前日から降り続いた雪がやみ、空には抜けるような青が広がっている。ベポは、やった!とガッツポーズをした。これでみんなと雪合戦ができる。キャプテンも早く起きてこないかな、と船内への扉を振り返ると、ちょうど扉が開いて、シャチとペンギンがなにやら言い争いながら出てきた。なんだ、キャプテンじゃないのか。ちょっとがっかりするベポ。
「だーかーら!なんで毎回おれなんだよ!たまにはお前が行ってこいって!」
「はァ?!ジャンケン勝ったのおれなんですけど!負けたんだから潔くお前行けよ!」
シャチとペンギンは言い争ったままベポのそばまで歩いてきた。
「二人ともどうしたんだよ?」
言い争う二人を見かねたベポが声をかけると、シャチが”聞いてくれよ”と言わんばかりに喋り出す。
「ペンギンがジャンケンで負けたのに、キャプテン起こしに行くのいやだっつーんだよ!負·け·た·の·に!」
「確かにジャンケン負けたけど、この前もその前もおれが起こしに行ったんだからな!空気読んで代われよ!」
二人はどちらがキャプテンを起こしに行くかで揉めているらしい。ということは、キャプテンはまだ起きてすらいないということになる。ベポはちらりと空を見上げた。もうずいぶんと日が高い。雪合戦を満喫するなら、早いところ起こしに行ったほうがいいだろう。
「じゃあ、おれがキャプテン起こしに行ってくるよ!」
まだ言い争っていた二人は、その言葉を聞くなり、救世主か!?とでもいうような顔でベポを見た。そしてすぐさま拝むように両手を合わせる。
「「おねがいします!!」」
わかった。と笑顔で頷くベポだったが、ふと、あたりをきょろきょろ見渡し始めた。
「そういえば、シイラは?」
「あれ、今日はまだ見てないな。シャチは?」
「いや、おれも。もう起きててベポといるもんだとばっかり……」
二人と一匹は顔を見合わせた。こんな時間までシイラが起きてこないなんて、おかしい。
いやな沈黙が流れる。
「え、だ、大丈夫かな、シイラ……!」
「おれちょっと部屋見てくる……!」
「抜け駆けズリィぞ!おれも行く!」
「バカ、真面目にだよ!」
もうほとんど突進するような勢いで、全員が扉へと向かう。
誰かの手がドアノブに触れる、というところで、パッと扉が開いた。空を切る三つの手。そしてそのまま全員仲良く甲板に落下。どちゃっ。という音が響く。
ベポとシャチとペンギンが顔をあげると、真っ赤な顔をしたシイラが、ふらふらと甲板に出てきた。もうほとんど倒れそうだ。慌てて立ち上がったベポが、ぽすっとシイラを受け止める。もしかして病気?!ベポは心配になった。
シャチとペンギンもそう思ったらしく、すぐに起き上がってシイラの顔を覗き込む。
「うわ、どうしたシイラ、顔真っ赤じゃん!」
「あれかな、昨日外出てたせいで風邪ひいたとか……!」
「シイラ、大丈夫か?」
「だ、大丈夫……、ありがとう」
ベポの腕の中で、シイラは弱々しく微笑んだ。
「いや、どう見ても大丈夫じゃねェって。おれキャプテン呼んでくる!」
そう言って駆け出すペンギン。
「あ!だめ待って!キャプテンは呼ばないで!おねがい!!」
ベポの腕から身を乗り出して叫ぶシイラ。見ると、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「いやでもシイラ、それ絶対診てもらったほうがいいって……」
シイラの顔を覗き込みながら説得にかかるシャチ。なぜキャプテンを呼びたくないのかはわからないが、泣き出しそうなほどに辛いなら、診てもらったほうがいいに決まっている。
キャプテンを起こしに向かったペンギンの手がドアノブに触れる、というところで、またしても開く扉。空を切る手。落下。どちゃっ。完全にデジャヴだった。
全員の視線が扉から出てきた人物に集まる。
その瞬間、笑顔だったベポとシャチ、ペンギンの顔が不可解なものでも見るようなものへと変わった。
「「「なにがあったのその顔?!」」」
二人と一匹の絶叫が響き渡る。
出てきたのは、左の頬を真っ赤にしたローだった。
「おれが聞きてェよ。……起きたらこうなってた」
はあ、とため息をつくロー。
固まる二人と一匹。最初に石化を解いたのはペンギンだった。
「あ!キャプテン、シイラが!」
次にシャチ。
「そう!かなり辛そうなんだ!」
最後にベポ。
「シイラ治るよな?!キャプテン〜!!」
当のシイラはぴったりとベポにくっついていて、ローの位置からは顔が見えない。甲板にうつ伏せるペンギンを避けて、ローはベポのすぐそばまできた。腕の中を覗き込んでみたが、シイラはぴったりとベポにくっついて、顔を合わせようとはしない。
「おい、シイラ」
名前を呼ぶと、少しだけ身じろぎをしたものの、顔を向けようとはしない。
「どうしたんだよシイラ〜、キャプテン来てくれたから、診てもらわないと」
シイラはくっついたまま、小さく頭を振る。
「……ベポ、引き剥がせ」
それを聞いたシイラは、ぎゅっとベポの服を掴んだ。シイラを引き剥がすなんて胸が痛むベポだったが、ここはシイラのために心を鬼にすることにした。
「うう……、ごめんな、シイラ」
