罅割
コツン。自信のなさげな頼りない音が、白黒のチェスボードに小さく響いた。ごくん、と唾を飲み込み、恐る恐る私を見上げる不知くんには悪いが、考えるまでもない愚劣な一手だった。すぐさま黒のクイーンをすっと滑らせると、彼は大きく目を見開く。途端に、それを見ていた面々は一斉に嘆息を漏らすのだった。
「……シラギン弱っ。」
「うるせェこっから挽回すんだよ!」
「もう終わると思うよこれ……。」
初めて住人全員が揃ったシャトーのリビングでは、チェス大会が繰り広げられていた。ソファに腰掛ける私の膝には、彼女、米林才子が無遠慮に上半身を乗せている。彼女とは初対面のはずだが、そう思わせない奔放っぷりには驚くばかりだ。脚を圧迫するずっしりとした重み。少し、減量が必要かもしれない。
「チェックメイト。」
「げっ!」
ものの2分足らずで終わってしまった初戦を横目に、ソファの端に座っている瓜江が盛大なため息を吐く。私の隣に座る佐々木一等も、さすがに苦笑いだ。
「負けた……。」
「シラギンしっかり〜〜。」
「そもそもルールわかってる……?」
向かいで項垂れる不知くん。その隣に座る六月くんですら、フォローする気がないようだ。
「じゃあエリカちゃんの勝ちね。次は六月くんと才子ちゃん。」
コピー用紙に無造作に描かれたトーナメント表に、佐々木一等が線を引こうとペンを構える。しかし彼の言葉に不知くんがぴくんと不自然に動くので、その動作は止まった。
「……不知くんどうかした?」
「…いや、サッサン、エリカさんのこと名前で呼んでんなーって。」
ぴたり。私と、それから佐々木一等の動きが止まる。最近、彼は私のことを名前で呼ぶようになった。特に断りもなく、ごく自然に。不快に思うこともなくむしろ嬉しかった私もまた、特に何も言わずにそれを受け入れていた。
「私が名前で呼んでって言ったの。」
「ヘェ……。」
咄嗟に助け舟を出すと、佐々木一等は私を一瞥した。私たちが恋人であることは、彼らには隠している。だから少し慌てたのかもしれない。けれど名前で呼ぶくらいはどうってことない。才子ちゃんだって名前で呼ばれているのだから。平然と微笑んでいると、不意に左手に何かが当たる。すぐにそれが何なのかわかって、私ははっとした。佐々木一等の右手が、さりげなく私の手に重なったのだ。誰にも見えない、死角になっている私と彼の間で。上から重なった彼の手の指が、私の指にそっと絡まる。どきりとしながらも、視線は向けずに会話を続ける。彼は時々、こういうことを仕掛けてきたりするから狡い。
「だんだんと距離が縮まって…ってヤツですな。」
「テメーは近すぎなんだよ才子!初対面だろーが!」
「ねぇさんの膝落ち着く……。」
そう言って、才子ちゃんがすりすりと私の膝を撫でる。彼女は人の懐に入るのが上手いと思う。さりげないボディタッチなんかも、彼女がやると自然だ。こういうタイプの子は周りにいた試しがない。なんだかペットみたいで可愛らしい、憎めない子だ。思わずその長い髪の毛を撫でると、何故か隣の佐々木一等がそれを見てくすりと笑う。
「……何ですか?」
「いや、エリカちゃんが最初に来た日のこと、思い出しちゃって。」
「なになに?教えてママン!」
突然佐々木一等がそんなことを言い出すので、私は焦った。ここに来たばかりの私なんて、態度も悪いし酷い有様だったはずだ。嫌な予感がする。
「名前で呼んでいい?って聞いたら、"名前でなんて呼ばないでよ、上司と部下なんだから苗字呼びでしょっ!"って言われちゃったんだよね。」
案の定、眉を顰めて口をへの字に曲げた彼に、わざとらしく誇張されてしまう。
「わお…!ねぇさんキツいっすな。ツンデレ?」
「そんな言い方してないし、そんな顔もしてません!」
そう言って睨みつけてやったのに、佐々木一等は楽しそうに笑うばかりだ。この人は真面目に見えて結構、ふざけたりもする。最近はくだらないジョークまで言い出すようになったので厄介だ。
「でも瓜江くんとエリカさんは先生のこと、未だに"佐々木一等"って呼ぶよね。」
「あー確かに。」
「じゃあ私も変えようかな、呼び方。」
