12


嵐の前の静けさというものがあるのかナマエは知らないが、少なくともこの日は気づけば来ていた、というのが感覚としては正しい。


「失礼します」

部屋に入り、敬礼する。
正面にはピクシス司令官。横には、一緒にリヴァイ班に向けた補給をしていたハンジ班の2人が座っていた。

「なるほど、あと1人はナマエ所長じゃったか。適任と言えば適任だな」
「ピクシス司令、お久しぶりです。あの、これは?」

ピクシス司令は柔和でありながら厳しい声で言った。

「君たちの直近の行動を洗わせてもらう」

最近噂の過激派――イェーガー派かどうか調査されるということだと、すぐに察した。


ナマエとハンジ班の2人は、それぞれ別の部屋に連れていかれた。ナマエにはソファのある小さな会議室があてがわれた。部屋に入った時点で、ナマエは大事な仕事の引継ぎをしてこなかったことをものすごく後悔した。長くなりそうだった。
しばらく待っていると、ひとりの男性駐屯兵が来た。ピクシス司令の配下のものだろう。顔は知っている。

最近の行動に関する質問に、ナマエは直近の自分の生活を思い出しながら報告していく。何時にどこにいたのか、その時に一緒にいたのは誰か。
ここ最近、ヒィズルの技術者が持ってきた氷瀑石の飛空艇の対応のために、ナマエはずっと港町とシガンシナ区を行ったり来たりしていて大抵誰かと一緒に行動していたので、アリバイは取れるはずだ。



全ての報告を終える。駐屯兵が立ち上がる。

「報告、ありがとうございました。ピクシス司令にお伝えします。すみませんが、しばらくここに滞在してもらうことになります」
「ですよね……」

つまり、ここシガンシナ区に軟禁だ。ジークの居場所を知っているのは、限られたものだけ。もし仮にナマエや他の2人がイェーガー派でなかったとしても、外部の人間と接触させないほうがよい。ここまでするということは、きっとイェーガー派のほうでなんらかの動きがあったと考えるのが妥当だ。
ハンジは、リヴァイは、大丈夫だろうか。ナマエがここで焦っても仕方がないが、できる手だけは打っておくべきだ。

「……あの、仕事の引継ぎだけはしたいんですけど」

そう言えば、駐屯兵が目をパチクリさせる。

「わかりました、ピクシス司令に相談します」
「あと、暇なのでなにか適当な本を見繕ってくれるととても嬉しいです」
「承知しました。休暇を満喫できるようなものを用意します」
「助かります」

物わかりの良い駐屯兵で、助かった。



「所長、起きてください」
「ん……」

目を開けば、相変わらずちゃらちゃらしているイディが、ナマエの身体を揺らしていた。
会議室のソファで少し仮眠を取っている間に、入ってきていたらしい。

「……イディ」
「はいはい、イディさんが仕事の引継ぎに来ましたよ。まあ、いまシガンシナ区の研究所じゃやることもないんでね。所長、なにか悪いことでもしたんですか?」
「何もしてないからここにいるの。何かしてたら地下牢行きでしょ」

ナマエは身体を起こして、椅子に座る。イディは机を挟んで向こう側に座った。
横に立つ駐屯兵を見る。

「すみませんが、仕事のことなので会議室のドアは閉めてもいいですか。信頼できる駐屯兵であれば、念のため中で聞いていてもらってもいいのですが」
「……少々お待ちください」

駐屯兵はもうひとりを呼んで、会議室のドアを閉める。

「イディ、3つ、仕事の引継ぎを」
「はいはい」

まず、1つ目は氷瀑石の手配のことだ。飛空艇にいつでも載せられる状態にしておくため、必要量を飛空艇近くの積込倉庫に運ぶこと。

「飛行場の統括倉庫ではなく、ということですよね」

イディの確認に、ナマエは頷く。

「了解です。すぐにタノに連絡します。あー、久々にタノと一緒に飲みに行きたいなー」
「相変わらず仲いいねえ。あれ、でもこの間行ったんじゃないの?」
「何言ってるんですか。ナマエ所長がタノのことすぐ港町に連れてっちゃうから飲めてないんです」
「そうだっけ、ごめんごめん。今度は連れていかないから、タイミング見て自由に行ってね」
「はーい」

