憫然
それからレジで会計を済ませ、帰路に至る今の今まで、彼女はずっと無言のままだった。ぼっーとどこか下の方を見ながら、気怠げに歩く。互いにビニール袋を一つずつ持ち、二人の間の手は空いている。いつもならどちらともなくその手を握るのに、今日は空を切るだけだった。どうしてしまったのだろう。肌を突き刺すような日光を浴びながら、僕はなぜかあの晩のことを思い出していた。一ヶ月ほど前の夜中、血を浴びて帰ってきた彼女に、我を忘れて行った行為の数々。次の日に見た悪夢の中、彼女が言い放った「大嫌い」という言葉。
「僕のこと嫌いになった?」
「……はい?」
不安から、つい口に出てしまった言葉に彼女が驚く。仕事中は平然としながらも、あれから一ヶ月間、不安だった。彼女が僕を、どう思っているのか。
「この生活、嫌じゃないかなって。」
「……そんなこと。」
「あの時は、ごめん。」
今更蒸し返すのもどうかと思う。けれど今、なぜかそう言わずにはいられなくなった。
「君のことが心配で、それで……」
何を言っているんだろう。言い訳のようにぺらぺらと、今更。そんな自分に呆れて言葉を詰まらせていると、彼女は悪戯に笑った。
「それで……おかしくなっちゃいました?」
「…………ごめん。」
「気にしてません。」
またあの時のように、彼女は清々と笑う。そうやって何事にも気丈に振る舞う姿は、捜査官の鏡だと思う。けれど僕くらいには、もっと弱味を見せて欲しい。言いたいこともぶつけて欲しい。そして頼って欲しい。彼女の唯一の存在でありたい。
「エリカちゃん、」
「……なんです?」
「全部話してとは言わない。でも、悩み事があれば話して欲しいし……信頼して欲しい。君はあまり人に頼らないタイプだから、心配なんだ。」
言えば、彼女は少し嬉しそうに微笑んで、僕に肩を寄せた。
「私は琲世さんが心配なだけ。」
「やっぱり頼りない……?」
思わず顔を顰めて彼女を見ると、なんとも言えないような表情をしていた。
「……それより暑すぎません?さっき買ったコーヒーアイス食べてもいいですか。」
「話題逸らしたね……。」
彼女は買い物袋からアイスを引っ張り出して、器用にビニールを破った。これなら食べられるかもしれないと買ってきた、コーヒー味の棒アイスだ。緊張した面持ちで、恐る恐る口元へと持って行き、先端を一噛み。なんだか僕まで緊張する。ゆっくりと咀嚼するものの、だんだんとその顔が険しくなっていく。
「うッ……おえっ!」
すると突然、女性らしかぬ声を発しながら、彼女は歩道脇の側溝へと駆けていき、そこにしゃがみこんだ。何をしているのかは悟った僕は、半笑いになる。職業が相まってか、たまに彼女は女性らしさを捨てる時がある。どうやらアイスは相当不味かったようだ。
「…………エリカちゃん。」
「全然ダメだ……。」
そう嘆いて落ち込む彼女の背中を、優しく摩った。市販のものはコーヒー以外の乳成分やらなんやらが入ってるから、やっぱりダメなんだろう。
「僕が何か作ってあげるよ。コーヒー凍らせて、カキ氷にする?」
「え、やった!」
嬉しそうにする彼女を見て、どこかほっとした。それからまた少し無言が続いたが、前とは違ってごく自然な、安心のできる時の流れだった。10分ほど歩いて小さな公園の角を曲がると、自転車に乗った子どもたちとすれ違う。わいわいと楽しそうに騒ぐ声が、近所中に響き渡った。するとその音に紛れて、小さく彼女の声が聞こえ始める。
「さっきからずっと考えてたんです。」
「……ん?」
「もし、琲世さんと私、普通の人間で、普通の仕事してたらどんなかなって。」
彼女が急にそんなことを言い出すので、思わず足を止めそうになった。驚く僕を他所に、彼女は次々に喋り出す。
「琲世さんは金融系のサラリーマンで、私はその会社の受付嬢。」
「受付嬢かぁ……お淑やかさが足りないかも……。」
つい出てしまった本音に、彼女から軽い肘鉄を食らう。言われて想像してみるものの、なんだかイマイチしっくり来ない。特殊な環境に慣れてしまったからだろう。
「多分琲世さんは優秀な若手社員で、女性にモテモテ。受付嬢を片っ端から食いつくして」
「ちょっと待って、なんかおかしいな。」
「……っていうのは冗談ですけど。」
そう言って笑いながらふざける彼女だったが、急にその表情が暗くなる。けれど一呼吸置いて、またゆっくりと喋り出した。
「普通に出会って、デートとかして……仕事帰りに一緒にスーパーへ行って、夕飯の買い物するのかなって。でも私は料理苦手だから、結局琲世さんが作るの。」
「……今とそう変わらないんじゃない?」
慰めとばかりにそう言えば、彼女は少し眉を下げて、悲しそうに笑う。急に遅くなった足取り。少し心配になって、彼女を見る。彼女もまた、僕を見つめていた。
「おいしい?って聞かれたら、おいしいって言って。子ども好き?って聞かれたら……いつか欲しいなって答える。」
急に足が、動かなくなる。止まる僕に、彼女も数歩後に止まる。柔らかく、どこか切なげに笑う彼女の髪を、生緩い風が揺らした。もし、普通の人間だったら。僕は多分将来、迷いもなく、彼女の薬指に合う指輪を探すと思う。毎日彼女に美味しい料理を作って、一緒のベッドで寝る。数年後には、これ買ってと、駄々をこねる子どもをあやす彼女見て、僕は笑う。あまり困らせないであげて。彼女によく似た綺麗な目を見て、きっとそう言う。
「琲世さん。」
ふと呼ばれて、現実に帰る。少し先に立つ彼女が、そっと空いた手を伸ばした。僕は感触を確かめるように、その手の指を掴む。温かい。数年先も、こうして彼女の手に触れたい。けれど、不意に突きつけられた現実と不確かな未来に、胸にぽっかりと穴が空き、その中に、不安だけが渦巻く。そんなもやもやとした感情が、晴れやかな空に不釣り合いで、笑ってしまいそうだ。僕はやっと歩き出して、彼女もそれに続く。少し沈黙が続いて、焼けたアスファルトの熱気が、足の表面を撫でるのを感じた。太陽がじりじりと肌を刺して、蝉の声が忙しなく響く。公園から聞こえる子どもの声。すぐ横の民家のベランダで、風鈴が音を鳴らして揺れている。目の前の空は、どこまでも青い。
「あついですね……。」
「…………そうだね。」
中途半端に絡んだ指が、今にも逸れそうだった。
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寝耳にミサイル