長い闇の終わり
* * *
その日の眠りは深くて、心地よいまどろみの中、ずっとそばにある温かいぬくもりに頬を寄せていると、途端にそのぬくもりが自分のそばから消えていく事に気付いた。
音は、何も聞こえない。
ただ、そのぬくもりが消えていくのと同時に、今度は体全体を包み込むように温かな何かが自分に触れていることに気付いた。
「#name1#ちゃん」
この声は、誰の声だろう。
シン、と静まり返る静寂の中で明かりを灯すように聞こえてきたその音は、とても優しかった。
「#name1#ちゃん、」
もう一度、今度は先ほどよりもしっかりと声が聞こえる。
耳を澄ませば、#name1#ちゃん、#name1#ちゃん、と何度も小さくわたしの名前を呼んでいるその声は、かすかに震えているような気がしてーー泣いているの?口を開いた瞬間、出なかった声の代わりに、うっすらと写り込む現実の景色が、わたしに全てを教えてくれた。
「……いたる、くん、」
「!#name1#ちゃんっ…」
「………ふふ、いたるくんだ、」
瞼を開ければ、自分を包み込むその腕の正体が彼であることに気付いた。
名前を呼べば、グッとさらに強く彼の肩口へ押し付けられた頭が、その華奢な体に埋まっていくのを感じる。
なんだか、とても久しぶりの感覚だ。
「もう会えないかと思った、」
「なんで、」
「急にいなくなっちゃうから……ほんと、もうずっと、会いたくて、」
「うん、」
「#name1#ちゃん…」
「ん」
「もう絶対どこにも行かないで」
至くんが、そう言ってわたしを抱きしめる腕にグッと力を入れた瞬間。
カタン、と後ろから誰かが近付いてくるような足音が聞こえた。
そういえば、千景さんがいない。
あれだけずっとわたしのことを監視していたはずのあの人が、他の誰かをここに入れることを許し、いったいどこに行ってしまったのだろう。
こんなにも近くで、こんなにも自分を思ってくれている至くんの腕の中で、さすがに別の誰かの名前を口にする事は出来なかった。しかし、たった二人だけしかいないと思っていたこの空間で、不意に呼ばれた「#name1#」という名に首をかしげる。
違う。これは、至くんではない。
彼は、わたしを#name1#とは呼ばないから。
「…千景、さん……?」
「違う」
もしかして、と半信半疑のまま呼びかけた名前は間違っていたらしい。ならば誰だろう、とそこにいる誰かへ意識を向けたところで、わたしのことを抱きしめていた至くんが、その誰かへ「話は終わった?」とよく分からない質問を投げかけていた。
「うん、もう大丈夫」
「そ、」
「#name1#は平気?」
「今目覚ましたばっかり。多分あんま状況は分かってない」
「そっか」
「……?」
「巻き込んでごめんね、#name1#」
顔は見えない。何に、という主語もない。しかし、その言葉だけでなんとなく今の状況や、そこにいるのが誰なのかは検討がついた。
良かった。わたしが呑気に寝ている間に、きちんと二人で話が出来たようだ。
「千景さんは、?」
「もう大丈夫。少し、混乱はしてるみたいだけど」
「そう、」
「今は監督と話してる。会う?」
「えっと……」
「それは俺が許さない。無理」
「だよね」
最後に会ったのが、あの緊迫した状況下だったからだろうか。顔は見えないが、わたしの後ろで即答した至くんの言葉に軽く笑っている様子の密さんにホッとした。
ならばもう詳しく話を聞く必要はないだろう。いづみがいるなら、後のフォローはきっと彼女が誰よりも上手くやってくれるはずだ。
例えどんなに千景さんの闇が深かったとしても、暗かったとしてもーーー大丈夫。
これで全ては、上手くいくだろう。
「監督と千景はまだ話してるけど、多分寮に戻ることになると思う」
「……」
「#name1#は至と後からおいで」
「え、」
「今は無理に顔合わさなくても良い」
言われて、その言葉に感じた違和感をすぐに理解することが出来なかった。
考えてみれば、当たり前だろう。千景さんは誘拐犯。わたしはその犯人に拉致された被害者。はたから見れば、その犯人に対して被害者であるわたしが恐怖を抱くのは当然のことであって、誰もそれを疑うことはない。
投げかけられた当たり前の優しさに違和感を感じて戸惑うわたしに気が付いたのか。ようやく少し腕の力を抜いてくれた至くんが、こちらをのぞき込むようにして首をかしげた。
「どしたの、#name1#ちゃん」
「ううん、なんでもない」
おかしな話だ。
最初は、わたしだって怖かった。
触れられて、震えるほどの恐怖を覚えた。それは紛れも無い事実で、その時のことをこの体はしっかりと覚えている。掴まれた腕の感触も、触れられた唇も。一生消えないであろうその感触を抱えたまま、それでもいつの間にか消えている恐怖に、自分でも驚いた。
至くんにも、密さんにも、全てが片付いた後できちんと話そう。
少しの間余計な心配をかけてしまうということは申し訳ないが、今はそれ以上にしっかりと休みたい。
やっと、解放されたのだ。
じゃあ後はよろしく、と密さんに声をかける至くんの腕の中で、もう一度だけ……と目を閉じるわたしに、彼は何も言わず、そっと上着をかけてくれた。
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