六月くんの言葉になんとなくそう言ってみせ、ちらりと横目で瓜江をみる。すでにこの団欒に飽きてしまったらしい彼は、こちらに興味無さげに音楽雑誌を読んでいる。
「……俺は変えない。」
雑誌越しにぼそりとそれだけ言った彼に、六月くんが苦笑する。予想していた通りの反応だ。一方の私は佐々木一等にそっと向き直り、その目を見ながら口を開く。
「サッサン。」
いつも不知くんが使っている、フランクなあだ名を口にしてみた。すると佐々木一等の顔が、悩ましげに歪められた。
「うーん、なんかしっくり来ない?ような?」
そりゃそうだろう。私は普段、上司をあだ名で呼ぶようなキャラじゃない。
「じゃあ………せんせい。」
次は少しゆっくりと、上目づかいで言ってみせる。実はこの呼び方、一回やってみたかった。
「うおお…!なんかこう…犯罪臭しねェか?」
「禁断のアレだね。」
興奮した様子の不知くんと才子ちゃんに、私は苦笑する他ない。佐々木一等はといえば、手で口を押さえて難しい顔をしていた。彼のこの仕草はよく見かける。良からぬ妄想を打ち消そうとしているとみた。
「じゃあ普通に佐々木さん。」
「言いにくくねェか?ササキサン。」
「確かに……。」
考えても、あまり良いのが見つからない。本当は琲世さんと呼びたいところだが、それだとなんだか男女の関係を匂わせるような気がして、普段呼びには躊躇われる。
「……なぁ、"琲世先生"ってヤバくねェ?」
唐突に、不知くんがはっとしたように呟く。途端に、瓜江を除く全員がぴたりと動きを止めた。
「ハイセセンセイ……?」
「ハイセセンセイ!!!」
「あはっ、言いにくすぎ、!」
才子ちゃんが大声で戯けて見せるので、私は思わず吹き出して笑ってしまう。そしてそれに吊られるようにして、不知くんたちも笑い出す。なんだか呪文みたいな語呂だ。
「ハイセセンセーー!!」
「僕の名前で遊ばない!」
ぴしゃりと言い放って、佐々木一等が才子ちゃんの頭を軽く叩く。けれどそんな本人の口元も、笑いを堪えるようにぴくぴくと動いている。
「で、どうすんだ?」
目に薄っすらと笑いの涙を浮かべた不知くんが、私に問いかける。もう一度考えてはみるが結局、今まで通りでいい気がした。
「いいよ。佐々木一等で。上官だし。」
「え〜〜いいのママン?」
「エリカちゃんに任せるよ。」
「"佐々木一等"。」
「ありゃ……。」
残念そうに眉を下げる才子ちゃんに、私と佐々木一等は苦笑した。なんだかこんな風に、数人で楽しく話す場を持つのは久しぶりだ。最初は嫌だなんて思っていたけれど、今はこの場所が自分の居場所であるように感じる。
「あ、そういえば。エリカちゃん宛に荷物届いてたよ。なんか大きいやつ。」
思い出したようにそう言って、佐々木一等が玄関に続く廊下を指差す。見れば廊下へ続く手前の壁に、長細い大きな段ボールが立てかけられていた。
「え!もう届いたんだ。姿見買ったんですよ。無くて困ってて……。」
2日前に注文したのを、すっかり忘れていた。途端に才子ちゃんが女子力が高いだのなんだの騒ぎ出し、俺の部屋にも欲しいと不知くんが佐々木一等に駄々をこね始める。すると、そんな彼らを横目にため息を吐いて、瓜江がそっと立ち上がった。とうとう嫌気がさしてしまったらしい。颯爽と2階へ続く階段へと歩き出してしまう。
「あ……オイ、瓜江!」
「…………なんだ。」
慌てて不知くんが呼びかける。けれど無表情だがどこか不機嫌そうな瓜江に、彼は怯んだようで間が空いてしまう。
「……上に行くならついでに持って行ってやれよ、アレ。重いだろ。」
引き留めるのは諦めたようで、立てかけられた段ボールを指差してそう言った。けれどその言葉に、私は顔を顰めてしまう。 それなりに捜査官としてやってきた精神からか、力のない女として扱われるのはどうにも苦手だ。それにあのくらい運ぶのはどうってことない。
「大丈夫。あれくらい運べるって。」
「けどよ……。」
「不知三等。」
「あ?」
唐突に、瓜江が不知くんを呼んだ。そして何故かその視線はゆっくりと私に向けられ、少しだけ目が細められる。冷んやりとした、鋭い視線だった。
