04


ごとり、松葉杖をついて、窓を開ける。カラネス区の、平和でどこか呑気な風が家を抜けた。
遠くに青い空の下、壁が見える。少し前までは、自由の翼を背中に背負って、あの高いウォール・ローゼを超え、飛んで、たくさんの仲間を殺して、ナマエは生きてきた。
そして今は、実働班ではなく技術班として調査兵団に所属し、巨人ではなく憲兵団に追われて、技術者のテレンとタノと一緒にこうしてカラネス区に身をひそめている。

「所長、ただいま。いいニュースだ」

窓から身を戻し、振り返る。
テレンが新聞を片手に満面の笑顔で立っていた。その横で配給された食材を抱えるタノも、にこにこと笑っている。

「おかえり。どうしたの?」
「中央憲兵根城が制圧されて、調査兵団の冤罪が晴れた」
「え!」

テレンがナマエに新聞を手渡す。1面にそのニュースが詳しく綴られていた。
顔を上げると、テレンとタノも嬉しそうに笑う。ナマエは2人に抱きついた。3人とも、中央憲兵から逃げきって、耐えた甲斐があったのだ。


とはいえ、今すぐ本部に戻るわけにもいかない。しばらくは情勢も落ち着かないだろう。
それに、今進めている研究も道半ば。途中で研究所を移動するのも手間がかかる。

机の上に並べられている、様々な形のボンベ。
立体機動装置の弱点のひとつが、ガス切れである。よって、いかに節約しながらガスを使うかを兵士たちは常に気にかけている。
いま、ナマエたちが研究しているのは、ガスをより効率的に利用するための方法である。すでにかなり効率化されており改良の余地は少ない、という結論になったものの、ボンベの形状によってガスの保ちが異なるのでその検証をしているのだ。

「この検証までは詰めたいよね」

そう言えば、テレンが頷く。

「そうだな。燃料の節約の技術はたくさんあったほうがいい。こいつはいろいろと使われているからな」
「師匠、例えばどこで使われているんですか」

タノは弟子なので、テレンを師匠と呼んでいる。ナマエも以前師匠と呼ぼうとしたら、やりにくいからやめろと怒られた。反対に彼は、この研究所に逃げてきてから、ナマエを所長と呼ぶようになった。やりにくいのだが、彼はやめてくれない。
テレンはボンベに視線を走らせる。

「氷瀑石は、工場を動かしているのにも使われているし、王都の貴族の家じゃ、調理用にも冷暖房にも使われている」
「へえ、貴族ってすごいんですね。トロスト区では調理は薪ですし、冷暖房なんてないですよ」
「タノ、そういうもんだ。貴族っていうのは、偉いんだよ」
「でも、民間でも使ったほうが良くないですか?偉いからって理由だけで貴族だけしか使えないのはよくわかりません」

全く納得いっていなさそうなタノに、ナマエはふふ、と笑う。

「実際に偉いのかどうかは別として、権限だけは持っているからね。タノ、盾突かないほうがいいよ」
「所長、何言ってるんですか。ちょうどまさにさっきまで、一応僕たちの所属している調査兵団は王政相手にクーデターしてたんですよ。それに、ここに来るまでに中央憲兵を2人ばちぼこに倒したの、所長ですからね」
「それはそれ、これはこれ」

タノが不満そうにしているのを見て、またおかしくなる。彼は若いからか、時折こういう健全な反骨精神を見せる。ナマエはテレンを見る。

「テレン、これを検証して、それから戻ろう。2週間が目安かと思うけど」
「ああ、そうだな。それに、他のも仕舞いにしないといけない」

テレンはそう言って、ひとつの瓶を手に取る。
3人は、一緒にひとつの研究を進める傍らで、それぞれが勝手に何かを進めていた。ナマエは立体機動装置のさらなる改造をしていたし、テレンは白髪染めを作ろうとしていて、タノは何やら不思議な装置を作ろうとしていた。
ちなみにテレンの髪は、いろいろな経緯を経て現在真っ白である。

