両手にコーヒーの入ったカップを持ちながら、ローは自室の扉を肘と肩を使って器用に開ける。もう慣れたものだった。最初の頃は、つま先で合図をして扉が開くのを待っていたが、意図的ではないにせよ無視されることが度々重なり、両手にカップを持ちつつ扉を開ける方法を試行錯誤して今に至る。
シイラは扉が開いたことに気づいていない。ローが部屋に入ってきても、本から視線を上げようとはしない。いつものことだ。
そして当然、目の前にコーヒーが置かれたことにも気がつかない。もしかしたら、船体に穴が開いても気がつかないんじゃないか。ローが毎回そう思うくらい、シイラの横顔は真剣そのものだった。軽々しく話しかけるのをためらってしまうような。
ローはそんなシイラを横目しながら、彼女の左手側にある自分の椅子に座って、コーヒーの入ったカップを机に置き、読みかけている医学書を手に取った。いつもの彼なら、この段階で交差させた脚を机に乗せているところだが、シイラのいる手前、それはさすがにやめておいた。
二冊分のページを繰る音だけが鳴る。
ローは目の前の医学書に集中しようと試みてみたものの、視界の右端に映るシイラの横顔に気を取られてしまい、うまくいった試しがなかった。シイラが普段はかけていない眼鏡をしていることも、その原因のひとつかもしれない。
シイラの視線が、ゆっくりと本の上を流れては戻ってくる。長いまつ毛が、あと少しでレンズに届きそうだ。
集中できそうにないと観念したローは、そっと医学書を閉じてもとの位置に戻す。
机に両肘をついてじっとシイラを見つめていると、なにか気配を感じ取ったのか、シイラははたと文字列から視線を上げた。まず、目の前に置かれたコーヒーに視線が移り、それから、左側のローへと移った。シイラはぎょっとしたような顔をして、その顔のまま、またコーヒーへと視線を移して、ローへと視線を戻した。

「……すみません」

シイラは眼鏡を頭の上にずらしながら、申し訳なさそうにぽつりとつぶやく。コーヒーを淹れてもらったことと、ローに気づかなかったことへの「すみません」だった。

「船が沈むまで気がつかねェかと思ったが」

ローはふっと息を吐く。

「声、かけてくれていいのに」

シイラは気まずそうに笑って読んでいた本を閉じると、外した眼鏡をその隣に置いた。

「コーヒーもありがとうございます」
「ああ。なにか入れるなら自分で持ってこい」

そういいながら、ローは自分のカップに口をつける。シイラもふふと笑って、カップに口をつけた。
シイラが読書のために船室を訪れるようになってから、もうずいぶんと経つ。曰く、ここがいちばん静かで集中できるから、だそうだ。そのため今では、ローの机の右手側3分の1ほどは、シイラの読書スペースと化している。
シイラはとても静かに本を読む。そして、それが様になる。”本を読む女”とかいうタイトルで、そのまま彫刻か絵画にでもできそうだ。
シイラは静かにカップを置くと、椅子から立ち上がって背後にある本棚へ向かう。なにか参照したい本でもあったのだろう、ゆっくりと左右に動いていたシイラの頭は、最上段を見上げるかたちで止まった。どう見ても、シイラの手が届くとは思えない高さだ。
ローは椅子を引いて立ち上がる。そして、つま先立ちでなんとか本を抜き出そうとするシイラのすぐ後ろに立つと、お目当ての本をするりと抜き出した。
シイラがお礼を言って手を伸ばすと、ローはひょいと手の届かない高さまで本を持ち上げる。状況が理解できなかったのはほんの一瞬で、すぐにシイラはローをじっと睨んだ。いや、本人はきっと睨んでいるつもりなのだろうが、ローからしたらただの上目遣いにしか見えない。笑うまいと唇を噛んで顔を背ける。

「キャプテン」

ふざけないでください、という副音声が聞こえてきそうな声だ。
久しぶりにからかってやろう、とローは思った。毎回自分だけが読書に集中できないので、そのお返しの意味も多少はある。シイラからしたら傍迷惑でしかない話だ。

「おれもこれに用がある」

ローはさらりと嘘をついた。
シイラがちょっと困ったように眉を下げる。そうだったのか、と思っている顔だ。ローは内心ほくそ笑んだ。

「あ、でも、わたしすぐ済みますから」

貸してもらえますか?顔色を窺うように、シイラは小さく首を傾げる。
ローはわざと難しそうな顔で、そうだな……、と呟いたあと、すっとシイラの耳元へ顔を寄せる。

「今夜、おれといるなら」

耳元で囁かれた低い声に、シイラの身体がびくりと動く。
顔を離して見たシイラの顔は火のように真っ赤だった。ローは愉快でたまらない。この手のいたずらを仕掛けたのは初めてではないが、シイラは毎回うぶな反応を見せてくれる。からかい甲斐があるというものだ。

「冗談だよ。ほら」

からかわれたことに気づいたシイラは、引ったくるようにして本を受け取ると、その場でパラパラとページを捲り始める。髪の間からのぞく耳が赤い。いとおしい、と思った。
ローは、静かに、ゆっくりと、シイラの腰に両腕をまわして、シイラを抱き寄せる。シイラの身体が一瞬こわばったが、ローの腕を振り解くようなことはしない。顔にかかる髪をかき分け、じわりと熱を持つ耳にそっと唇を寄せると、シイラはふふっと笑って、腕の中でくすぐったそうに身をよじる。

「もう……!キャプテン、」

くすぐったいからやめてください。振り向いたシイラはまだ赤い顔のまま、少し楽しそうに微笑んでいる。このまま押し倒してしまおうかと思ったローだが、こういう反応をされるうちは、まだやめとくか。と踏みとどまった。
だが、一体いつになったら、シイラは自身に触れるローの想いに気づくのだろう。そもそも、この調子で気づく日なんかくるのか?ローは心の底から深いため息を吐く。その意図を推量れないシイラは、ただただ首を傾げるばかりだった。


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