剣呑



貴方は一体、誰?その問いに答えることもなく、彼は私の首を緩く掴むと、性急に肩口へと噛み付いた。

「痛ッ!!」

驚く暇すらなく、鋭い痛みが走る。歯が肉に喰い込み、裂ける感覚。生温かい液体がそこからじわじわと湧いて出ていくのを感じる。ぐっ、と力を入れて抉られ、あまりの痛さに私は叫んだ。そして必死に藻掻いてその身体を引き離そうとするが、びくともしない。耳元で聞こえる液体を啜る音に、恐怖と絶望感で体が震えが出す。

「っやめて!!!!」

声の限りに思い切り叫ぶと、びくり、と彼の肩が揺れた。そしてゆっくりと口が放され、食い込んでいた歯と肉が擦れてぐちゃりと音を立てる。顔を上げた彼が、唖然とした様子で私を見つめていた。血塗れになった口元が白い肌に赤く映え、それは雫となってぽたぽたと私の頬へ落ちる。恐怖で身が竦んで動けず、ただ深く呼吸をしながら彼を見据えた。

「僕は…………何を……?」

小さくぽつりと呟くと、途端にまた、彼は苦しそうに顔を歪めて呻き声を上げ始める。

「ぅ、……ぐ、ぁぅ……!!」

どさりと私の上に倒れこむと、両手で頭を抑え込み、藻掻き苦しむ。そして途切れ途切れに訳のわからない言葉を紡ぎ出し、呪文のように唱え始めた。

「僕は……何を……?君は…?君は、あの時の、?違う、僕は、ぼくは……?」

まるで壊れた機械のようにおかしくなってしまった佐々木一等を前に、じわりと涙が浮かぶ。彼は"別の人"で、もしかするともう、佐々木一等は帰ってこないのかもしれない。

「……お願い………戻ってきて……。」

祈るように囁いて、胸元に沈む彼の頭を、縋るように抱きしめた。そうしながら啜り泣くことしかできず、ただただ元に戻るよう祈るばかりだ。するとしばらくして、ぴたりと彼は動きを止めた。ゆっくりとした呼吸だけが聞こえ、私は恐る恐るその姿を見つめる。


「……食べたくない…僕は……誰も食べたくない……。」


ふと、力のない悲痛な嘆きが、確かに耳に聞こえた。そして嗚咽を漏らすと、その肩が小刻みに震えだし、鼻を啜る微かな音がした。泣いているのだと、すぐにわかった。頭を抑え込んで縮こまるその様子は、まるで少年のようだった。

「……大丈夫……誰も食べてないよ……。」

何故そうしたのかわからない、けれど、そうさずにはいられなくなって、私は安心させるように彼の頭を撫でた。するとゆっくりと頭を持ち上げて、彼は私を見た。微かに残った口元の血に、涙が伝って軌跡をつくる。怯えたようなその表情が、いつかの私によく似ていた。


「こわいんだ………ぼくは……

……………僕は消えるの?」


ふ、と彼の瞼は落ち、身体が脱力する。その一言を残し、彼はぴくりとも動かなくなった。慌てて脈と呼吸を確認するが、特に異常はない。気絶してしまったみたいだ。しばらく呆然と、彼を身体に乗せたまま宙を仰ぐ。また涙が出そうになったけれど、泣いている場合じゃない。しっかり頭を回さなければ。

もしこのことが佐々木一等に知れたら、ショックを受けるだろうし、混乱するだろう。知らない方がきっといい。せめて何もなかったように取り繕うべきだ。佐々木一等を、彼の部屋に寝かせよう。私は急いで起き上がると、彼を背中に乗せて腕を前に掴み、担ぎ込んだ。半喰種でなかったらとてもできないことだが、今なら運べないこともない。噛み付かれた傷は、もう塞がっていた。

微かにドアを開けて廊下を覗くと、幸いなことにそこには誰もいない。私は佐々木一等を引きずるようにして担ぎながら、急いで彼の部屋に向かった。いくら半喰種とはいえ、さすがに男一人担ぐのは重い。やっとたどり着くと、乱雑に扉を開けて彼を床に降ろし、素早く閉める。乱れた呼吸をゆっくりと整え、それからは、驚く程私の体は冷静に動いた。