「菊池二等は力持ちだ。……佐々木一等を、持ち上げられるくらいに。」
ガシャン。気づくと、硝子の割れるけたたましい音が鳴って、足に冷たい液体が飛び散るのを感じた。光る破片とじわじわと床に流れ出す液体を、私は唖然として見つめた。手に持っていたアイスコーヒーの入ったグラスを、落としてしまったのだ。けれど私が気を置くのはそこではない。どうしよう。どくんどくんと、心臓の音が高鳴る。瓜江に、先日の出来事を目撃されていた。佐々木一等を部屋まで運んだ時、最初こそ確認はしたものの、最中は無我夢中で背後など見る余裕は無かった。見られてしまったのだろう。意味深な言い方からして、今の言葉は彼の遠回しな宣言だ。「俺は見ていた」そう言ったのだ。
「わっ!エリカちゃん大丈夫!?」
「……ごめんなさい。」
「俺、拭くもの持ってくる!」
「うぎゃーー冷たい!!!」
「瓜江!テメェが失礼なこと言うから!」
「……悪気はなかった。」
瓜江がぼそりと呟く。悪気はない?悪意しかないの間違いだろう。皆が慌てて動き出す中、私は冷静に頭を回そうと深呼吸する。目撃されたにしろ、佐々木一等には伝わっていない。まだ言っていないのだろう。弱味を握っていることを、さり気なく示唆したというところか。
片付けが済み、再びリビングには賑やかな声が響く。けれど私は談笑を聞くにも、身が入らずどこか虚ろげになってしまう。それもこれも、私が隠し事をしているせいだ。大事な人に嘘をついているという罪悪感が、これほどまでに胸を抉るとは思わなかった。会話に相槌を打ちながらも、私はどこかで違うことを考える。唯一安心させてくれるのは、隣で微笑む彼の横顔だけだ。
◇
「さっき大丈夫だった?」
「あ……はい…、すいませんでした。」
とっくに日も暮れて23時すぎ。皆部屋に戻ったのだろう、静まりかえる1階のリビングダイニングで、思いがけず佐々木一等に遭遇する。慌ててしまい、私は言葉を詰まらせた。それもそのはず、こっそりと外出しようと、足を忍ばせて玄関へと向かう途中だったのだ。
「瓜江くんなら叱っておいたから。」
「いえ、彼は悪くないですよ。」
佐々木一等や不知くんたちはきっと、瓜江が失礼なことを言ったために私がグラスを落としたとでも思っているのだろう。本当は違うけれど、そう思わせておく他ない。
「怪我しなくてよかった。」
「しませんよ。だって……こんな身体だもん。」
自嘲気味に笑うと、彼は悲しそうに微笑む。何を言ってるんだろう。こんな顔をさせたいわけじゃないのに。
「……どこか行くの?」
心配そうに、どこか不安げな目が私を見据える。スウェット姿の佐々木一等とは反対に、私はラフなシャツに、下はスキニーパンツを穿いている。外出しようとしていることはバレただろう。本当は彼に不安など持たせたくない。私は罪悪感に苛まれながら、朧げに笑った。
「少し一人になりたくて。夜風にでも当たろうかと。」
「こんな時間に危ないよ。」
「……人の膝を砕くような女ですよ?」
「エリカちゃん、」
ふと、少し強引に腕を掴まれ、頬に手が添えられる。指の背で優しく愛でて、伏せ目が切なげに私を見下ろす。どこにも行くなと、そう言われているような気がした。
「すぐ戻ってきます。"琲世さん"。」
私はそう言って、彼の唇の横にそっと短くキスをした。そのまま踵を返して行こうとしたのに、掴まれた腕は引き寄せられ、唇に柔らかな感触が降りてくる。一度で終わるかと思いきや、二度三度と唇が触れ合った。
「……ずるいですよ。」
「お互い様。」
柔らかく微笑む彼のその表情に、安堵して私もそっと微笑む。ご丁寧に玄関まで見送ってくれる佐々木一等に、行ってきますと囁いて、私はシャトーを後にした。それからは逃げるように、足早にコンクリートを歩いた。外灯だけが頼りの静かな夜道に、ポケットに入れた鍵のしゃらしゃらと揺れる音が響く。はぁ、と一つため気を吐いて、私は俯いた。あともう少しだ。目的地に向かい、ただひたすら歩き続ける。嘘をついた後ろめたさを、背後に感じながら。
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寝耳にミサイル