疑念



冷たく無機質な部屋はしんと静まり返り、窓から入る微かな光が塵を照らしていた。ぴんと張った糸のような緊張感が、息をすることすら躊躇わせる。目の前に置かれた上質な白い紙。そこに書かれた文字の羅列を、理解するのにそう時間はかからなかった。高貴な翡翠色をした万年筆を手に取り、私はその署名欄にインクを走らせる。菊池エリカ。用紙の向きを変え、そっと机に滑らせる。畏敬の念を抱きながら視線を目前に移すと、彼はまるで私を見透かすようにじっと凝視していた。

「何か不明点はなかった?」

「ありません。有馬特等。」

「……そんなに畏まらなくていいよ。」

言葉の割には淡々とした物言いだった。表情の無い顔は、何を考えているのか想像すらできない。有馬貴将。特等である彼の功績は、捜査官の憧れの的であり、目指すべき指標だ。私はこの人に、尊敬よりも深い恐れを抱いていた。不自然に色の抜けた白い髪と、全てを見透かすような目、感情の読めない顔。そして時々感じる殺気にも似た冷たい雰囲気が、どうも好きになれない。

「色々と遅くなってしまってすまない。君の処遇はこの通りだ。」

「はい。理解しました。暴走をすれば喰種として処分される、ということですね。」

「掻い摘むとそうだね。」

用紙を手に取って確認すると、彼は淡々と角印に朱肉をつけ、右端に捺印した。公的異種処遇同意書。その文書は、私は半喰種であり、その事実をCCG全体に公にし、暴走した場合は駆逐されることの同意を求めるものだった。これに署名した今日からは、付き添い無しの外出も認められる。

「琲世とは上手くやれてる?」

「……はい。」

唐突にそんなことを言われ、私は一瞬目を見開く。先日の佐々木一等の暴走が頭を過るが、そっと口を閉ざす。特等の口端が僅かに上がっているようにもみえるが、そうじゃないようにも見える。そんな表情で、彼は私を見据えていた。

「琲世は君の話をよくするよ。とても楽しそうにね。」

「そう、ですか……。」

佐々木一等は有馬特等をよく慕っている。彼からは度々、特等の話を聞いた。私のことをよく話す。そう聞いて嬉しい反面、なんだか複雑だった。特等は一体私をどう思っているのか。ただの捜査官か、それとも、、


「一つ、聞きたいことがある。」


そう言って、特等は机に両肘をついて手を組む。長い睫毛の奥の射抜くような瞳に、息が詰まり、脈は早まっていく。

「この前ラビットに襲われた時のことだけど、君はどう思う?」

「どう思う、とは……?」

「なぜラビットが君を襲ったのか。」

「それは……。」

嘘を突き通すのは、並大抵のことではない。特等を前に、心底それを思い知らされる。あの日に起きた出来事を、私は偽って報告していた。急に現れ、攻撃されたのだと。本当はラビットの顔を見ているし、見覚えすらあった。名を呼ばれ、彼は確かにこう言った「鳩に戻ったのか?」と。その意味深な言葉から、空白の5ヶ月間、やはり私とラビットの間に何かがあったのだと悟った。このことは誰にも言っていない。明かせるはずもない。目覚めたあの日からどうしても拭えないある考えが、私の口をそっと塞ぐのだ。5ヶ月間、私は半喰種としてアオギリ側に立っていたのではないかと。

なら何故戻ってきた?記憶が戻らない限り、そんなことを考えても無駄だ。けれど先日の佐々木一等の暴走によりこれだけは確信した。過去を明らかにすれば、自分はどうなってしまうかわからない。それなら思い出さなければいい。けれど、私の興味はいつの間にか、"私の知らない私"に向けられていた。

「襲いはしたが、殺さなかった。君はどうしてだと思う?」

「……わかりません。何も、思い出せないので。」

平静を装い、私はぴくりとも動かずに彼を見た。彼もまた、静止したまま私を見つめる。その視線に疑いの色が見えるのは、嘘をつき慣れていないせいだろうか。

あの時、致命傷を負わされたものの、ラビットは私にトドメを刺さなかった。そして彼は言った。「死ぬなよ。」と。寂しげなその言葉と、私の名を呼ぶ顔が忘れられない。5ヶ月間、自身の身に何があったのか。それを知りたい。喰種は憎い。けれど、私の目的は喰種を駆逐することではなく、失われた自分の記憶と、佐々木一等の過去を明らかにすること。その二つの危険な行為にすり替わった。それを遂行するには、殺されることに同意させる書面を突き出すような組織に、全てを打ち明けることが得策とは言えない。幸い、安易に晒してしまうほど、私は馬鹿ではない。


