「…それで、どうして僕が先輩の状況を教えなきゃいけないんですか」
ここは、はばたき市のとある喫茶店。昔ながらの雰囲気の良い店で、休日ともあり店内は非常に賑わっている。その一角で、小次郎は目の前に座っている氷室一紀から受ける鋭い視線に目を逸らしながら、アイス珈琲に入れたミルクを緩くかき混ぜて言った。
「そりゃあ…みんなどうしてるかなーって気になってだな」
「だったら先生が直接連絡したらいいじゃないですか」
「いやそりゃそうなんだけどよ、ほら、あいつら大学生活も忙しいかもしれないって思うと、な?」
「僕だって、一応受験生なんですけど」
「悪いとは思ってるよ。でもこう言う事を聞けるのはお前しかいないんだ」
「…はぁ」
見て分かるような大きなため息をつく一紀に、小次郎はまぁまぁと宥めながら紙袋を差し出す。
「…何」
「お前の好きなもの」
中を覗くと、好物であるサーターアンダギーが入っていた。しかも、包装紙には一紀のお気に入りの店のロゴが描かれている。中から漂う仄かな甘い香りに、一紀の喉仏が上下に動いた。
「これって買収?」
「人聞きが悪いな。あれだよ、ただの土産」
「…ふーん…まぁ、もらっておく。ありがとう」
一紀は紙袋を自分の座る座席の横にそっと置くと、湯気の立つ珈琲に口を付けた。その間の沈黙が、小次郎に緊張感を齎す。いよいよ、この後、『彼女』の現状が聞けるのだ。人当たりが良い『彼女』の事だから、大学生活は問題なくやっているだろう。けれども、もし『彼女』が寂しそうにしていたら?様々な考えが、頭の中を駆け巡る。小次郎は首を振ると、それ以上の事を考えるのをやめた。
(もう忘れるって決めたんだ。『真面目ちゃん』の傍に居るのは、俺じゃない)
「…先輩は、一流大学で楽しく過ごしてるみたい」
カップを置いた一紀が口を開いた。
「うん」
「僕も最近連絡は取ってないけど、柊先輩によると、先輩は風真先輩と付き合い始めたらしいよ。今年の夏、風真先輩の両親が居るイギリスに遊びに行くっていう話をしてるって言ってた。…これが、僕の知っている先輩の近況」
「……そう、か、風真と…そうか……はぁーーーーー…良かった…」
小次郎の胸の奥底に鎮座していた小さなしこりが、一紀の言葉を聞くと同時にふわりと消えた。それまでの緊張感から解放された小次郎は、机に突っ伏すように頭を落とした。額に感じる机のひやりとした感触が気持ちいい。鬱屈としていた気分が一気に晴れ渡り、同時に自然と笑みが零れる。
「…どうしたの?」
「あー…いや、安心したら気が抜けた…」
「そんなに心配してたなら、やっぱり先生が直接聞けば良かったのに…」
「ありがとな、イノリ…」
「…うん。ところでもう用は終わった?僕、そろそろ塾に行かなきゃならないんだ」
腕時計を見た一紀はカップに残っていた珈琲を飲み干すと、喫茶店を出る準備を始めた。小次郎は顔を上げ手を伸ばすと、一紀の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でる。
「うわっ!な、何っ?!」
「頑張れよ、イノリ。努力家のお前なら夢を掴みとれる!」
「…言われなくても頑張るし、当然だよ。先生も、家業…継ぐのって大変だろうけど、頑張って」
「…おう。落ち着いたら遊びに来いよ」
「うん、その時はよろしく。それじゃあ、また。珈琲とこれ、ご馳走様」
小さく頭を下げて喫茶店を出た一紀を見送った後も、小次郎はその場に留まった。肘をついた手に顎を乗せ、外に目を向ける。来た時よりも空が明るく見えるのは、気のせいではない。暫くの間、外の景色を眺め続けた小次郎は、「よし、行くか」と自分に言い聞かせるように小さく呟くと席を立ち、明るい日差しが降り注ぐ外への扉を大きく開けた。
・
牧場の中を歩いていると、目先の丘の上で作業をするシゲと○○の姿を見つけた。二人は大きなパイプフォークを持って、刈られた草を集めている。小次郎は踏み均された道から外れ、丘の上に向かった。