そして2つ目は、雷槍をシガンシナ区にできる限り集めること。
最後、3つ目は、ハンジ、リヴァイ、104期以外による全ての武器の出庫を禁じてほしいという依頼を、シガンシナ区補給班責任者のコールに伝えること。

「なるほど。最初のふたつはまだしも、最後のは理由が気になりますけど。言えないんですね?」
「うん、それは教えられない」

ちら、と駐屯兵を見れば、2人が少し目線を交わしていた。

――当たりかな。

やはりイェーガー派に動きがあったらしい。
最悪を想定した場合、これから過激派と穏健派がどんぱち争うことになる。場所はここ、主要人物が集まっているシガンシナ区の可能性が高い。地ならしの実験をするために一般市民にはシガンシナ区からの退去命令が出ており、不幸なことにばちばちにやりあう環境が整ってしまっている。
過激派に武器が渡ってしまった場合、きっとマーレとの対話の土壌が失われる。であれば、エレンとジークを抑え込むために雷槍を集めることも、イェーガー派の武器の持ち出しを制限することも、判断としては間違っていない、と、そう信じたい。気休めかもしれないが。

「文書による伝達は、してもよいですか」

駐屯兵に尋ねるが、彼は首を横に振る。

「申し訳ありませんが、それは禁じられています」
「あとでピクシス司令に掛け合ってもらえます?」
「……はい、わかりました」
「イディ」

イディに向き直る。

「イディから、コールにはちゃんと会って伝えてもらってもいい?こちらから彼に命令する権限はないから、お願いということで」

彼は頷く。

「承知しました。3つ、確実に引き継ぎます」
「頼りにしてる」
「はいはい、任せてください。これでもナマエさんの左腕を自称してます。まあ自称している人はたくさんいますが」
「右腕は?」
「満場一致でタノです。彼ほど効率的に、ナマエさんの溜めた事務手続きを処理できる人はいませんから」
「……もしかして、すごく怒られている?」
「タノに感謝してくださいよ。ついでに僕にも」
「ありがとう。若手二人組のタノとイディには、本当に助かってる」

そう素直に伝えればイディは満足そうに笑い、立ち上がる。

「では、所長、少しの休暇をお楽しみください。こっちは任せてくださいね」
「うん、よろしくね」
「はいはい」

駐屯兵2人とともに、イディが出ていき、会議室には再びの静寂が訪れる。
ナマエは小さくため息をついて、会議室のソファに座った。





それは、いわゆる噂話、だった。エレンは地下牢に閉じ込められており、義勇兵も軟禁されている、マーレ工兵は収容所から出てこられない、という話だ。

「それ、本当?なんで?」

シガンシナ区に来ている間に、一体港町で何が起きているのか。
尋ねれば、部下は頷く。

「調査兵団の意図はわかりませんが、英雄を閉じ込めて自分たちの手柄にしようとしているのだとか」
「それは無理があるでしょ。義勇兵たちは?マーレの皆は?」
「裏切りの可能性があるとかで、一斉に捕らえられたらしいとか聞きましたよ。港町も、いまごろ空っぽなんじゃないですか?やっぱりレベリオを襲撃したから――」

部下の言葉を待たずに、ナマエは立ち上がる。

「ごめん、この書類の分類、お願いしていい?対応すべき期日ごとに並べておいてもらえると助かる」
「あ、承知しました。どちらへ?」
「ハンジに会ってくる」



ハンジは、すぐに見つかった。
彼女は椅子に座っていて、そして。

「ハンジ?」

その様子を見たら、さっきまで抱えていたもやもやなんてすっかり飛んでしまった。
ハンジの背中に手を当てる。ハンジはゆっくりと顔を上げた。

「あ、ナマエ……」

それは、死にそうなほど疲れ切った顔。

「ハンジ、大丈夫?体調は?部屋に行こうか?それとも、何かおいしいものでも食べる?」
「……」

ふ、とハンジは笑う。

「お母さんを思い出すねえ」

ナマエは、隣の椅子に座って、ハンジの背中を撫でる。ハンジは、椅子の背もたれに額を預けると盛大に息を吐き出した。

「ナマエ。どうせ、義勇兵のこと、聞いてきたんだろ?」
「……うん」
「私には、もうどうしたら良いのかわからないよ」

ハンジと訓練兵時代に初めて出会って、もう20年近くの付き合いになる。ハンジがこんな弱音を吐くのを見たのなんて片手で数えられる程しかないが、今回は今までのどれに比べてもしんどそうだった。

