静かで穏やかな病室に、遠くから聴こえる微笑ましい騒音が響く。
時々看護師さんに走っては危険だと叱られているのも小さく聴こえてきて、思わず失笑する。
今叱られたことも忘れて、彼女は豪快に扉を開けるのだろう。
それだけで、俺の口元は自然と緩んだ。
「ゆーういーっちさーん!!」
ドアが外れるのではないかと思ってしまうほど大きな音を立てて、中に入ってくる彼女。
少しばかり元気が良すぎる彼女は、俺の顔を見た途端嬉しそうに微笑んだ。
「やあ、おはようなまえ」
「おはよう優一さん!今日も元気いっぱいですか!」
「ああ、なまえのおかげでね」
「!…えへへ…」
なまえは朝、学校へ行く前に必ずここに来る。
一度そんなに無理をしなくてもいいと言ってみたけれど、この方が早起きできるし一石二鳥だそうだ。
ほんの数十分だけ他愛ない会話を交わすと、満足したように学校へ行くんだ。
「あのねー今日はねー調理実習があるんだよー」
「そうなのか、何を作るんだ?」
「えっとねー確か何かと、何かのスープと、チーズケーキ!」
「チーズケーキ以外えらく曖昧だな」
「私チーズケーキ担当なんだ!後は他の子!」
嬉しそうにピースサインを向ける彼女に、思わず笑みが零れる。
火傷したり指を切ったりしなければいいけれど。
ふと目を瞑ると彼女が明日指を絆創膏まみれにしているところは用意に想像出来た。
だがよくよく考えたらチーズケーキ作りに火傷する要因も指を切るよく考えたらなかった。
「あっなまえ!そろそろ行かないと」
「わっほんとだ…!またね優一さん!」
なまえは入って来た時と同じようにバタバタと走って出て行くと、また看護師さんの怒声を響かせながら去って行った。
窓の外に目をやると顔をこちらに向かせながら、手を犬の尻尾のようにブンブン振っているなまえが見える。
前の人にぶつかるよ、と身振り手振りで伝えようとしたと同時に近くを通った人とぶつかった。
慌ててその人に謝り、ぺこぺこと頭を下げる。そしてハッとしたような顔をして、再び走り出す。
…今日も彼女らしくて何よりだ。
サッカー雑誌を読み終え、ひとつ欠伸をこぼす。
京介が毎日来る事もなくなり、嬉しいがほんの少し寂しい気もする。
早く俺もサッカーがしたい。そんな気持ちでいたら、少し歩きたくなってきた。
誰かに付き添いを頼んで松葉杖を借りて、外でも歩こうか。そんな気分になっていた、その時。
「優一さん…?」
「うわあ!…なまえか。驚いた…突然現れるんだから…」
「ご、ごめん…」
「なまえにしてはえらく静かな登場だな。何かあったのか?」
もごもごと何かを言おうと口を動かしているものの、ドアの外から入ってこないなまえ。
何か嫌なことがあったのかもしれない。
いつも笑顔で俺の方まで元気にしてくれる彼女だけれど、そんな彼女にだって落ち込むときはあるはずだ。
そう思って彼女に此方にくるよう声をかけた。まだ燻っている。
「おいで、なまえ。何かあったなら聞くから」
「う、うう……うん…」
おずおずと明らかに後ろに何か物を隠しながら、此方へと近寄る。
特に思い当たる事柄もわざわざ隠している物を問い詰める理由も無かったので、彼女の頭をポンと手を置いた。
案の定なまえはそれはもうびっくりして肩を震わせていたけれど、それは見なかったことにしてそのまま頭を撫ぜた。
「いくらでも甘えていいんだぞ。俺はお兄ちゃんだからな」
「……お、お兄、ちゃん…?」
「ああ」
なまえは何か思うところがあったのか、
数秒息をしているのかどうか心配になるくらい固まった後、ぶわっと勢い良く涙を溢れさせた。
「なんだ?!どうした?!どこか痛むのか?!」
「…私、ほんとはチーズケーキ担当なんかじゃなかったの…」
「…え?」
「ほんとはみんなで分担してやろって言ってたのに、無理して一人でやらせてもらったの…」
「…うん、それで?」
後ろに隠していた袋を俺の前に差し出す。
中にはひとつ、少しだけいびつなところがとても可愛らしいチーズケーキが入っていた。
鼻腔をくすぐるレモンの香りが食欲をそそらせる。
「優一さんに…優一さんに私一人で作った奴渡したくて…その…」
「俺に?」
「そっそれで…すきって、言いたかったのに、お兄ちゃんて言うから…うう…でも食べて…」
「なまえ…」
忙しなくそこまで一気に言い切って、更に涙を溢れさせる。
彼女の手から直接ケーキの欠片を受け取ると、口いっぱいに甘さが広がった。
今もなおチーズケーキを持つ彼女の袖は、水分を含んで色が変わってしまっている。
拭いても拭いても涙が留まる様子のない彼女を、そっと引き寄せた。
「……っあ、…え……?!」
「…落ち着いた?」
「えっえぇええ…?!いやあの、えっ?えっ?!なんで…!!?」
「俺もなまえのことが好きってことだよ」
ファーストキスはレモン味だなんてよく聞くけれど、
初めて交わした彼女との口付けは、なんだかしょっぱくって、
そうだなあ…レモン味、では無かったかもなあ。