触れる温度


…っごめんなさい、違うの…」


何か、悲しいことがあったわけではない。辛いことや、苦しいことがあって、泣いているわけでもない。
自分でも、何がどうしてこんなに涙があふれるのか、よく分からなかった。


「#name1#ちゃん」
「っ、」
「………無理にいつも通りでいようとしなくていいよ。大丈夫だから」


そう言って、突然泣き出したわたしをいつもの様に慰めてくれようとしたのだろう。隣にいた至くんが、不意にこちらへ腕を伸ばそうとした瞬間、反射的にビクリと揺れてしまった体が、わたしに全てを教えてくれた。

あぁ、そうだ。例えどんなに彼のことを理解し、許そうとしても、頭では理解できている事が、体では理解出来ていないのだ。
一度覚えた恐怖は、確かに未だこの体を蝕んでおり、消えることはない。例えどんなに慣れ親しんだ彼が相手だとしても、一度「怖い」と思ってしまったその行為に、体が拒否反応を示しているのだろう。


「……ごめんさない、っ」


向けられた優しさに、甘えることも出来ないどころか、そんな優しさを自分から否定し、拒んでしまった。

大好きなずなのに。
欲しかったはずなのに。
ずっと、ずっと、優しく笑って、大丈夫だよと、言ってほしかったはずなのに。


「ねぇ#name1#ちゃん」
「、」
「抱きしめてもいい?」
「え……」


自覚した自らの変化に、戸惑いながらただ泣くことしか出来ないわたしに、そう言ってゆっくりと手を差し伸べた至くんは、笑っていた。


「いきなり触れようとしてごめん」
「そ、んな…」
「もう勝手にあんなことしない。怖がらせたりしないから」
「っ至くん……」
「そう。今#name1#ちゃんの前にいるのは、#name1#ちゃんを怖がらせた相手じゃない。俺だけだよ」
「……っ」
「大丈夫だから」


震える体を、優しく包み込むように抱きしめてくれた至くんの腕が、わたしの背中へと回った。
労わるように、ゆっくりと。けれど離さないようにしっかりと力を込めて回されたその腕は、やはり男の人にしては少し物足りないくらいの細さだったが、そんな彼の腕の中が今やわたしにとって何よりも安心できる場所となっているのだから不思議だ。


「いたるくん、っ…」
「ん」
「至くん、っ……いたるくん、」
「うん、」
「…っいたる、く…」


こうしてわたしは、今まで何度彼に救われてきただろう。
名前を呼ぶたび、うんうんと確かめるように、わたしの言葉一つ一つを拾ってくれる彼の胸に、しがみつくようにしてグッと頭を押し付けた。


「……こわか、った、」
「うん」
「からだ、うごかなくて、っ」
「うん」
「だれも、いなくて、……」
「うん」
「……っ、いたるくん、いなくて、」
「うん、」
「っ、会いたくて……」


本当は、こんなこと誰にも言うつもりはなかった。わたし自身、今回のことについてはきちんと自分の中で決着をつけたつもりだったからだ。
もちろん、怖かったことは事実。不安で、心細くて、泣きなくなることもあったが、それも結局は過去の話だ。全てが片付いた今、わたしが一人話を蒸し返してみんなに迷惑をかけるわけにはいかないと、口にすることは避けようと思っていたのに。それでも、一度口にしてしまえば、そんな決断など脆いものだった。


「大丈夫だよ」
「……っ」
「もう、大丈夫だから」


同じ男の人の腕なのに、それが慣れ親しんだ彼のものであるだけで感じられる安心感は、他の何物にも変えがたかった。
大丈夫、大丈夫、とわたしが落ち着くまでひたすらにその言葉を紡いで胸を貸してくれる至くんと、何分そうしていただろう。やがて徐々に落ち着きを取り戻したわたしが泣き止むのと同時に、スルリと優しく頬に添えられた手に首をかしげた。


「#name1#ちゃん」


涙は、もう止まっている。
しかし、今の今まで泣いていたわたしの目に、まだ浮かぶ何かがあったのだろうか。ジッとこちらを見つめて、わたしから少し距離をとった至くんが、もう一度その距離を縮めるようにして身をかがめた。

そういえば、前にも一度こんなことがあったような気がする。至くんと二人、向かい合ったままジッと見つめ合って、やがて近付いてきたその顔に明確な意図を感じて、わたしは顔を背けた。
だって、あの時はそれが正解だと思っていたから。
劇団員と、演出家。それ以上の特別な関係を持たないわたし達二人が、超えてはいけない一線を、それで超えてしまうと思っていたから。
しかし、今はもう甘えても良いだろうか。


「いたるく……」


頬に添えられた手が、確かめるようにゆっくりとわたしの肌をなぞった。そのまま、少し上を向かされる形で力を込められた手に抵抗することもなく目を閉じれば、もう一度わたしの名を呼ぶ彼の小さな声が聞こえた。


「#name1#ちゃん、」
「……ん、」


重ねられたそれは、ほんの一瞬で離れた。
しかし、その一瞬で全てを洗い流してくれるように優しく口付けられた唇は、すぐに角度を変えてまた同じように重ねられた。
一度、二度、と回を重ねていくうちに段々と長くなるその口付けは、まさに恋人同士がお互いの熱を感じる為に行う行為そのものだ。
至くんとわたしは、恋人ではない。
しかし、その温度や存在を感じる為に、必死になってその口付けを受け入れるわたしは、どこかで彼に依存しているのだろう。

お互い何も発することなく、ただひたすらに唇を重ねて、何分経っただろう。
もう何度目か分からない口付けの後、離した唇をゆっくりとわたしの首元へ向けた至くんに、それまでとろりと溶けてきっていた思考が蘇った。


「……ま、て、」
「何で?」
「そこ、ダメ……」
「……」
「おねが、っ……」


嫌だった。ただ単純に。
今目の前にいるこの人以外に残されたその跡は、今もなおわたしのそこにくっきりと残っているだろう。
事が全て解決したとは言え、未だ消えないその跡を見て、彼はどう思うだろう。
考えるだけで胸が締め付けるような、忘れたくても忘れられない事実に、なけなしの力を振り絞って嫌々と首を振るわたしに、彼はもう一度唇を重ねて微笑んだ。


「大丈夫」
「っ、」
「俺が消してあげる」


言われて、逃げる間も無く首元に触れた柔らかい唇がわたしのそこに跡を残した。

記憶は、消えない。嫌だという思いも、怖かったという感情も、全てはわたしの中にしっかりと残ってしまった経験だ。
しかし、その嫌な記憶さえ包み込んで、本当に全てを消し去ってくれたのではないかと錯覚してしまうほど、彼から送られる口付けは優しかった。

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