「緘口令を敷いていたのに、フロックたちが破った。ナマエには伝えなきゃと思っていたんだけど」
「それは、いいけど」

フロックの顔を思い出す。104期の彼だ、知ってはいるが、会話したことはほとんどない。

「フロックたちは、何でそんなことを」
「エレンは、きっと地鳴らしをする。フロックたちは、エレンの地鳴らしに賛同しているんだ。だから、イェーガー派って呼んでいるけどね」
「……」
「彼らは、地鳴らしが必要だって言っている。巨人の威力を見せつけただけじゃ、巨人に対する恐怖に支配されて人間はこの島に攻めてくる。対話にならない、ってことだ。でも、地鳴らしは駄目だ。人が大勢死ぬ。ならどうしたらいいのか……ナマエ、私には答えが見つからない」

イェーガー派。リヴァイの言っていた過激派か、とナマエは理解する。
結局、エレンとの話は上手く終着しなかったらしい。ナマエは黙る。どうしたらいいのか、答えはナマエにもわからなかった。

「義勇兵とマーレ工兵のことも、ピクシス司令の言う通り、論理的に考えればああいう判断になるのは理解できる。でも、私はオニャンコポンも義勇兵もマーレ工兵たちも、疑いたくない。イェレナはわからないけれど」
「……うん」
「ナマエ、私は、疲れたよ……」

俯いたままのハンジを、そっと抱きしめる。

エルヴィンが死んでから4年間、団長としてずっと先頭に立ってパラディ島を引っ張ってきた彼女。存在感の大きすぎたエルヴィンの後というだけでも大変なのに、自分たちが生きるか死ぬかを定める状況を前に対応し続けなくてはならないその重圧を抱えて、それでもいつも前向きで。


『ねえ、立体機動装置、見せてよ!改造したって、すごく噂になってる』

初めて、ハンジと話したときのこと。ナマエは、いまでも覚えていた。
いいよと自分の立体機動装置を見せれば、彼女はそれを持ち上げてじっと観察して、そしてへえ!と目を輝かせた。

『ここのワイヤーの可動域を変えたの?すごいね!なんで?』
『そっちのほうが空中での方向転換がしやすいから』
『なるほど〜、確かに身体はここの支点で支えているからか。なんか、レバーもちょっと変えてる?触ってもいい?』
『うん、いいよ』
『え、軽い!もしかして、ここの操作装置も分解した?ブラックボックスって言われてるけど』
『開ければブラックボックスじゃなくなるから』

はっとハンジは顔を輝かせる。

『いいねえ!そういうの、好きだよ!ねえ、名前、なんていうの?』
『ナマエ。ナマエ・ヤーシュラット』
『よろしく!私はハンジ・ゾエ』


あのころの、きらきらした笑顔を無邪気に見せていたハンジが、懐かしい。
何のしがらみも、負うべきものもなく、ただ純粋に未知のものへの興味を原動力に動いていたような、彼女。

「ねえ、ハンジ」

ハンジの丸まった背中に頬をくっつける。

「……」
「私は、壁の外にでて義勇兵やマーレ工兵の皆と会ってから3年、港町でほとんど生活してきたけど。やっぱり、対話をして同じ目標に向かって進むことで、仲間になれるんじゃないかなって、そう信じてるよ」

ハンジは頷く。

「……ナマエを見て、私も同じことを思った。初めはこちらを憎むような目をしていた工兵が多かったのにそれが少しずつ減っていって、ナマエと楽しそうに話しているのを見たときは本当に感動したし、本当にナマエはすごいんだって思ったよ」

その言葉に、ナマエはほっこりとなんだか暖かい気分になる。

「ハンジのお願いは、全部叶えるって決めてるから」
「うん」
「それに、私はハンジと同じことをしているだけ」
「同じこと?」
「そうだよ。ハンジは、知らないことは命をかけてでも理解しようとする。話が通じるのかわからない巨人とすら、会話をしようとしていたんだもん。私も、そうしようと思って」