顔に残った血を拭いて、そっと彼をベッドへと寝かせる。そして血で汚れてしまったスウェットを脱がし、クローゼットから似ている物を探し出して着替えさせた。最後にサイドテーブルに置かれた本を手元に置き変えれば、あたかも部屋で読書中に寝てしまったかのような空間が出来上がる。これでいい。しんと静まりかえる部屋で、一つ息を吐いた。あとは、私の部屋を片付けるだけだ。血のついた服も捨てなければ。私は佐々木一等の部屋を後にして、自室へと向かう。焦って小走りになり、少し震える手を伸ばしてドアノブに手をかけた。しかし、あともう少しのところで、背後から声が聞こえた。

「あ、菊池さん!」

びくり、と肩が震える。まずい。六月くんの声だ。振り返ると、ちょうど階段を昇ってきたらしい六月くんと、その後ろには不知くんまでもが、慌てた様子でこちらを見ていた。

「さっきなんかスゲー叫び声したからよ、大丈夫か……?」

二人は心配そうに、こちらへと歩き出す。しまった。慌てて私は右肩を両手で掴んだ。まだ着替えていない。さっきの血痕が肌と服に残ってしまっている。けれど、隠しきれそうもない。

「だ、大丈夫……。」

「っておい、肩から血ィ出てんぞ!」

気付いた不知くんが、驚いて目を見開く。続いて六月くんが、ひい、と怯えたような顔をする。どうしよう。なんとか誤魔化さないと……。

「あ、これ……ちょっと部屋で間違って赫子出して怪我しちゃって、ごめん、うるさかったよね……。」

自分でも、馬鹿みたいなことを言ってしまったと思った。けれど頭がパニック状態の私にはこの程度の誤魔化しが精一杯だ。

「俺、先生呼んでくる……!」

途端に大きな声で六月くんがそう言って、佐々木一等の部屋に走ろうとする。

「いいの!」

「っ……え?」

すかさず、その腕を掴んだ。なんとしてでも、このことは隠し通したい。

「その……さっき佐々木一等の部屋行ったら寝てたし、このくらいすぐ治るから!もう傷ふさがってるし…!。」

「で、でも……。」

心配そうに六月が私を見つめる。掴んだ腕が、少し震えている。

「お願い、このことは佐々木一等には言わないで。心配かけたくないの。……見なかったことにして欲しい。」

縋るように、二人に訴えかけた。すると彼らは顔を見合わせ、なんとも複雑な表情を浮かべる。

「……まぁ、そんなに言うならよ。いいよな、トオル。」

「うん……わかった。見なかったことにするよ。お大事にね。」

「……ありがとう。」

安堵でため息が出た。これでなんとか、今日のことは隠し通せただろう。私は踵を返し、ようやく自室の扉を開けた。そしてその扉を閉めた時、一気に力が抜ける。ずるずると、背を扉に引きずるようにしてその場にへたり込む。

そしてふと思い出される、最後の彼の言葉。「僕は消えるの?」私に向けられた怯えた眼差しと、悲痛に歪められた顔。彼はきっと、20年という空白の記憶を生きた、もう一人の彼なのだろう。彼はとても怖がっていた。自分がこのまま消えるのではないか、と。きっと彼は帰りたがってるんだ。それなら私は……これでよかったのだろうか。隠さずに、起こったことを話すべきなんじゃないか。でも、そうしたら佐々木一等が、佐々木一等ではなくなってしまうかもしれない。

私は、どうすべきなのだろう。仄暗い不安の中で思考を巡らすも、何の打開策も見当たらない。ふと、床に投げ出された青いアルバムに視線がいく。佐々木一等が苦しみ出す直前に見ていたもの。それはあの少年の写真だ。はっとして、私はアルバムからその写真を引き抜いた。夕陽の中で驚いた顔を向ける、あどけなさの残る少年。"彼"が言った、「久しぶり」という言葉。ああ、そうか、彼が…………。

そっとその写真を目線の先に持ち上げて、窓から差し込む光へと充てがう。夕陽が輝き出して、まるでそこの中にいるような、そんな気分になる。


「………君は誰なの?」


それなのにどうしても、目の前の少年の名は思い出せない。けれど私は知りたい。佐々木一等の、もう一つの名を。


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寝耳にミサイル