月下に光る
千景さんの性格からして、嫌がる女性が同意もしくは好意を見せた瞬間に、その罰は効果が無いと、やり方を変えるんじゃないかと思った。
そもそもいづみの話では、千景さんは大の女嫌いだと聞いている。ならば一か八か、そんな大嫌いな女が最も女らしさを露わにして自分を誘えばどう思うか。
答えは嫌悪だ。不確かな情報から導き出した、ほんの僅かな可能性に賭けて彼を誘導してから数分。やっと少し落ち着いた体を抱きしめ、ベッドの上で三角に折った足へ頭を埋めれば、そこで垂れ落ちてきた長い髪から香る知らない匂いに吐き気がした。
「……」
髪だけではない。今この体を包む毛布も、手触りの良いシーツも、自分を纏う全てのものから香るその知らない匂いに、ただでさえ疲れ切った体が嫌悪を表示さないはずがなかった。
時刻は既に夜10時。あの時中庭で密さんと話している千景さんを見つけてからは、まだ2時間ほどしか経っていなかったことに驚いた。
体感的には、もうずっと長い間ここに閉じ込められているような気がしていたのに。
「逃げようとは思わないのか」
「千景さん…」
聞こえた声に顔を上げれば、部屋の入口でジッとこちらを見据えたまま動かない彼と目が合う。
いつの間に戻って来たのかは知らないが、相変わらず人としての気配や雰囲気が微塵も感じられない人である。
「逃げたいって言ったら、逃してくれますか」
「さあ、どうだろうね」
「そう言うと思ったんで、これからどうするか考えてました」
「良い案は浮かんだ?」
「秘密です」
いくら答えを濁したって、目の前のこの人には意味がないことくらい知っている。
ただそれでも、素直に負けを認めて助けてくれと許しを乞うのだけは嫌だった。
「震えているな」
「……」
ゆっくりと近付いてきた彼から、そう言って未だ微かに揺れている手を取られた。
悔しいが、その言葉通り。あれからまだ数分しか経っていない体は、一度覚えた恐怖をそう簡単には忘れられなかったようだ。
「俺が怖い?」
「なんの話ですか」
「とぼけても無駄だ。大した演技力だな」
「演出家として、そう言ってもらえるのなら光栄です」
「気丈に振る舞うのは勝手だが、こういう時は少しでも怯えている方が女として可愛げがあるぞ」
掴んでいた手を逃がさないよう、グッと自分の方へ引き寄せた彼が、そのまま空いていた手でわたしの頬にゆっくりと触れながら言った。
やはり、もう全てはバレているのだろう。震えている手も、少し気を抜けば今にも逸らしてしまいそうな視線も。その全てを嘲笑うようにニヤリと口角を上げた彼には、きっともう抗う手立てなどないのかもしれない。
ただ、それでもここで大人しく泣いてあげるのが彼の言う可愛いということならば、そんなものはこちらから願い下げだ。
「千景さんに可愛いなんて思ってもらわなくても、わたしにはもう飽きるほどその言葉をくれる人がいますから…大丈夫です」
#name1#ちゃん#name1#ちゃん、と頼んでもないのにいつもそばにいて、気付けば自分に優しく笑いかけてくれる。
そんな彼から貰える一言があれば、例え他の人にどう思われようが別にどうでもいいとさえ思えるのだから。
「君も大概あいつのことが好きだな」
「少なくとも千景さんよりはずっと」
「これ以上ないほど腹の立つ話だ」
「そう思うならこれからは女の子にこんな酷いことしないでくれます?」
言葉と同時に、ふと思い出してしまった彼の顔をかき消すようにニコリと笑って目の前の彼へ呟く。
そういえば、夕飯を食べた後にはいつも決まってわたしが何処にいても#name1#ちゃん、と声をかけてくる彼のことだ。今日はそのわたしがいなくなっていったいどうしているんだろう。
至くんだけじゃない。あの時一緒にいた密さんも、いづみも。あの寮にいるみんなが、今こうしてわたしがこの人と一緒にいる間にも何か危険なことに巻き込まれてはいないか。ふと考え込んでしまった拍子に、もう一度グッと引き寄せられた体が目の前にいた彼の方へ傾く。
「悪いが、君をあいつらのもとに返す気はない」
「……」
「残念だけど、君が大好きな茅ヶ崎にも、もう前みたいには会えないだろうね」
「……」
「もともと君個人に恨みはなかったけど、あそこまで馬鹿にされちゃタダで許す気にはなれない」
「だから、わたしを壊すって?」
「あぁ。だが安心してくれ。一度賭けを受けたからには全ては俺が君に勝った後だ。あの劇団を滅茶苦茶にして、アイツの居場所を奪って……俺と同じ思いをさせた後、君のこともボロボロにする」