「テレンの髪は、白いままかもね」
「これじゃあモテるものもモテないな」
「師匠なら大丈夫ですよ」

だが、帰還のタイミングは想定よりも早くきた。





コンコン、と扉が鳴る。

テレンとタノと、顔を見合わせる。これまでここに隠れ住んでいる間、この研究所に3人以外の人が来たことはない。
テレンが護身用の剣を構える。タノがテレンと目を合わせ、扉のノブを回す。

ばん、と開けば。

――青い瞳。

「……!!」

ナマエは立ち上がった。
そこには、私服姿の団長と、右腕を吊ったハンジが並んで立っていた。

「ナマエ!!!」

ハンジが駆け寄ってきて、左腕でナマエを抱きしめる。ナマエもそれに応じて、ハンジの背中に手を回す。

「ナマエ、無事でよかった」
「驚いた。うん、ハンジも無事で何より」
「本部の研究所が荒らされていたから心配したよ。死んだかとも思ったけど、ナマエのことだしここにいるんじゃないかって」
「さすが」

ナマエがこれまでの人生でテレンとタノ以外にこの場所を教えたのは、ハンジだけである。ずいぶん昔に、祖父とここで暮らしていたことを話したのだ。彼女は、友人としても研究者としても信頼できる。
ナマエは顔をあげて、ハンジの頭から足先まで観察する。その動きは、なんだか記憶よりも随分ゆったりしたものだ。

「ねえ、右腕、どうしたの?それに、全身打ったでしょ」
「え!?なんでわかるの」
「経験済みだから」

ふと目線を上げると、エルヴィンは少し微笑んで立っていた。

「ナマエ、久しぶりだな」
「団長」

ナマエとハンジは身体を離す。ナマエは松葉杖で一歩進み出て、右手を心臓に当てる。

「ご無事で何よりです」
「生き延びてくれて、ありがとう」
「テレンとタノが、着いてきてくれたので。とても助かったんです」
「そうか。2人も、ありがとう」

テレンは居心地悪そうにまだ持っていた剣を仕舞う。タノは戸惑っておろおろしていた。

「所長、俺とタノは散歩に行ってくる。タノ、行くぞ」
「あ、ちょっと」

呼び止める前に、2人はすぐに家を出てしまった。気を遣ってくれたのだろう。行ってしまったものは仕方がない。

「すみません、その辺に適当に座ってください。紅茶淹れますから」
「あ、ナマエ!私がやるよ!」
「ハンジに任せられるわけがないでしょ。それに右腕が使えないのに」

台所に立ち、湯を沸かす。

「あれ?ねえ、ヤカンは使わないの?」

ハンジが手元を覗く。ナマエは頷いた。

「この鍋だとお湯がもっと早く沸くの。タノが謎の実験の結果作っちゃったから、偶然の産物なんだけど」
「へえ!すごい。どういう仕組みなんだろう。それに、机の上もボンベがいっぱい。立体機動装置のだね?」
「そう、ガス利用を効率化できないか、いろいろ試していて」
「このリフトみたいなのは?」
「足が悪くても立体機動できないかなって。まあそれは失敗作だけど」
「好きだねえ」

ぽこぽこぽこ、と沸騰する音。ナマエは紅茶を3人分淹れる。本当に早い、とハンジはじろじろと鍋を見る。エルヴィンも立ち上がる。どうぞ、とコップを差し出せば、左手で受け取る。彼は少し前に右腕を失った。
ナマエとハンジもそれぞれのコップを持って椅子に座る。ハンジは早速ワクワクと机の上に積まれた研究レポートを眺め、これ見ていい?などと言い出すので、ナマエは笑ってしまった。

「いいけど、質問はあとでね」

と言えば、ハンジは瞳をキラキラさせて、ひとつ手に取り読み始める。
エルヴィンを見れば、ふっと笑う。

「君たちは相変わらずだな」
「え?」
「2人が入団した時、全く兵士らしくない女性が2人も来るって当時は噂になっていた」
「まあ、確かに」

ナマエは、自分が兵士らしく見えない自覚はある。ハンジは、変人だ。

「君たちはずっと食堂で2人で話していたな。巨人だとか壁についてのあまりにも突拍子もない仮説から、生物学だとか物理学だとかの固い話までずっと話しているから、先輩たちはずっと君たちとどう関わるか悩んでいた。そのハンジがいまや分隊長、ナマエは班長まで勤め上げた上に技術班の所長だ」
「そりゃあ、1人で始めれば自動的に所長になりますって」
「だが、いつの間にか部下ができている」