ナマエはいつだって、彼女の背中を追っている。

「オニャンコポンも義勇兵も、ハンジがそういう人だってわかってるから、ハンジのことを信頼してる。マーレの工兵も」
「……」
「ハンジ、皆を信じたいなら信じてあげてほしい。もし信じられないなら、聞いたらいい。きっと、オニャンコポンたちなら答えてくれる」

ハンジが起き上がる気配がして、ナマエも身体を起こす。ハンジは俯いたまま、眼鏡を外してそれを服の裾で拭く。

――泣いていたのかな。

眼鏡をつけると、ハンジは、こちらを向いた。先程よりは、幾分顔色もましか。

「ナマエ、ありがとう。やっぱり、オニャンコポンと、話してくるよ」
「うん。イェーガー派とかは、私はよくわからないけど……」
「彼らとも、できる限り話をしてみる」
「うん」

ハンジはぱんっ、と自分の手で頬を叩く。ほんの少しだけ、目に光が戻っていた。

――ハンジ……。

ハンジは立ち上がって、ナマエに手を差し出す。珍しく気が利く。ナマエもそれを握って立ち上がり、松葉杖をついた。





ハンジとそんな話をしたのは、つい昨日のことだった。
つまり、イェーガー派が緘口令を破って懲罰房行きになったのが昨日。そこからきっと事態が大きく動いて、今ナマエは軟禁されている、そういうことなのだろうと、ようやく合点がいった。

軟禁されてから約半日。
持ってきてもらった本は小説だった。久しぶりに読んだので面白くて、すぐに読み終わってしまった。
窓からぼんやりと外を眺める。既に日は落ちたものの、シガンシナ区には住民がいないせいで街にはぽつぽつと軍の光が灯るのみ。
シガンシナ区奪還の夜、こんな風にヒストリアと外を眺めたことを思い出す。

『心臓を捧げよ!』
『心臓を捧げよ!』

『民衆は身勝手ですから』

たぶん、わからないからだろう、とナマエは思った。
義勇兵を軟禁したと聞いた時、ナマエはハンジと話ができる状況にあったし、経緯も感情もひっくるめて彼女がなぜそういう判断に至っているのか、だいたい想像できるくらいには事情を理解していたから、良かったのだ。
そうでなければ、ハンジへのもやもやは晴れていないかもしれない。ナマエの立場だから、たまたまわかって理解できただけ。

多くの住民やイェーガー派にとっては、英雄であるエレンがどうして幽閉されているのかなんて、想像できないのだろう。住民は事情もわからないだろうし、イェーガー派はもし仮に事情をわかっていたとしてもそのほとんどは105期以降のメンバーであることを考えると。

――巨人と戦ってきた過去を、そのころの調査兵団を知らないから。

だから、そもそも戦う動機がきっと違うのだ。

こんこん、とドアが叩かれ、駐屯兵が入ってくる。

「食事を持ってきました」

スープだ。

「ありがとうございます。いい匂い。あと、この小説面白かったです」
「もう読み終わったんですか」
「下巻が気になるんですけど」
「実はそれ上中下なんですが、中巻が見つからなくて」
「え」
「後ほど、下巻も持ってきましょうか?」
「……よろしくお願いします」

駐屯兵に上巻を手渡す。

「軟禁されている理由は、なんとなく想像がつくんですが」

声をかければ、会議室から出ようとしていた彼は立ち止まった。

「何が起きているのか、ってさすがに説明してもらえないですよね?」

彼は黙った。
それから会議室の外に手を振り、やってきた駐屯兵に耳打ちをしてそうして会議室の中に戻ってきた。会議室のドアが閉まって、彼はナマエの正面に座った。

「ピクシス司令とも既に相談してありますが、ナマエ所長はイェーガー派である可能性が限りなく低いので、お話しします。お食事も、どうぞ」

意外にも呆気なく話してくれそうで、ナマエはちょっと驚く。

「ありがとうございます」
「端的にお伝えすると、今日、エレンが地下牢より脱走し、ザックレー総統が殺されました」
「え、ザックレー総統が?」

ナマエは目を見開く。

「趣味の椅子に爆発物が仕掛けられていたようです」

趣味の、と聞いて、ナマエは彼の趣味を思い出す。彼と話したことはほとんどないが、以前その椅子の製作を手伝ってくれと人づてにお願いされて、ものすごく丁重にお断りした。
と、それは傍に置いておくとしても、ザックレー総統の死は島全体にとって衝撃だろう。内部反乱のきっかけとしては十分なインパクトだ。
エレンも地下牢から逃げ出したということは、きっと彼はジークとの接触を図るはずだ。懲罰房にいるイェーガー派も動き始めるはず。

