涕涙



痛みがどこから来るのか、今自分の体がどうなっているのか。そんなことすらもうわからない。手も足も首も全部、どうにも動かない。手足、ちゃんとくっついてるのかな。

荒々しい雨音だけが延々と聞こえ、私は細く呼吸を繰り返すだけだった。無抵抗のまま浴びた無数の攻撃に、死なずにいる方が不思議だ。ラビットは、もういない。どれくらい時間が経っただろう。いっそのことトドメを刺して欲しかった。再生は間に合っていない。血が流れすぎた。このまま意識を失って、死ぬだろう。

いつもどこかで思っていた。死の間際って、どんな感じだろう?痛いのかな、嫌だなって。実際はこんな、呆気のないものなんだ。もう痛いという感覚も痺れてしまった。誰もいない、暗い雨の中で一人逝くのは、なんだか寂しい。私の人生、どんなだったっけ。ふと、久しぶりに両親を思い出した。昔の友達や、アキラさんも。走馬灯ってやつかもしれない。どちらかといえば苦しいことの方が多い人生だったように思う。けれど、悔いはない。

そう思った時、不意に頭に佐々木一等が浮かんだ。柔らかく、目を細めて笑う姿。一緒に買い物へ行ったり、夜遅くまで話し込んだり、笑い合ったり。短い間だけど、彼との思い出は楽しいことばかりだ。そばにいない時ですら、こうして心のどこかにいて、安心させてくれる。思えば最近、ずっと彼のことばかり考えていたような気がする。『後悔だけはするな』アキラさんの言葉がよぎる。こんな時に気付くなんてもう遅いのに、胸がざわざわして、縮まるみたいに痛くなった。ああ、そうか。私は佐々木一等のことを……。

「っ………ふっ…」

やっぱりまだ死にたくない。
途端に、呼吸することさえ苦しいのに嗚咽がこみ上げて、目に涙が溢れてきた。もう泣かないようにしようと思っていたのに、私は泣き虫だ。

意識が遠くなっていく。ふと、雨音しか聞こえないはずの耳に、水を踏む、走る足音が聞こえた。だんだんと近づいてくる。幻聴かもしれない。あの人が来てくれたら、なんて思ってるから。すると、今度は鉄の階段を急いで登る騒音が聞こえ出した。そして、涙で霞んでよく見えない視界に、誰かの足がぼんやりと映った。

「菊池さん!!」

叫びのような、悲痛な声だった。途端に鼻の奥がツンと痛くなって、目からじわじわと暖かな雫が湧いた。声ですぐにわかった。佐々木一等だ。彼は私の元へと駆け寄ると、膝をついて、うつ伏せの私をそっと抱き起こす。そこでやっと彼の顔が見えた。傘を差して来なかったんだろう。髪も服も雨に濡れていて、今までに見たことのない、悲痛な顔をしていた。最後に会えて嬉しいはずなのに、こんな顔をさせてしまっては喜べない。死ぬに死に切れないじゃないか。

「どうして……こんな…どうして…」

彼はそう嘆いて、私の頬を力なく撫でてから、顔中についた血を拭った。それからぐっと堪えるように歯を食いしばるが、眉間にはこれでもかというくらいに皺が寄って、目の中の白は赤く染まっていく。雨粒に紛れた温かな雫が、きらきらと光りながら私の頬に落ちる。泣かせてしまった。けれど、これで一人で逝かずに済む。もう寂しくはない。

「誰がこんなっ……瓜江くんはBレートだって……そんな……っ……」

そうか。瓜江は佐々木一等に連絡をしたらしい。此の期に及んで少し安堵すると同時に、なんとしてでもラビットの手によるものだと伝えなければならない、と思った。もっと他に伝えたいことがある。しかし、最後まで捜査官として使命を果たさなければ。声を出すのはもう無理かもしれない。それでも、呼吸をするのにやっとの口を開いて、痛む肺と喉に無理に力をやった。

「ラ……ビッ…………ト」

「…………え……?」

ほんの微かに出た声は、雨に掻き消されてしまった。佐々木一等が必死に聞き取ろうと、直ぐ様私の口元に耳をやる。あともう少しだけなら、なんとか声が出そうだ。よかった。

「……ラビ……ットが…………」

「ラビット……!?」

佐々木一等が聞き返すが、もう頷く力はなかった。ダメだ。なんだかもう、体のどこにも力が入らない。瞼すら重くなって、ついに閉じようとしていた。

「菊池さん…ダメだ…!待って……」

彼が泣きながら懇願する。それなら、少しでも長く起きていよう。最後の力を振り絞り、必死に意識を保った。

「お願いだ……僕を……、」

声が、震えている。だんだんと顔が近づいて、そっと、彼の額が、私の額にくっついた。

「僕をおいて逝かないで……」

か細い、力のない、子どものような声だった。私はまた彼を、一人ぼっちにさせてしまうのか。ごめんなさい。心の中で呟いた。もう少し一緒にいたかったな。こめかみに、佐々木一等の唇があたっていて温かい。一度くらい、これに触ってみたかった。

「さ……さき……いっと…う…」

「………?」

「さいご……たの……みが……」

キスしてください。最後の最後、血迷ったのだろう、そんなことを言おうとした。それがいけなかったのかもしれない。力が抜けて、瞼が閉じる。何も見えない、真っ暗だ。あーあ。佐々木一等がどんな反応をするか、見たかったのに。それからすぐに眠たくなって、私は眠った。


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寝耳にミサイル