2か月前。トロスト区での怪我が元で足が使えなくなって、ナマエはリヴァイから聞いていた通り、エルヴィンに技術班の立ち上げを持ちかけられた。立ち上げ時、メンバーはナマエひとり。そして覚悟していた通り、エルヴィンの技術班への期待値は高かった。
一番初めの依頼が、15m級の巨人を捕まえる仕組みを作れというものだった。10m級までしかこれまでの捕獲網は使えない。頭の柔らかいハンジに協力してもらって散々議論しながら構想を練って、ナマエがそれを実現するための仕様を組み立てていき、『対特定目標拘束兵器』はどうにか形にはなりそうだった。
だが、作り手が足りなかった。どうやっても求められている期日に間に合わない。そんな時に、これまでも何度かナマエが個人的に世話になっていたテレンとタノを頼ったのだ。そのタイミングも良くなかったせいで、結果、2人も中央憲兵に狙われることになってしまった。

「テレンとタノは巻き込み事故ですよ。もう巻き込んだんで、技術班の一員として認めてくださいね」
「当然、歓迎しよう。それで、ここは。随分と立派な研究室だが」

エルヴィンが紅茶を飲んで問う。
この部屋には数多くの工作機械がある。一研究所として十分な役割を果たしていた。

「祖父が住んでいた場所なんです。技術者でして」
「そうなのか」
「はい。あの、団長」

見れば、エルヴィンは頷く。

「わかっている。誰にも場所は言わない。……この壁の中では、やはり技術者は難しい立場なのだろうな」

察しのよいエルヴィンに、ナマエはホッとする。この研究所は、大切に守っておきたい。祖父の遺したものだ。

それで、とナマエは首を傾げる。

「それで、団長、状況を教えてくれませんか」
「どこから話したらいいだろう」
「調査兵団がクーデターを起こして成功して、新しい女王様が生まれたのは、新聞で読んで知っています」

エルヴィンは頷いた。

「概ねその通りだ。これから新女王の元、全兵団が協力して壁内の安定とシガンシナ区奪還に向けて動くことになる。ナマエにも、技術班として協力を依頼することになる。そのあたりの組織の話は、あとで詳しく相談する場を設けたい」
「了解です」
「ちなみに、新女王は104期の調査兵だ」
「ええ、そうなんですか。104期、すごいなあ」

104期の調査兵は随分面子が濃いようだ。巨人になれる人が敵味方合わせて5人もいたことが既にわかっているのに、王家の血筋までいた。

「大きな変化が起こるときというのは、駒が揃うものなのだろう。いや、奇跡的に駒が揃うときに大きな変化が起こるのかもしれないな」
「そうかもしれません」

ナマエは、調査兵団を思い浮かべる。きっと、104期だけじゃない。団長、兵士長、各分隊長、それからたくさんの調査兵たち。彼らがいるから、何かが変わっていくのだ。

「みんな、無事なんですか」

1番大切なところを聞けば、いや、とエルヴィンは首を横に振る。

「ハンジ班の調査兵が3人。……ナマエ、ゴーグルも死んだ」

ナマエは言葉を失う。ゴーグルはシガンシナ区が陥落する前からの付き合いで、一番長い間直属の部下として一緒に行動していた。

「でも、得たものは多い」

話を聞いていたらしいハンジが、横からそう言う。
死を目の当たりにしたとき、基本的にハンジはただ淡々と事実を受け止める。命を犠牲にしても、結果を得られるかどうかを重視する。

「ああ、ハンジの言う通りだ。巨人についても、王家についても、いろいろなことがわかった。あとで報告書を読むなりするといい」
「そうします」
「それから、もう一つ重要なことだ。中央憲兵の根城に、彼らがずっと隠していた資料庫が見つかった」
「中央憲兵の資料庫、ですか」

