混迷



少し空気の冷たい爽やかな朝、鳥のさえずりなんかが聞こえて清々しい陽気なのに、私は苛々を抑えられないでいた。シャトーのダイニングでの朝食の席は、いつもと様子が違う。何故か団欒に参加しない佐々木一等が、リビングのソファに座って一人読書をしている。

「なぁ、サッサンなんかあったのか?」

「…………さぁな。(どうでもいい)」

「なんか最近ちょっと変だよね……。菊池さん何か知ってる?」

六月くんに聞かれて、私は思わず眉間に皺を寄せた。いっそのこと、目の前にあるコーヒーをカップごと拳で叩き潰してやろうかと思う。

「……知らない。」

「そ、そっか……。」

おろおろと心配した様子の六月くんと、その後ろにチラ見えする佐々木一等の横顔。ダメだ。耐えきれない。私は意を決してその場から立ち上がり、リビングのソファへ向かう。

「佐々木一等、コーヒー注いできましょうか?」

精一杯取り繕って、私は佐々木一等に微笑みかけた。それなのに、彼は私と目を合わそうともしない。

「自分でやるからいいよ。」

口元は笑っているけれど、その目に私を映すことはなかった。やるせなさがこみ上げて思わず拳をぎゅっと握った。それでも負けじと、今度は佐々木一等の横にどかりと座り込む。

「ちょっとトイレに……。」

するとさっと立ち上がり、佐々木一等はリビングを後にする。なんだこれ。一体何なんだ……?


佐々木一等に避けられている。


いくら人付き合いに勘の鈍い私でも、それくらいはわかる。彼が視界に入るたび、私の中で思い出されるのはつい6日前の病院での出来事。好きという言葉も、付き合うだとか彼氏彼女なんて言葉もなく、そっとキスを交わしただけだったけれど、私たちの関係は今までと大きく変わるだろう、そう思っていた。

しかし実際はそんなことはなく、無事に復帰してからというもの、やたらと佐々木一等は私との接触を避けるのだ。理由はさっぱりわからない。強いて言えば「成り行きでキスしちゃったけど勘違いしないでね」という遠回しなメッセージなのか、と思う。でも確かにあの時は、お互いに何か通じ合うものを感じた気がしたのに。もうわからない。もやもやとしながら、私は仕方なく自室へと戻り、スーツに着替えた。苛々していたからか、乱雑に引っ張り上げたストッキングが酷い裂け方をしたので、私はそれを丸めて力一杯その辺に投げつけた。

出勤の準備が整い、再び一階に下りてリビングへ向かう。そこにはスーツに着替えた佐々木一等がいて、またソファで読書をしていた。他の皆はまだ来ていない。つまり、私と彼だけだ。どうせ避けられるんだろう。そう思いながらも人一人分のスペースを空けて、今度はそっと佐々木一等の横に座った。ふと横目で見ると、やっぱり彼は入れ替わりに立ち上がろうとしている。

「もういいです!!!!!」

ついに我慢の限界で、私は珍しく声を荒げた。びくり、と佐々木一等の肩が揺れる。

「私がどっか行きますから!」

吐き捨てるように言って立ち上がり、佐々木一等の前を通り過ぎようとしたその時、不意に腕が掴まれた。

「……菊池さん!」

肌に触れたのはあの時以来だ。振り向くと、困った顔をした佐々木一等が私を見上げていた。ようやく、私を見てくれた。

「……その………ごめんね。」

「嫌です。」

どうして避けるんですか。その一言が、頭の中でぐるぐると回るのに怖くて口に出せない。謝られたって困る。すっかり機嫌の悪い私は、掴まれた腕を解いて可愛げもなくそっぽを向いた。

「怒ってる?」

「はい。」

彼はますます困った顔になって、私を見上げている。なんだか愛らしい、卑怯な顔だと思う。

「ここ座って。」

「嫌です。」

ぽん、と自分の隣を叩く佐々木一等。本当は隣に座りたいけれど、ひねくれ者の私の口からは相変わらず可愛げのない言葉が飛び出す。

「菊池さん。」

「……嫌です。」

一点張りの私に、佐々木一等は苦笑した。こうなってはもう手がつけられない。そう思ってるんだろう。

「ごめん……怒らせるつもりはなかったんだ。」

「……じゃあキスして下さい。そしたら機嫌治ります。」

半分冗談、半分ヤケクソでそう言うと、佐々木一等は驚いて目を見開いた。そしてほんのりと頬を赤らめて、私から視線を逸らす。その反応をどう受け止めたらいいのか、彼が何を考えているのか、全くわからない。思わせぶりなだけなだけなのだろうか。けれど、よく考えると自分だってそうだ。ただキスをねだるだけの女の方が、よっぽど思わせぶりだ。