「おーい、シゲさん、○○さん!」
小次郎の声に反応した二人は足を止め、振り返る。
「あ、小次郎さん。お帰りなさい」
"お帰りなさい"ここに帰って来てから毎日のように聞く言葉が、○○に言われると妙に照れ臭く感じた。小次郎は、はにかみながら返事を返す。
「…ただいま」
「小次郎、お前どこをほっつき歩いとったんじゃ、この忙しいときに」
「すまん、ちょっと野暮用があったんだよ」
「…なんじゃ、女か」
シゲの言葉に、小次郎は即座に否定する。
「ちっ、違う、男だよ!」
「本当かぁ〜?何だか怪しいのぉ…」
意地の悪い顔を浮かべているシゲの横では、○○がにこにこと笑っている。疚しいことをしてきた訳ではないのに、何故か居たたまれたない。小次郎は、○○の目を見て言った。
「…違うんだ、本当に男なんだ…」
「…私、疑ってませんよ?」
何故か弁解口調の小次郎に、○○は首を傾げながら笑う。小さく揺れる体から、干し草がはらりと落ちた。よく見ると、干し草は○○の全身に付いている。同じように、シゲにの体にも干し草が付いていた。真面目な二人の事だから、一生懸命に干し草を集めていたのだろう。その姿を想像した小次郎の頬が緩む。
「二人とも、全身干し草だらけだなぁ」
シゲと○○は互いに目を合わせ、自分の体に付いた草を払う。
「今日は風が強かったからな。どうしてもこうなってしまうわい。…まぁ、○○ちゃんは自ら干し草の山に突っ込んで行ってたがの」
「へぇ?そりゃまた思い切ったことを…」
「っ!?シ、シゲさん?!それ言わないって約束…!!ち、違うんです小次郎さん!干し草を持ち上げすぎて、ちょっとよろけちゃっただけなんです!」
「ははっ、それで髪の毛にも干し草を付けているのか」
「まだ付いてますか?さっき払ったと思ったのに…」
髪に手を当てる○○に小次郎は近づく。
「…ちょっと、いいか」
そう言って、○○の柔らかな髪の毛に手を伸ばし、髪に絡まっている干し草を一つ一つ丁寧に取り除いていく。後頭部に手を回すのに少し前のめりになった時、干し草の香りの中に花の香りが混じっている事に気が付いた。どこかでかいだことのあるような優しい香りが小次郎の記憶を擽る。けれどもそれは一瞬の事で、香りが消えたと同時に小次郎は我に返った。どこから漂ってきたのだろう。残り香を頼りにふと視線を落とした小次郎は、真下に居る○○を見て目を見開いた。
「!?」
二人の距離は驚くほど近く、傍から見れば、小次郎が○○を抱き締めようとしているように見える。慌てて後ろに下がるも、目に飛び込んできた○○の真っ赤な顔を見て、小次郎も同じように頬を赤く染めた。
「す、すまんっ!そんなつもりは…っ!」
「……い、いえ、あの…っ、だ、だいじょうぶ、です…。あり、ありがとうございます……っ」
恥ずかしさのあまり互いに視線を泳がせ続けていると、その様子を見ていたシゲが、ふぅ、と息を吐いた。
「…小次郎、お前いつの間にそんな大胆な事をするようになったんじゃ…」
「っ、だ、だから違うっ!」
「いいか、そういう事は誰もいないとこでだな…」
「シゲさん…っ!」
「はっはっは、若いっていいのぅ!青春を思い出すわい!…おや、○○ちゃんがまだ固まっておるな。おーい○○ちゃん、帰るぞぉ。おい小次郎、今日の事は黙っててやるから、その代わりワシと○○ちゃんのフォーク運んどいてくれ」
シゲは、未だ固まったままの○○の手を引いて事務所の方へと歩いて行った。一人残された小次郎は、その場にしゃがみ込む。静かな風に揺れる草を見つめながら、先程の香りを思い出していた。
「
囁くように言った言葉は、風に乗って消えて行く。小次郎は、未だ火照ったままの顔を冷まそうと空を見上げた。雲一つない空に浮かぶ太陽が、微笑んでいるように見える。小次郎は小さな笑みを一つ零すと、その眩しさに目を細めた。