喧嘩編3
ガタン、と音を立てて床に押し倒された体は銃兎さんの腕によって拘束され、訳も分からぬまま声を上げようとしたわたしは、目の前にいた彼の欲を孕んだ瞳にグッと息を呑んだ。
「じゅうと、さん……?」
「ッ、悪い……少し落ち着かせてくれ」
「あの、」
「事情は……話す、」
「はい…」
「何もしねぇから、」
そう言って、苦しそうに視線を逸らした銃兎さんが、代わりにわたしの腕を拘束していた手にグッと力を込めた。
おそらく本人も無意識なのだろう。何かを堪える様に、強く、強く掴まれた腕に痛みを感じないわけではないが、明らかに様子のおかしい銃兎さんがそれでなんとか落ち着こうとしているのだ。口を挟むことは出来ないと、ただ目の前で静かに目を閉じる彼の言うことにうなずいた。
やはり、何かあったのだろう。先ほどのバトルで、おそらくはあの男が使っていた違法の物だというマイクのせいか。普段ならばこんなにも切羽詰まった表情を見せることなどあり得ない銃兎さんが、苦しそうに顔を歪めている。それだけで明らかに只事ではない何かが起きているということは分かるのに、わたしには何も出来ないのだろうか。
少し落ち着かせてくれ。そう言って、ほんの一瞬だけわたしのことを見てすぐに目を逸らした銃兎さんが、現状どんな状況であるのかは、なんとなく察しが付いている。
これでもわたしは、あのヨコハマ代表チームでリーダーを務める男の恋人だ。違法マイクの危険性や、その効果が多岐に渡るということについては、嫌というほど知っている。
目の前の銃兎さんの様子を見て、おそらくではあるが一致する効果があったことを思い出し、先ほどの拒絶にも納得がいったからこそ、自分の能天気さが嫌になった。
「ごめんなさい」
「……何で謝る」
「わたし、余計なことしましたね」
「……」
「銃兎さんは触るなって言ったのに……ごめんなさい」
彼の様子がおかしいことを、勝手に別の要因だと思い込んで追い詰めた。
思えば、彼は最初からわたしに近付かないようにしていたのだ。
例え喧嘩中であろうと、左馬刻という恋人がいるわたしに、絶対に触れてはならないと、手を出してはいけないと、必死にその心を抑えようとしていたのに。
「……今さら気付いたか、」
「……」
「だがお前が謝る必要はねぇよ……俺が、何も言わなかった」
あの男が持っていたマイクの効果には、おそらく催淫が含まれるのだろう。恨みの対象として銃兎さんやわたしにその牙を向けてきた男が、どういう意図であのマイクを使ったのか。はたまた違法という攻撃性だけに流され、その効果についてはよく知らなかったのか。今となっては男の心中など定かではないが、どちらにせよいい迷惑である。
「辛いですか、」
「まあな…」
出来ることなら、自分を庇って怪我まで負い、こんな目に合ってしまった銃兎さんを、なんとかして楽にしてあげたい。
しかし、その効果が催淫であると分かった以上、わたしにはどうすることも出来ない。
例え彼への罪悪感でその腕に身を任せたとしても、絶対に最後までいくことは不可能だ。どうしたって、わたしはわたしの最愛の人を裏切ることなど出来ないのだから。
「銃兎さん、」
「……なんだ」
「わたし、左馬刻が好きです」
「……」
「左馬刻左馬刻左馬刻左馬刻」
「っせぇな、なんの話だ…」
「左馬刻って名前ずっと聞いてたら、少しは気持ちが萎えるかなって」
「……馬鹿かテメェは」
珍しく乱暴な口調でそう言った銃兎さんが、それまで掴んでいたわたしの腕にさらにグッと力を込めて吐き捨てた。
「………逆効果だっつの、」
「え、」
呟くように、何かを囁いた銃兎さんが、そのまま苦しそうに顔を歪めてこちらを見つめた。
普段の彼とは違う。どこか欲を含んだ瞳がジッとわたしのことを捉えているのを見て、なんですか、と口を挟む隙さえ無かった。
「じゅうとさ……」
「ッ、黙れ」
「………っ」
わたしの腕を押さえて付けていた彼の手が、片方外れてわたしの口元を覆った。
突然のことでハッと目を見開いて自由になった腕を伸ばすも、男と女の力の差は絶大だ。自分の腕を掴んだわたしの腕のことなど意にも介していない様子の銃兎さんは、そのままなんの躊躇いもなく床に倒されたわたしの首元に顔を近付けた。
「んっ、……っん!」
「……」
「っん、ぅ………ゃ」
抵抗虚しく、一度だけ、確かめるようにゆっくりとわたしの首元に触れた唇が、ちゅ、と可愛らしい音を立てた。
同時に、口元を押さえていた手の力が少しだけ緩み、安心したもつかの間。そのまま割って入るように押し込まれた彼の指が口内に侵入し、その息苦しさに涙が滲んだ。
銃兎さんは、普通ではない。
今の彼は、違法に改造された危険なマイクの影響で、正常な判断能力を失い欠けている。だからこそ、余計な刺激を与えてはいけない。彼がこれ以上理性を失ってしまわないように、気を払わなければならなかったのに。わたしは、いったいどこで何を間違えたのだろう。
「っ…、…ゃ…」
「、」
「……ッさま、とき……、っ」
「ッ…」
もう一度首元に触れた知らない匂いに、恋い焦がれる大好きな彼の名が口からこぼれた。自分でも意図しないまま口をついて出たその名前に何か思うところがあったのか。ほんの一瞬わたしに触れる手を止めた銃兎さんが、何かを堪えるようにチッと一つ舌打ちをした瞬間だった。
「…………よォ銃兎、テメェ、死ぬ覚悟は出来てんだろうな」
「ッ、」
力任せにわたしの上からどかされた銃兎さんを見下ろし、そう言って今にも彼を殺してしまいそうなほどの怒りを露わにしている左馬刻は、そのまま床に倒れ込んだ銃兎さんのことを放置し、すぐにこちらへ向き直った。
「…………さ、ま……」
「ワリィ、遅くなったな」
「え……」
いくら喧嘩をしていたとはいえ、自分以外の男の人とこんな夜に出歩いて、あんなことをされていたのを目の当たりにしたのだ。いったい何を言われるのかと思っていた。
最悪、銃兎さんと同じか、それ以上の嫌悪を向けられてもおかしくはないと、覚悟していたのに。
「怪我ねぇか」
「……ッ、さまとき…、」
「おう」
「……さまときっ、」
「おう」
「…っさま……ん、!」
怒るどころか、床に倒れ込んでいたわたしを優しく抱き起こした彼は、そのまま訳も分からず泣き崩れるわたしに、ゆっくりと唇を重ね、口を開いた。
「もうなんも怒ってねぇ」
「っ、」
「俺も悪かった。だから帰んぞ」
わたしも、と返事を返す前に抱き上げられた体が、そのまま横抱きにされ、彼の腕に収まった。
「コイツを守ってくれたことには礼を言う。だがそれ以上はいくらテメェでも許さねぇ。そこで少し反省してろ」
「……」
「#name1#は俺のもんだ」
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