喧嘩編1
カラン、と透明なロックグラスの中で大きな氷同士がぶつかる涼しげな音が響いた。
「で、どう思います?」
「どう、と言われましてもねぇ…」
「いくらなんでも酷くないですか」
「しかしアイツの口が悪いのは今に始まったことじゃないだろう」
「銃兎さん、こういう時は嘘でもそうですねって同情してください……女の子は愚痴に正論を返してほしくて話をしているわけじゃないんです」
「はあ……面倒臭い人ですね」
やれやれと、わたしの言葉に息を吐いた銃兎さんは、そのまま自分のグラスに残っていた度数の高いお酒を一気に煽って目を伏せた。
ヨコハマの外れにある小さな繁華街の地下に位置するこの場所は、いくらあの王様でもすぐには見つけられないだろうと、隣にいる彼から数年前に紹介してもらった店だ。
ヨコハマ1と言っても過言ではないあの有名な繁華街からは多少距離もあるが、その分静かで人も少ない為、こうして隠れて飲みたい気分の日には、必ずと言って良いほど彼をここに呼び出しては、話を聞いてもらっている。
「は〜 左馬刻のばか、」
「結局寂しいんじゃねぇか」
「違います…」
「今さらなんの意地だ」
深いため息と同時に伏せた頭の横では、先ほどからなんの反応も示さないスマホがただ虚しくその存在を主張していた。
恋人である左馬刻と些細な口喧嘩から発展したイザコザは、銃兎さん曰く「いつもの痴話喧嘩」だと言うが、当事者からすればそんな簡単な言葉で片付けられるほど生易しいものではない。
口論の末、もういい!と諦めの言葉を残し、自宅を飛び出してから数時間ーーー未だなんのアクションも起こしてこない彼に僅かばかりのもどかしさを感じながらも、それを大っぴらには出来ず虚しくも進んでいくだけの時間に、はあ…と一つ大きなため息がこぼれた。
「まだ飲むか」
「はい……出来れば強めのものを」
「貴女後で後悔しますよ」
「大丈夫です、しません」
「そんなに落ち込んでるならさっさと連絡すりゃいいだろう」
「正論はやめてください」
「…そうだったな」
伏せた頭に、ポンポンと優しく乗せられた手が、そのままスルリとわたしの髪を撫でた。幸い今日は仕事終わりだ。朝からきちんと手入れを施した髪は、銃兎さんからも「相変わらず綺麗だな」とお褒めの言葉をいただいた。
「うぅ……嬉しいけど左馬刻みたいなこと言わないでください、」
「仕方ない。男だからな」
「どういう意味ですかそれ……」
「女の綺麗な髪が嫌いな男はいない」
「銃兎さんに惚れたら大変そう、」
「貴方の恋人には及びませんよ」
「……」
「もう少し愚痴を吐いたらきちんと左馬刻に連絡をしてください」
「それは悔しいので嫌です、」
「子どもですか」
話しているうちに、マスターの手から出された何杯目かも分からないグラスに口をつけた。
今度はなんのカクテルだろう。強めとは言ったものの、そんなわたしの要望を素直に聞いてくれているとは思えない銃兎さんのチョイスだ。鮮やかなオレンジ色のそれを口に含んで嚥下した瞬間、広がる覚えのある味にム、と口を噤んだ。
「わたしがカシスオレンジで酔える可愛い女の子に見えますか」
「見えないからそれで最後にしろと暗に伝えているつもりですが」
「銃兎さんの意地悪…」
「なんとでも言え」
髪を撫でる手が離れ、やがて伏せられたわたしの頭にもう一度その手が乗った瞬間。ガタン、という音と同時に静かなバーの中で誰かがこちらへ近付いてくるような足音が聞こえた。
カツ、カツ、とそこそこ上等な靴を履かなければ鳴らないその音に、しばらく会えていなかった彼の顔を思い浮かべるが、世の中そんなに都合良くは出来ていない。
予想通り、その足音が止むのと同時に、スッとわたしの目元を覆うようにして触れられた手が嫌な気配を感じさせた。
「………入間銃兎だな」
「どちら様です?」
普段そばにいる彼のせいで、こういったやり取りには慣れている。
名前を確認するだけのそのたった一言に含まれた恨みや嫌悪は、もちろん彼にも充分過ぎるほど伝わっているだろう。
このほんの数秒で目まぐるしく変わってしまった状況に、半分ほど脱ぎかけていたパンプスをしっかりと足に嵌めて、二人の会話に耳を澄ませた。
「チッ…こんな所で女と好き勝手しやがって、」
「おや、ただの知人と世間話をしていただけでそこまでの言いがかりを付けられるのは心外ですねぇ。貴方には今この光景がそんなにもふしだらに見えますか」
「知人だろうがなんだろうが女といるのは一緒だろ」
「はあ……貴方は一つ勘違いをしているようなのでお伝えしておきますが、彼女は…」
「うるせぇ!」
「!」
その先は、いったいなんと言うつもりだったのだろう。
あいにく彼の言葉の先は、相手の怒号によって遮られてしまった為聞くことは出来なかったが、その大声に驚いてつい顔を上げてしまったわたしと目が合った瞬間ーーー男は納得したようにニヤリと口角を釣り上げて笑った。
「なるほどね」
「、」
「碧棺左馬刻の女か」
どうやら銃兎さん個人に対してではなく、左馬刻に対してもなんらかの恨みがあるようだ。怨恨の対象として彼の隣にいるわたしのことも把握しているあたり、その闇はだいぶ深いことが伺える。
「で?貴方はいったいわたしになんの用です?」
「………」
「ご覧の通り女性もいることですし、出来れば穏便に済ませていただきたいのですが…」
そう言って、顔を上げたわたしのことを庇うように一歩前に出た銃兎さんが相手に問いかけた瞬間だった。
「え、…」
「お前…!」
ついに逆上その男が取り出したのは、鋭利なナイフだった。なんの躊躇いもなく振り下ろされたそれは、銃兎さんの体スレスレを通り、その勢いのまま彼の後ろにいたわたしへも向けられた。
ただ恋人の愚痴を聞いてもらう為だけに訪れたバーで、まさかこんな事に巻き込まれるとは思ってもみなかったが、別段焦ることはない。以前から有事の時の為にと、護身術なら嫌というほど仕込まれているのだ。
来るなら来いと履いていたヒールの先にグッと力を込めれば、その瞬間グラリとグラリと傾いた視界が揺れ、銃兎さんが叫んだ。
「ッバカお前!ックソ…!」
「…っやば、」
「っ…」
よりによって、今このタイミングとは。
ぐらついた足元に視線を落とし、すぐに訪れるであろう痛みにグッと唇を噛み締め、目を閉じた。
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