ドラトラ1


定時で仕事が終わるというのは、社会人にとってこれ以上ないほどの喜びだ。
外の景色も、まだ微かに明るい夜6時。
珍しくなんの残業もなく職場である高層ビルの最上階を後にしたわたしは、ふう、と一つため息を吐いて鞄の中からビルの入退館に必要なICチップ入りの社員証を取り出した。


「こんばんは#name1#さん」
「あれ、うさちゃん?」


珍しく定時で上がれたこと。そして今日の晩御飯は何が良いかと同居人の彼にメッセージを打ちながら認証式のゲートをくぐったところで、ちょうど受付前のロビーに腕を組んで立っていたスーツの男に声をかけられた。
名前を呼ばれて一瞬誰かと思ったが、顔を上げればそこにいたのは良く知る恋人のチームメイトである彼だった。


「よくこんな公共の場で私をそんな風に呼べますね」
「ダメ?」
「愚問です」
「じゃあ銃兎さん、今日はどうしたんですか。こんなところまで」


表向きは大手上場企業のフロント。しかしその健全な表の顔に隠したいわゆる情報というものを生業にする我が社の社長に、おそらく何か用があるのだろう。
含みのある笑みを浮かべてわざとらしくそう言ったわたしに、嫌味なほど長い脚を進めた彼は人目をはばかるように一瞬だけ視線を余所に向けてから口を開いた。


「一つお伺いしたいことがあります」
「なんでしょう」
「グラスホッパー……という名をご存知でしょうか」
「……」


情報の守秘義務というものが著しく管理されている彼の職業上、それを知らない人間相手に聞くことはない。その証拠に、建前上ご存知かと丁寧に聞いてきた彼の顔からは、確かな怒りと焦燥が滲んでいた。


「はあ……来るならせめて明日にしてほしかったところですが、案内します」


残念ながら当初の予定通り定時では帰れそうにないことを悟り踵を返したわたしに、すみませんねと形だけの謝罪をする彼の顔は険しかった。

グラスホッパーーーー。一部の界隈では既に爆発的な勢いで広まっているというそれについて、警察官である彼が情報を求めに来るのは普通のことだろう。そのことに対して何か疑問があるというわけではないが、いつもなら電話一本で情報を寄越せと言ってくる彼にしては珍しいことだ。わざわざこうしてわたしの情報の源である人物に会いに来るとは。
それだけで今回のこの話がどれだけ大きな事案に関係しているのかを理解し、目を伏せたわたしに、彼は躊躇うことなく問いかけた。


「貴女、どこまで知ってるんです?」
「少なくとも今の銃兎さんよりは詳しいと思いますよ」
「そうですか。相変わらず有能ですね」
「銃兎さんがそんな風にわたしを褒めるなんて珍しいですね」
「別に。普段から思っていますよ。貴女の仕事は完璧です」
「……」
「照れました?」
「いや、銃兎んがあまりにも優しくて驚いてました」


普段そばにいる彼と同じく、この人は無闇矢鱈に他人を褒めるような人間ではない。 むしろ飴と鞭の加減で言えば、鞭が十割を占めているような人だ。そりゃあ驚くだろう。急に飴を与えられて狼狽えているわたしの姿を見るなり、ニヤリと口角を上げている姿は、まさに絵に描いたようなサディストだ。
すれ違う女性社員のほとんどが、そんな彼の外面に騙されて頬を染めながら会釈をしている事にとてつもない違和感を覚えた。


「一つ言っておきたいんですが、この件については、わたし達の方でもそこまで正確な情報を掴んでいる訳ではありません」
「構いませんよ。知っている限りの情報だけでもいただければ結構ですので」
「分かりました。では秘書室に案内します」
「秘書室…?」
「はい」


たくさんのエレベーターが並んだエレベーターホールの一番奥。会社の役員と一部の社員しか立ち入ることが許されていない最上階へと唯一繋がるそれは、カードキーによるロック解除の操作が必要だ。
帰り支度を終わらせたことで鞄の奥底にしまい込んでいたそれを操作パネルの一番下にかざしたところで、動き出したエレベーターは一直線に最上階の目的地へとわたし達を運び始めた。


「秘書室ということは、貴女の仕事場では?」
「はい。社長は近頃他のクライアントからの依頼で忙しいので、今回のことは主にわたしが調べているんです」
「そういう事でしたか」
「詳細については上に着いてから話しますけど、まだ不確定なことも多い状態なので、どこまで情報を提供できるか…」


そこまで言って、チラリと視線を移した先にある自分の鞄から、何やら明るい光りが漏れていることに気付いた。これは、おそらくスマホだろう。暗転していた画面が急に光り出したことを考えると、何かの通知かもしれないと、未だ明るく光ったままのそれを手に取れば、写し出された画面の文字に思わず眉をひそめてしまった。


「銃兎さん、今回のことって元々は乱用者の逮捕がキッカケで?」
「えぇ、その通りです」
「差し支えなければ、当該現場を伺っても?」


エレベーターが最上階に到着したことを知らせるのと同時に、構いませんよと呟いた銃兎さんが告げたその場所は、ヨコハマの外れにある住宅街の一角。言うなれば、わたしの恋人である左馬刻が治めるテリトリー内だった。

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