予想はほとんど外してはいなかったが、思ったよりは状況は切迫していた。

――2人は、大丈夫だろうか。

イェーガー派に真っ先に狙われるとしたらハンジだ。そして、彼らの目的であるジークのもとにはリヴァイがいる。

「……私、ここから出ちゃ駄目?」

そう尋ねれば、駐屯兵は首を横に振る。

「駄目です。エレンが自由になってしまったからこそ、お三方を隔離することになったんですから。ジークの居場所が漏れるリスクは下げるべきです。そして、あなたたちの命が失われるリスクも」
「それは、そうだけど……」
「脱走は、させませんからね」

考えていたことを見抜かれて、黙る。
でもこの駐屯兵は、それが正しいと思って言っているはずだ。

「……わかりました」
「とっても不満げなのが伝わってくるのですが、お食事は取ってください。いつ何があるのかわからないので」
「はい」

駐屯兵は立ち上がって会議室から出ていった。ナマエは少し冷めてしまったスープを飲む。確かに、栄養補給は重要だった。






がちゃ、と会議室のドアが開いた。
ナマエは、窓の外を見ていた視線をドアに向ける。想定外の人物の登場に少し驚き、それから安堵感が胸に広がる。

「……ハンジ!?無事でよかった」
「うん、私は無事だ」

彼女の後ろには駐屯兵たちもいた。ナマエが脱走していなくてよかったというように、ホッとした表情をしている。結局、夜は休んでエネルギーを貯めるべきだと判断し、うとうとしているうちに、気づけば朝になっていたのだ。
だが、ハンジは厳しい表情をしていて、ナマエも背筋を伸ばす。

「ナマエ、問題が発生した」
「問題?」
「今朝、イェーガー派が懲罰房から脱走した。調査兵も100人は消えた」
「……脱走?100人も?」

イェーガー派の存在は知っていても、そこまでの規模とは思っていなかった。それに、脱走したということは、彼らは明確に調査兵団に対して反乱を起こす態度を見せた、ということだ。

「彼らを追う?」
「それよりもジークとエレンが何をしようとしているのか突き止めるほうが優先だ。その情報がないと、対話にならないからね」
「うん」
「ナマエ、団長として、ひとつ命令だ」
「なに?」
「シガンシナ区から出て」

彼女の言葉を理解するのに、時間がかかった。

――何を、言っているの?

「ピクシス司令にはもう話を通してある」

ナマエは意識的に息を吸って、吐いて、それから問いかける。

「……なんのために?」
「生き残ってもらうために」
「は?」

ナマエは勢いよくハンジの胸倉を掴む。深呼吸した意味が一瞬で消え失せた。
からん、と松葉杖が倒れる音。

「ハンジ、私に、逃げて隠れろって命令してる?」

じっと少し高い位置にある目を睨みつける。こげ茶色のハンジの瞳は、それを真っ直ぐに受け止める。

「違う。今までと、変わらない。今までだって、ナマエは待ってくれていた」
「それとこれとは話が違う。待つのと逃げるのは、違う」
「ナマエ、これは団長命令だ。従わないなら、兵規違反の処罰を受けてもらうことになる」
「納得いかない。理由を、教えて」
「……私のお願いは全部聞いてくれるんだよね」
「ハンジ!」

都合のいいようにそんなことを言わないでほしくて、圧をかけるように名前を呼んで揺するが、ハンジは決して目を逸らさない。

「ナマエ。私とリヴァイは、もういつ死ぬのか正直わからない。だから、もし2人とも死んでしまったら見届ける人がいなくなってしまう」

心臓をおさえつけられたような息苦しさを感じる。想像したくないようなことを、彼女は淡々と言う。団長だからだ。団長だから、彼女はそこまで想像して、それで対策を打とうとしている。それでも。