大変刺激的な単語が耳に入って、ナマエはエルヴィンを見つめる。
中央憲兵は、憲兵団の内部組織だ。

――中央憲兵、の……。

「どうした」

え、とエルヴィンを見れば、彼はちょっと不思議そうな顔でこちらを見ていた。変な顔をしていただろうか、とナマエは自分の頬に触れる。

「いつもと違う顔をしていた」
「……そんなに?」
「ああ。……今回の件以外で、中央憲兵と何かあったのか」

ナマエはふっと苦笑いを浮かべる。完全に表情に出ていたらしい。

「団長。もし、もし――中央憲兵の資料庫にもっとすごい武器とかあったら、私、ちょっとものすごく怒るかもしれません」
「ナマエが怒るの?楽しみだなあ」

ハンジの気楽そうな態度に対し、エルヴィンはため息をつく。

「ハンジ、知らないか?ナマエみたいな人は、怒ると怖い」
「でも、ナマエが怒ったらどうなるんだろうと思って」

ナマエはふたりの会話を耳にしながら、紅茶を飲む。

「調査をする時には、ナマエも一緒に来い。それもあって、今日は来た」

え、とナマエはエルヴィンを見る。

「いいんですか?」
「技術班所長なんだろう?だったら一緒に調査する理由は十分だ」

成り行きで得た肩書も、そうやって使えるなら悪くない。

「了解です。嬉しい」
「なら、決まりだ」
「決まった?」

ハンジを見る。そわそわしている。
あ、これは結構来るな、とナマエは覚悟を決める。

「決まったなら、そろそろいいかなあ」
「ああ、待たせた「じゃあ早速。ナマエ、ねえ、ここの計算って」

始まった、と、ナマエはハンジの持つレポートを横から覗き込んだ。



しばらくして帰ってきたテレンとタノは、レポートをめくりながら数々の質問と意見を投げるハンジに、ひとつひとつ手元で計算して見せたり実物のボンベを使ったりして応じるナマエ、それから隅の方で黙って紅茶を飲みながらそれを眺めるエルヴィンを見た。

「おかえり」

こちらに気づかない2人に変わって、エルヴィンにそう穏やかな声で迎えられ、テレンとタノは顔を見合わせる。

「気を使わせたな」
「いや、それは構わねえが」

テレンはそう言って、それからナマエとハンジのやりとりを見、思わずつぶやいた。

「……こりゃあ逞しくもなる」
「どうしてそう思う?」

エルヴィンはテレンを見る。テレンは頷き、腕を組んで壁に寄りかかる。

「相当難しいことをやらされているはずなんだがな。できないと投げ出さないで、どうやったらできるのかをひたすら考えられる。しつこいくらいに諦めないんだよ。そんなの、よほど逞しくないと無理だ」
「相当難しいこと、か」

エルヴィンが苦笑したのを見て、テレンは目の前の男こそがナマエに難易度の高い依頼を出していた張本人だったと思い出す。が、事実ではある。

「団長、あんたからナマエへの依頼は、毎回難しい。王都の技術者でも答えられる人は少ないだろうと思う」
「そうか。正直なところ、私は技術の詳しいことはわからない。とりあえず、ナマエにやりたいことを伝えているだけだ。私がやりたいことをやれているのは、彼女だけでなく、テレンとタノ、貴方たちのおかげだと確信している。ナマエをずっとサポートしてくれているんだろう」
「いや、俺たちは下請け程度だ。主力はあいつだよ」

テレンは、ハンジをじっと見る。

「彼女は」
「ああ、ハンジだ。彼女は頭がいい。巨人の研究は彼女が一手に担っている」
「……あんたもそうだが、ハンジとやらも相当ぶっ飛んだ頭を持っているように見える」

ふ、とエルヴィンが笑う。

テレンとタノにとって、調査兵団の団長など正直接点もない、遠目に見るだけの存在である。だが、ナマエとハンジを見るエルヴィンは、団長としての威厳というよりも、信頼する部下たちを見守る大らかさを感じさせた。

「そうだ、2人にも話を。2人ももう、調査兵団の技術班だと、ナマエは言っていた」
「そうなのか?中央憲兵からの誘いは断ったが」
「なら、我々の仲間だ」

と、エルヴィンがテレンとタノに状況を説明し、結局善は急げとのことで、ナマエだけ先に王都に向かうことに決まった。
後を任せ、ナマエはその日、エルヴィンとハンジとともに馬車に乗って、少しの間隠れ住んだカラネス区を後にした。