかけている。歌姫や五条らには決して見せない笑みを浮かべ猫をかぶっているのだ。
以前、そんな夏油に対して五条がせせら笑い、術式ありの喧嘩にまで発展したことがあった。
しかし松野浦が現れた瞬間、夏油は『悟が急に襲い掛かって来たんだ。ほら、見てくれ。額も切れたし制服もぼろぼろだ。全くひどい奴だよ……』と被害者面をし始めたのだ。
おまけに彼女の同情を誘おうと『松野浦が手当てしてくれ』とまで言い出す。
『手当なら硝子ちゃんにやってもらった方が早いんじゃ……』
『硝子は生憎手が離せないらしい』
『いや、めちゃくちゃ暇そうに見えるんだけど……』
え、本当に私が手当てするの?と戸惑いながら医務室にずるずると引きずられていく彼女が可哀想でならなかった。
そしてすべての一部始終を知っている五条、家入、歌姫の両三名はその場で宇宙を背負った猫のような顔をする。
色々と言いたいことはあるが、夏油のそのワンマンぶりと突っ込む暇を与えないその強引さに言葉を失ったのを覚えていた。
───そんな松野浦と夏油の関係性に歌姫は頭が痛くなった。
隣に座る少女を見る。
幸か不幸か松野浦は夏油の気持ちに一切気が付いていなかった。
松野浦一族に脈々と受け継がれる鈍感さで彼女は夏油からのアプローチを神回避するのだ。
しかしそれがいつまでもつものやら。煮え詰まった夏油によって強引に手籠めにされる未来がありありと想像できた。
「………ねえ、最近夏油とどうなの?」
「え、夏油君ですか?」
歌姫の問いに松野浦が不思議そうな顔をする。
「あんたの良心にかこつけて部屋まで押し掛けたり無理矢理恋人になろうとしてきたり……」
「ええ……」
「最悪セナの親と勝手に話付けて婚約者になろうとしたり……」
「まさかあ」
歌姫の言葉に松野浦が苦笑する。
まさかあと呑気に笑っているが、あの夏油ならやりかねないのだ。そこら辺、松野浦がきちんと理解しているか歌姫は不安になった。
「ほら?あいつって性格悪いじゃない?あれ、そういえばあんたって夏油が正しくクズだってこと、ちゃんと理解してたっけ?」
「夏油君がクズ……?」
「だめだ。理解してない」
そんな危機感の欠如した彼女に歌姫は盛大にため息を吐いた。
そして「あいつはねえ……」と口を開く。
「あいつはごくごく自然に人を見下してくるような男よ?形だけの礼儀で人を敬おうって気持ちはないんだから。それにセナも見たことあるでしょ?あいつ私のこと弱いって……!」
静岡県浜松市で起きた呪霊討伐任務の際、歌姫は冥々とともに任務に当たっていたのだが、そのサポートとして五条ら後輩四人組がやって来たことがあった。
その時に歌姫と五条が諍い合っていると夏油は歌姫を弱者と称し、五条に向かって「弱いものいじめはいけない」と煽ってきたのである。
それを思い出した歌姫が怒り心頭で松野浦に訴えると、彼女も思い出したのか「確かに……」と素直に頷く。
「ね!そう思うでしょ!?そういうちょっとしたところから性格の悪さは見えるの」
「夏油君ももう少し優しい言い方をしてくれたら良いんですけどね」
そして松野浦は困ったように眉を下げて歌姫を心配そうに見つめる。
それを見た歌姫は「ざまーみろ夏油傑」と心の中で吐き捨てた。
夏油が松野浦に惚れたのは星漿体の護衛任務以降。それ以前の夏油は松野浦の前で五条と一緒にクズな悪行を晒してきたのだ。
そういった過去の行為はおそらく松野浦の記憶にも残っているだろう。
それをきちんと思い出し、夏油に警戒心を持ってくれたら幸いだと歌姫はしみじみと思った。
「───ひどいじゃないですか。歌姫先輩」
しかし次の瞬間、聞き覚えのある声が降ってきた。
歌姫と松野浦が顔を上げれば何故かそこには噂の人物である夏油がいて、新幹線の通路に立っている。
「あ、あんた、何でここに……」
「前の方の席に座っていたら声が聞こえてね。私の話をしていたものだから来てみたんです」
そう言って目を細める夏油から歌姫は圧を感じた。
座席に座り込む歌姫を上から見下ろす夏油は、体格の良さも相まって威圧感がある。黒い影法師のような男に歌姫はひくりと顔を引き攣らせた。
この男はどこからどこまで話を聞いていたのだろうか。
そうふと思えば夏油は間入れず「全部聞いていましたよ」と言う。心を読むな。
「ご、ごめん、夏油君。悪口みたいなこと言って……」
するとその時、歌姫の横からか細い声が聞こえてくる。
見れば松野浦は顔を真っ青にさせて申し訳なさそうに眉を下げていた。
上から見下ろしてくる夏油に彼女も怯えてしまっているのだろう。笑っていてもしっかりと怒っている夏油の表情は中々迫力があるのだ。
そうだ。このまま怖がられてしまえ。そんな彼に歌姫はほくそ笑んだ。
しかし夏油は松野浦を一瞥するところっと表情を変え「かげでこそこそ言われるとさすがに傷つくよ」としおらしく言う。
はあ?
歌姫は夏油をまじまじと見つめて顔をしかめた。
おいおいおい。こいつは何言ってるんだ。陰口叩かれて傷つくような男でもないだろう。
松野浦の言葉に傷付きました、と言わんばかりに目を伏せる夏油に歌姫は苛立つ。
そして松野浦も松野浦で焦ったように謝っており、歌姫は「しっかりしろ!」と言いたくなった。
「そうだ。悪いと思うんなら今度一緒に出掛けないか?」
「何が、そうだ、よ!あんたねえ本当にいい加減にしなさいよ!」
「何故歌姫先輩が割り込んでくるんですか?今私は松野浦と話しているんですが」
「だあああ!セナ!目を覚ますのよ!こいつはこういう奴なのよ!」
相手の罪悪感に付け込んでデートを取り付ける奴なのだ。目を覚ませ、夏油は良い奴なんかじゃない。悪い奴だ。
そんな歌姫の思いを察しているのか察していないのか、松野浦は困ったように苦笑したのだった。
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