やっぱりあの時、恥ずかしがらずに言うべきだった。異性として貴方が好きだと、ちゃんと言葉にして伝えるべきだったんだ。私はいつも気付くのが遅い。しばらくの沈黙の後、私はそっと佐々木一等の隣に座った。すると彼はゆっくりと視線を私に向ける。

「佐々木一等、私……」

言おう。私はごくんと唾を飲み込んでから、少し震える唇を開く。恐る恐る見上げれば、やけに真剣な顔と目が合う。また、あの日のことを思い出した。

「菊池さん、」

「はい…?」

いざ言おうとしたのに、少し小さな声で名前を呼ばれて、ソファについた右手に佐々木一等の手が重なった。あ、来るかも。なんだか彼はいつも、急にスイッチが入ったみたいになる。

「……目、瞑って。」

「え、」

すっ、と顔が近づいて、思わず上げた声は唇に飲み込まれた。柔らかくて温かいものに啄ばまれ、少し吸われる感覚。揉まれるように角度を変えて二度、三度と繰り返される。彼に触れられると身体中が火照って溶けてしまいそうな気がするのに、それと同時に胸にひゅうと冷たい風が通るみたいにひんやりして、不意に切なくなる。佐々木一等、今どんな感じなんだろう。以前よりいくらか余裕があったので薄目を開けると、鼻先に同じく薄目を開けている彼と目が合う。うわ。目が合った。私は少し焦った。もしかして佐々木一等は、キスする時相手の顔を見てるんだろうか。そんな私を悟ったのか、彼がそっと微笑むのを唇に感じた。それを最後に、優しく指の背で頬を撫でながら、そっと唇が離れた。目を細めて、少し気恥ずかしそうに微笑む佐々木一等と目が合う。もう今しかない。私ははぁと吐息を一つ漏らした後、彼と重なったままの手をそっと返して指を絡めた。


「…好きです……佐々木一等のこと。」


真っ直ぐと目を見て、ついに言った。すると佐々木一等は驚いて目を見開いてから、何かを我慢するように眉を下げて、きゅっと口を結んだ。それからすぐにぐっと力強く引き寄せられ、抱きしめられる。病院での時よりも少し強くて、頭の後ろに回された手が私の髪を包むように掴んだ。


「……ありがとう。」


耳元に唇が触れて、熱い吐息と一緒にその言葉が聞こえた。そして抱き合ったまま、しばらく沈黙が続く。続きの言葉は無い。なんだか突然、崖の上の花畑から暗い谷底に突き落とされたような気分になった。きっと私は、たった一言「僕も好き」という言葉を、喉から手が出るほど欲しがっていたんだと思う。そして、代わりにもらった一言を、どう解釈していいのかわからず混乱している。本来なら単純すぎる言葉なのに、彼が言うとどうにも複雑で厄介だ。心も身体もすっかり脱力してしまう。まともに働かない頭で次の言葉選びをしていると、急に上の方から騒がしい音が聞こえた。

「おい瓜江!お前なんかガソリンみてぇな臭いすんぞ。」

「……うるさい。(油彩用の筆洗液だ馬鹿)」

階段に向かって二階の廊下を歩く瓜江と不知くんが、吹き抜けになっているリビングの上窓から見えた。途端に、慌てて私の肩を掴んで身体を引き離し、佐々木一等が立ち上がる。その切り替えの早さに、私はすっかり置いてかれてしまっている。

「じゃ、行こっか仕事。」

社交的で爽やかな笑みを浮かべ、佐々木一等はクインケのケースを掴んでさっさと玄関へと行ってしまう。その背中を見つめながら、さっき彼に掴まれた、少し乱れた後ろ髪をそっと握る。佐々木一等がわからない。ただただ、もやもやするばかりだ。こんな時、どうすればいいんだっけ。縋る思いで咄嗟に浮かんだのは、やっぱりあの人だった。


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寝耳にミサイル