「……顔も見てない?」


不意に投げられた問いに、思わずぴくりと眉を動かしてしまう。その一言は、まるで突き立てられたナイフのように感じられた。今ので確信した。特等は私を疑っている。考えてみれば当然のことだ。薄々感じていた周りからの視線。見張られているような感覚。彼等と立場が逆なら、私はこう思うだろう。"本当に何も覚えていないのか?何故失踪した5ヶ月の記憶だけ、都合よく失くしている?もしかしてこの女は、喰種に送り込まれたんじゃないか"、と。

「……はい。以前に口頭と書面でも報告した通り、マスクをしていたため顔は見ていません。」

「すまない。詮索するようなことを言ってしまったね。」

「いえ。お気になさらず。」

今更何を、と内心で毒を吐く。彼は信頼できる人物か否か。そんなことはもう明白だ。記憶をなくしている佐々木一等にはわからないだろう。局の人間が喰種に抱いている感情がどのようなものか。私には痛いほどわかる。一線を越えた存在になった以上、もう人間としては扱われない。喰種と同じようなものだ。何かあれば殺される。ここには私の味方などいない。信頼できるのは自分だけだ。

「私からも一つ、いいでしょうか。」

「……何?」

微動だにしない無表情が少しだけ驚いた顔に変わり、特等は椅子に深く腰掛け直した。そちらがその気なら、私にも気になることがある。先日の一件から佐々木一等について調べ始めたが、どうも謎が多すぎるのだ。

「佐々木一等についてです。彼は嘉納医師の喰種化実験の被害者で、人間だった頃の身元は不明と聞きました。」

「そうだね。」

佐々木一等について公にされているのはこのことだけだ。本人ですら、自分が何者だったのかわからないのだから。しかしどうも引っかかる。身元不明というのはおかしくないだろうか。人間が喰種になったのだから、それこそ年齢に見合う行方不明者を探せば簡単に身元などわかるはず。いつ半喰種になったにしろ、20歳以下の人間が行方不明になればそこそこ騒ぎにもなる。それに佐々木一等がCCGに保護されるまでの経緯も謎だ。そもそも都合よく記憶を失った半喰種を見つけるなんてあり得ることなのか。考え抜いた先に、私は確信した。一部の人間しか知らない、何か隠された情報がある、と。


「彼が記憶を失って捜査官になった経緯を、特等はご存知ですか。」


あまりにも直球すぎる、漠然とした疑念を込めた問いだった。そしてその瞬間、ほんの微かに、有馬特等の口端が上がるのを見た。

「そんなに琲世が気になる?」

「……はい。」

「でも君は、自分の心配をした方がいい。」

案の定質問は濁され、それきり彼は口を閉ざす。"自分の心配をしたほうがいい"なんだか意味深で、不気味な言葉に感じる。けれども懲りずに、私はまた口を開く。

「彼は……どんな人だったんでしょう。」

「それは俺にもわからない。けど、本は好きだったんじゃないかな。」

今度は無難な言葉が返ってきて、私は押し黙る。何を言っても、無意味な気がした。そもそもこの人に質問をすること自体が、愚弄なのだ。

「……くだらない質問をしてすみません。失礼します。」

一礼し、踵を返して広い部屋を後にした。何にせよ、知りたいことは自力で調べるのみだ。


「君には期待しているよ。」


ヒールの音が響く中、ふと背中にそんな言葉を聞いた。もはや特等の言葉すべてが、意味深で謎めいたものに感じられる。思わず拳を握りしめ、ぎゅっと口を結ぶ。心なしか足取りは早くなり、急げ急げとドアへと導く。


「菊池二等。」


大きなドアの取手に手をかけた時、不意に呼ばれて私の肩は僅かに揺れる。恐る恐る振り向くと、特等はじっと私を見据えていた。

「なんでしょう。」

「今日からは一人で外出できるね。」

「……はい。助かります。」

一体何の意味のある会話なんだ。訝しげに見つめれば、射抜くような視線に刺されてしまう。


「君はまずどこへ行きたい?」


何かを試されているかのような言葉に、一瞬固まってしまう。けれど返す言葉がすぐに見つかって、私はそっと微笑んだ。そして心の中で誓う。必ずこの手で、全てを解き明かしてみせると。


「そうですね……。たまには一人で母校の中学にでも行って、思い出に浸ろうかと。」

「……そう。楽しんで。」


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寝耳にミサイル