秘事
「金木……研。」
ぼそりと、私はその名前を呟いた。薄暗い殺風景なワンルームに置かれた、大きなホワイトボード。その真ん中に、彼がいた。微笑む黒い髪の少年の写真は、コピーしたせいか画質はあまり良くない。そこからはいくつも線が伸びていて、様々な情報が書き込まれ、写真が貼られている。シャトーから徒歩十分圏内にあるマンションの一室。秘密裏に借りたこの部屋で、真夜中、私は情報を整理する。
「こんなの……ストーカーみたい……。」
自嘲気味に笑って、私は新聞の記事にハサミを通す。東京20区で、19歳の大学生が行方不明。名前は金木研。佐々木一等の、もう一つの名前だ。ここまで特定するのに、1週間もかからなかった。捜査の名目で母校を訪ねれば、簡単に卒業アルバムが手に入る。自分より2年早い卒業生たちの中に、あの少年がいた。彼は県内上位の高校を経て、大学は上井大学。2013年の9月頃、大学一年生で行方不明になっている。今のところわかったのはそこまでだが、彼の大学の同級生に聞き込みをすれば、さらに色々とわかってくるだろう。
「……今日はここまでかな。」
時計は深夜の3時すぎを指していた。一つため息を吐き、切り取った新聞の記事をホワイトボードに留める。そして大きく伸びをして、おもむろにベランダの扉を開く。夏に向けた生ぬるい風が体を撫で、都会の湿った埃の匂いがすっと鼻に通る。手摺に寄りかかり、5階からの眺めを見下ろした。どうってことない、灰色の建物が立ち並ぶ景色。夜中だからか外灯ばかりが目につく。私はある一点をじっと見つめ、気の抜けたように息を吐く。ここから小さく見えるシャトー。当然、明かりはついていない。皆寝ているのだろう。
「狭い新居だな。」
「……っ!!!」
唐突に聞こえた声に、私は息を止める。ベランダの端の手摺に寄りかかる、黒い髪の青年。ラビットだ。マスクをつけていない素顔が、私をじっと見つめている。それを視界に捉えた途端に、気怠さなどは吹っ飛び、目は見開き体は硬直する。それから1秒しなかったと思う。自衛心と恐怖心で体は反射的に動き、彼の首元へと手が伸びた。けれどそれは見事に交わされ手首を掴まれてしまう。負けじと腕をひねり、掴まれた手首を折ろうするが敵わない。そのまま素早く腕を後ろに回され、床にうつ伏せに押し倒される。またか。ひんやりとした、冷たい床の感触。あの時の鋭い痛みが戻ってくるようだった。恐怖で打ち震えるのに、虚栄からか震える唇は勝手に動き出す。
「……あんた私のストーカーなの?」
「人のこと言えねーよな。」
背後から聞こえる低く抑揚のない声。彼の声が耳を通るたび、ずきりと頭痛がする。けれど以前ほど酷くはなく、目紛るしい記憶の残像も浮かんでこない。今度こそ殺しにきたのか。そう思ったが、こんなところまで着けてくるくらいなら夜道で殺せたはずだ。
「手を出す気はない、大人しくしてろ。でないと首を折る。」
耳元に口を寄せ、彼はそう囁いた。行動の真意がわからない。まさかまた拉致でもされるのだろうか。その考えに行き着いた途端、私は力の限りで床を押し、頭を振り上げた。幸い彼の頭に直撃し、隙ができたうちに部屋の中へと駆け込む。ラビットは羽赫だ。狭い場所の方が勝算がある。急いで床に置いてあるクインケへと手を伸ばす。けれど、間に合わなかった。
「馬鹿みてーに正義ぶって犬死か?」
その声とともに、背後から首を掴まれる。そしてそのまま再び床へとうつ伏せに叩きつけられた。思い切り力を入れられ、首の骨が軋んで息すらままならない。素早さも力も負けている。これでは勝てそうにもない。苦しみで呻き声を上げると、掴まれた手は緩まれ、また耳元へと唇が降りてくる。
「……よく考えろ。お前は俺には勝てない。」
「このまま大人しくするくらいなら……死んだ方がマシ。」
「鳩の鏡だな。」
鼻で笑われ、次に布の擦れる奇妙な音が聞こえ出す。そしてカランという乾いた音とともに、私の顔の横に何かが投げ落とされた。黒い、仮面のような何かだ。
「これを、お前に返しに来た。」
片手で掴んで、彼は私にそれを見せる。顔全体を覆う黒いマスク。片目だけくり抜かれており、もう片方には青いスワロフスキーで目が描かれている。上部には耳と思われる突起が二つと、動物を模した低めの鼻と口。猫、のように見える。
「何……?」
「お前のものだ。自分の身は、自分で守れ。」
なぜ、そんなことを言うのだろう。混乱すると同時に、あらゆる可能性が頭に浮かぶ。喰種が被るようなマスクだ。もしかして私は空白の5ヶ月、とんでもないことをしていたのかもしれない。人を、殺したのかもしれない。不安と混乱で目頭が熱くなる。これが私のものだというのなら、私は、
「……知ってるなら教えてよ。」
知りたくない。けれど知らなければいけない。私はぐっと歯を食いしばり、眉間に皺を寄せて、こみ上げてくる嗚咽に耐えた。
「知りたいの。私の知らない、私のこと。」
震える声で、縋るようにそう言った。ぴくり、と首を掴む彼の指が動く。そして意外にも、ゆっくりとその手は放された。次は何をされるのだろう。しかし、沈黙が続くばかりで何も起きない。私は恐る恐る、顔をそっと上げた。すると、気の抜けたような、切なげな顔をした彼と目があった。薄暗い闇の中で、少しだけ口端を上げて目を細め、自嘲気味に笑う。私は驚いて、ただ目を見開いて彼を見つめた。
「……お前やっぱ、髪長い方が似合う。」
ふと伸ばされた手が、私の髪の毛を掬い、さらさらと指の間をすり抜けていく。
「え…………?」
思わず声を漏らすと、すぐさま音もなく、視界から彼が消えた。はっとして視線をベランダへと移す。黒い残像が、手摺のあたりに見え、そしてまた消える。急いで立ち上がり、私は走った。けれどもう遅い。ベランダに出て下を見渡すも、そこにラビットの姿は無かった。追ったところで、見つかりそうもない。諦めてとぼとぼと部屋に戻り、床へとへたり込む。彼は、私の過去を教える気など無いらしい。その癖こんなものを渡してくるのだから、全く、何を考えているのか想像もつかない。床に落ちたそれを拾い、隅々まで観察する。そしてあるものを見つけ、私は眉を顰めた。マスクの裏の下部に、「CAT」という文字が小さく刻まれている。
「キャット……?」
私は首を傾げ、顔を顰めながらその文字を指でなぞった。そして恐る恐る、それを自らの顔に当てる。案の定、額から顎までぴったりとサイズが合っていた。頭に回すように付けられている、血のような赤色をした細いベルト。それもまた、丁度良い長さに調節されている。ふと立ち上がり、私はクローゼットの扉についた、細長い姿見の前に立つ。そこには、闇に溶けるようにぼんやりと立つ、喰種の姿が写っていた。
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寝耳にミサイル