申し訳なさそうに、よいしょとシイラを引き剥がすベポ。両腕をめいっぱい伸ばすシイラだったが、ベポに届かないとわかるとおとなしくそれを下げた。
目の前にはローが立っているが、シイラは俯いたまま、ひとことも喋らすに俯いている。後ろには、ベポとペンギンとシャチが並んで立って、ことの行く末を見守っていた。はたから見たら完全にお説教シーンだ。
「で、どこが悪い?」
そう訊くと、観念したのか、シイラはぽつりとつぶやいた。
「……わ、悪くはないんです、どこも」
「いやでも、シイラ顔赤かったろ?」
「しかも泣きそうだったしな」
シャチとペンギンがシイラの顔を覗き込むようにして、文字通り横から口を挟む。
すっと腕を伸ばしたローが、俯くシイラの顎に手を添えて持ち上げる。完全に不意打ちをくらったシイラは、素直に顔をあげてローの顔を見ることになった。みるみるうちに顔が赤くなって、その視線がさっと逸らされる。視線を合わせようとローが顔を動かすと、シイラは逃げるように視線を逸らす。
そんなシイラを見て、シャチとペンギンは感づいてしまった。そして同時に、シイラの腕を掴んで引き寄せると、庇うように両側に立って叫ぶ。
「キャプテンのケダモノ!!野獣!!」
「何事にも順序ってもんがあるでしょーが!!順序が!!」
シイラの顎に添えた手の形のまま、ローはベポの方を見た。
「……おいベポ、こいつらがなに言ってるかわかるか?」
「いや、おれにもわかんないよ。だってキャプテン人間じゃんか」
シイラの両側に立ってぎゃーぎゃーと騒ぎ立てるシャチとペンギン。
「ベポ」
「なに?キャプテン」
「そいつら連れてけ」
そう言いながら、右手の人差し指と中指でシャチとペンギンを指し示すロー。
「アイアイ!」
「シイラの純潔が!!」
「降ろせベポー!!」
口々に叫びながら、ひょいひょいとベポの肩に担がれて船内へと連行される二人。
やっと静かになった。というように息を吐くと、ローはまたシイラの前に立つ。姿勢を低くして、俯くシイラの顔を覗き込んだ。まだ少し顔が赤い。ローはそっとシイラの頬に触れた。ぴくりとシイラの肩がこわばる。
「……おれか」
ローはため息をついた。
「悪い、なにか怖い思いさせたか?」
いつも朗らかなシイラが、ここまで頑なになるのだ。身に覚えはなかったが、知らないうちになにかしてしまったのかもしれない。素直に謝罪を口にしたからか、シイラはゆっくりと、窺うように視線を合わせる。それから、ぽつりと話し出した。
「こ、怖い思い、というか……」
シイラは言葉を切ると、真っ赤になって押しだまる。それから何度か深呼吸をして、続く言葉を紡いでいく。
「ベポが、キャプテンと雪合戦するの楽しみにしてたんです。でも、キャプテンまだ起きてなくて……、それに、誰も起こしに行かないみたいだったから、わたしが行ったんですけど、何回か声をかけたら、キャプテン急に起き上がって、あの、その……」
シイラはさらに真っ赤になった顔を両手で覆った。
「胸に、顔……」
くぐもった声が小さくなる。
「突然だったから、びっくりして手が出ちゃって……、左頬、すみませんでした……」
しばらくの沈黙のあと、シイラは顔を覆っていた手をそろそろと下げてみる。目の前では、ローが左手を口元に当てながら、眉間にしわを寄せて難しそうな顔をしている。視線は右下にあって、シイラを見てはいない。叩かれたことを怒っているのかも、と不安になったシイラはなにも言えずに縮こまる。
ローがぼそりと話し出した。
「頬のことはいいんだが、いま言ったこと、本当か……?」
どこか戸惑いを含んだようなローの視線がシイラに向けられる。シイラはこくりと小さく頷いた。
それを見たローは、眉間にしわを寄せて、必死になにかを思い出そうとするように首を傾げる。
「……いや、まったく記憶にねェんだ……」
それを聞いたシイラはほっと胸を撫で下ろした。記憶にないことをわざわざ言ってしまった気恥ずかしさはあったが、キャプテンが覚えていないなら、あとは自分の気の持ちようだ。と思い直して、シイラもこのことは忘れようと思った。
「キャプテン寝ぼけてたんですよ、きっと」
朗らかに笑うシイラ。ふと、なにかを思い出したのか、あ、と声をあげる。
「そう、雪合戦!わたしベポたち呼んできますね」
そう言って船内へと向かうシイラの後ろ姿を、まだ不可解そうに見つめるロー。……本当か?本当に憶えてねェのかおれは?ローがいくら今朝のことを思い出そうとしても、記憶の始まりは熱を持つ左頬の痛みがあるだけ。惜しいことをした。ローは首を横に振る。
いや、だが、あのシイラがあそこまで頑なになったくらいだ、ローが憶えているとわかれば更に気まずくなるだろう。逆に記憶がなくてよかったのかもしれない。記憶がないと聞いて吹っ切れたのか、シイラもいつものように朗らかに笑っていたじゃないか。
自己完結して空を見るともなく見ていたローは、扉が勢いよく開かれる音に振り返った。
シャチとペンギンがバタバタと甲板を駆けてくる。
「「キャプテンなにそのラッキースケベー!?」」
大声で叫んだ二人の顔に、時間差で雪玉が命中した。