「……2人とも死んでしまったら、なんて、」
「エレンが来る前までの調査兵団を覚えてる?」

ナマエの言葉を、ハンジが遮る。

「あのとき、エレンっていう人類の希望すらないまま、希望があるのかないのかもわからずに、公に心臓を捧げていった仲間がたくさんいる。何に賭けていいのかすらわからずに死んでいった彼らのことを、そしてそんな風に我々が仲間を殺してきたことを知っているのは、もう今は、私と、リヴァイと、ナマエだけだ。
そして、その重たすぎるほど重い心臓を背負うことができるのは――ううん、背負うべきは、私たちだけ。だから、私とリヴァイは、ナマエだけでも生き残って最後まで見届けてほしいって、そう話してる。……ナマエ、伝わるよね?」

ハンジは、じっとこちらを見つめる。

ナマエは黙った。
理解できてしまったのだ。彼女の言っていることが、よく理解できてしまった。

縋るような希望すらなかった、調査兵団。
雲を掴むような気持ちで暗黒の中を1歩でも進もうとして、1歩が1歩なのかすらわからないままに、仲間を殺してきたあのころを。そんな中で、心臓を捧げてきた仲間たちを。それを知っているのは、ハンジの言う通り、もういまやハンジとリヴァイと、そしてナマエだけだ。

誰かを死から守ることなんて、戦うことのできない今のナマエにはできない。けれど、ただそこにいろと、そうハンジは言っているのだ。とにかく生きて、生き延びて、これまでの全ての仲間の心臓を――過去を背負って、この世界がどうなっていくのか見ていろと。

3人以外の誰も知らないのだ。だから。

そっとハンジのシャツを掴む両手に、彼女の手が添えられる。疲れや緊張からか冷えてしまっているのに、体温が感じられる手だ。

「正直ね、本人には言わないけど、リヴァイは生き残ると思うよ。アッカーマンだし、強いしね。でも私は、団長になんか指名されちゃったから。そうしたら、やるしかない。公にこの心臓を捧げるって、決めたんだよ」

『ハンジ、いいとか悪いとかじゃない。私たちは生きているから、やるか、やらないか、どっちかしかない』

そう選ばせたのは、私だ。

『うん、私はやるよ』

あの時、それを選んだのは、ハンジだ。


ハンジの目の光を思い出す。

――あれは、覚悟の光だったのか。

今更、気づく。
彼女に、その覚悟をさせたのは、ナマエだ。


「ああそうだ。ナマエ、私は、もっと海の向こうのことが知りたいんだ」
「え?」
「まだまだ広いんだろうしね。ヒィズルにも行けていない。もちろん巨人についてだっていまだにわからないことばかりだから、それも知りたいね」
「……ちょっと」

――あの人みたいなこと、言わないでよ。

もう一度、息を吸って、吐いて、死ぬほど苦しい意思をかき集めてようやく手の力を緩めて、ハンジを開放する。
また、こうやって背負うのだ。けれどもうここまできてしまっては、ナマエは、背負うことを選ぶしかない。それが、ここまで生き残ってしまった者の、そしてこれからも生き残るであろう者の、責任だ。

「……わかったよ、逃げ切る」
「……」
「ちゃんと生き延びる。これまでの心臓を背負って、これからの世界の行く末を見る」

ハンジが笑顔になる。なのに、その顔は。

「ハンジ、なんで泣きそうな顔してるの」
「何言ってるの。ナマエだって、泣きそうだよ」

ハンジの腕が、背中に回る。ナマエも同じように彼女の背に手を回す。

――ああ、この体温も、あの楽しい笑顔も、もしかしたらもう二度と。

しばらくして、どちらともなく身体を離す。
そうしてハンジは手を差し出してきた。いつも通り。

ぱん、と、それに手を合わせた。じっとハンジの目を見る。ハンジもナマエの目を見る。
ナマエはそのまま、ハンジの手を自分の心臓に引き寄せる。

「……心臓を、捧げよ。私は、殺してきた仲間たちのために――そして、ハンジ、大切な親友である貴女のために、私の心臓を捧げる」