「……」
無理やり体を寄せられて、ちゅ、とわざとらしく音を立てた唇に首筋の皮膚を吸われて思わず体が強張った。
おそらく、もうその言葉通りこれ以上のことはされないだろう。
しかし一度体に染み付いてしまったこの人に対する恐怖がわたしをそうさせるのか。たった一つの行為でここまで自分は何も出来なくなるのかと硬直する体に、それでも鞭を打って「触るな」と口を開けば、その瞬間こちらに視線を寄越した彼は何を言うわけでもなく立ち上がった。
「はあ……興醒めだな」
「……」
「満月か…今日は」
唯一部屋に取り付けられている高い窓を見つめ、そう呟いた千景さんの表情は今まで見てきたどんな彼の表情とも違っていた。
ただ切なげに目を細めて、どこかすかがるような、とても苦しそうな目で煌々と光るその満月を見つめる姿に、それまで一切見出だせなかった彼の人間らしさのようなものを感じる。
「千景さん……」
「……」
「密さんとは、どういう関係なんですか」
「それを今俺が君に話すと思う?」
「愚問でしたか」
「分かっているなら聞かないでくれ」
おそらく、彼が密さんに対して何か良くない感情を持っているということは確かだろう。その何かが彼の中でどれだけ大きな比重を占めているのかはこれまでの彼の言動を見ていれば容易に想像がつくが、それでもここまでして果たさなければいけない復讐の理由になるほど、密さんは酷いことをしたのだろうか。
記憶を失っているとはいえ、彼が誰かの人生をここまで歪ませてしまうほど酷いことをするような人間だとはどうしても思えない。
それはここ一年近く彼と同じ時間を過ごしてきたわたしの主観ではあるが、そんな時間では計り知れないほど、彼がこれまで過ごしてきた時間の中にある罪は重いと言うのだろうか。
「密さんは、もともとこの寮のすぐ外で死んだように眠っていたんです」
「……」
「自分の名前以外は何も覚えていなくて…はたから見れば物凄い状況にも関わらず本人はずっとケロッとしてました」
「それ以上その話を続けるつもりなら今すぐ君の口を塞ぐぞ」
「密さん、以前謝っていたそうです」
「だからそれ以上何か言うなら…」
「オーガスト……ごめんなさいって」
「!」
「泣きながら、月に向かってそう言っていたそうです」
あれは、今から数ヶ月前。まだ新生冬組として集まったばかりの今のメンバーで最初の公演をなんとか成功させようと毎日もがいてる最中だった。
ちょうどその日の公演前、いつの間かすっかり姿が見えなくなってしまった密さんのことを探して、ある部屋に入ったいづみがやっと見つけたその姿を捉えた際に聞いた言葉だという。
薄暗い寮の倉庫で、全てを思い出したという密さんは、そのまま酷く辛そうな顔をして涙を流し、先の言葉を呟いた。
「オーガスト」「ごめんなさい」その話を初めて彼女から聞いた時には、それがいったいなんのことなのか検討もつかなかった。しかし状況や時間が変わった今となれば、その言葉の意味も少し考えれば明白である。
「エイプリル……」
「……」
「密さんが、貴方のことを一瞬そう呼んでいたことを思い出しました」
「だからなんだ」
「密さんと、千景さんと……あともう一人。オーガストというその人の為に、千景さんはこんな事をしているんですか?」
「……」
「兄弟…三人だって言ってましたよね」
まるでパズルのピースをはめるように、ピタリと当てはまるその事実に何を思うのか。ただジッと黙って満月を見つめていた彼の視線がゆっくりとこちらを射抜くように細められた瞬間。ふわりと鼻腔をくすぐる良い匂いがしたかと思えば、訳も分からないままドサッと倒された体がベッドに沈んでいくのを感じた。
「君は本当に聞き分けが悪いな」
「……」
「それ以上何か言えば口を塞ぐと言ったはずだが」
寸でのところで触れるのを避けた手がわたしの唇のすぐ上で停止していた。
おそらく、これは警告だろう。もし次に何か一言でも彼の意にそぐわないことを言えば、今度こそこの口を塞いで何も言えなくしてやると、暗にそう言われて仕方なく口を噤んだ。
しかしながら、求めていた答えはもう聞かずとも明らかだ。
千景さん自身はわたしの問いに否定も肯定の意も示さなかったが、その鋭い視線がいつになく切なげに揺らいでいたことがもはや言葉以上の証拠だろう。
わたしが口を閉ざしたことでシン、と静まり返る室内に、やがて彼の吐いた溜め息の音だけがひっそりと響いた。
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