陽炎
柔らかな肉が見える。前を歩く、気怠げな人の後ろ姿。ワイシャツの襟の上から黒い髪の下まで。ほんの少しだけ見える、首の皮膚。薄い膜越しに青く見える血管、太陽に照らされてちらちらと光る産毛。頭皮から滴る汗は、まるで旨味を添える肉汁のようだ。夏真っ盛りの鬱陶しい天気なんて、どうでもいいとすら思えた。ゆらゆらと、目の前の光景が溶けていくように感じる。何かが私を乗っ取って、後ろから、その首に噛み付いてしまうんじゃないか。そんな危うさを感じていると、気づけばいつも通り、局の自動扉を潜っていた。肌に伝わる冷房の冷たさにはっとして立ち止まり、二度、三度と瞬きする。すると肩に乱雑な衝撃が数回、次に謝罪の言葉と舌打ちが入り混じり、背後から人が次々に私を追い越していった。
「おい。」
ふと肩を掴まれ、びくりとして振り返る。見れば心配そうに眉を顰めたアキラさんが、こちらを見つめていた。
「こんなところで立ち止まるな。どうした?お前らしくもない。」
言いながら、彼女は私の肩に手を回して前へと進めた。そしてそのまま流れるように歩き、エントランスのソファへと座らされる。その間、どこかぼっーとしていた私は、肩にかかる彼女の手がやけに気になった。柔らかそうな白い肌、少し脂がのって、若くて香りの良さそうな肉。触れた手が温かい。中に流れる血液も、きっと甘くて温かくて、新鮮で、格別なんだろう。
「エリカ、どうした?何かあったか?」
「……アキラさん…おはようございます。」
どこからか沸き上がる欲求を必死に堪え、私は慌てて笑顔を作り、アキラさんの目を見た。すると彼女は案の定、不安げな顔をして私の隣に座り込む。
「お前……大丈夫なのか?」
「ちょっとぼっーとして……。夏バテみたいです。」
随分と嘘の上手くなってしまった私は、気怠げに額に手を当てて、項垂れてみせる。するとアキラさんは、どこか安心したような、呆れたような様子でため息を吐いた。
「そういえばお前は夏が苦手だったな。」
「はい。外が暑かったもので。」
「琲世はどうした?」
「今朝は有馬特等に用事があるそうで、早くに出て行きましたよ。」
「……そうか。」
緩く微笑んだアキラさんが、私の肩をぽんぽんと叩く。脱力していた体が、ゆらゆらと頼り無さげに揺れた。
「シャトーでの暮らしはどうだ?」
「楽しいですよ、とても。」
「赫子には慣れたか?」
「…………。」
赫子。カグネ。何気のないやり取りなのに、その言葉を聞いた途端、私は息を詰まらせてしまう。貼り付けていた笑顔も、不意に剥がれて消えてしまった。
「……すまない。禁句だったか。」
「いえ。出せることは出せるんですが、あまり使いたくないので……。クインケの鍛錬を続けてます。」
ぴくりと、背中の辺りが疼いた。額に汗が滲む。ぐりぐりと皮膚の中を硬いものが押し上げて、ついに背を突き破って、悍ましい触手の数々が、横にいる彼女の首を呆気なく飛ばす。そんなシーンが鮮明に脳裏を流れた。
「それを聞いて安心した。お前は人間だ、お前らしく生きろ。」
優しく微笑み、アキラさんが私の頭を撫でる。その言動に、以前の私なら救われたのだろう。けれど今は、慰めのための、陳腐な行為にしか思えない。私は人間なんだろうか。不意に視界に入った、彼女の手。それは私のものとよく似ている。指の数も長さも、色も肉感も爪の形も骨の出方も、同じようなものだ。それなのに、私の手はちっとも、美味しそうには見えない。
「そうですね、………私は、」
言いかけたところで、突如、只ならぬ音を聞いた。爆発音に似た、素早く弾ける音。聞き覚えのあるそれは、まさしく銃声そのものだ。
「なんだ……!?」
局内エントランス奥、数メートル先の受付付近から聞こえたその音に、一斉に辺りが騒がしくなる。一目散に逃げていく一般人や事務員。対照的に、私を含むその場にいた数人の捜査官が即座に身構える。女性の悲鳴が聞こえ声のする方を見れば、受付のすぐ横に、中年の男性が立っていた。Tシャツに短パンのラフな格好。無精髭の生えた強面の、筋肉質な男だ。懐には細身の女性が捕らえられており、頭に銃を突き付けられている。
「お前らが無能なせいで、俺の家族は死んだ!!」
男は声を高々に叫び、持った銃を2、3メートル先に立つ若い男性捜査官へ向ける。確か彼は3等捜査官だ。銃を向けられ慌てたのか、右手がクインケのケースへと伸びる。
「紀田、やめろ!人質がいる!」
「っ……しかし…!」
捜査官に向かい、アキラさんが怒鳴る。言動から、男は喰種事件の被害者であることが伺えるが、見覚えはない。どうするべきか。不思議と緊張や焦りは生まれなかった。ここにいるのは全員人間だ。何があろうと自分が負傷することはない。
「全員床に伏せろ!!」
狂ったような怒鳴り声に従い、私を含むその場にいた6人の捜査官がそっと床に伏せる。まずい。そもそもなぜこの男は銃を持っているのだろう。そして一体、何が目的なのか。
「鉢川を今すぐ連れてこい!でないとこいつを殺す!!」
鉢川、その名前を聞いた途端、どこか合点がいった。鉢川捜査官は任務上で一般人被害者を多く出している。目的のためなら手段を選ばない人だ。どうやら恨みを買ったらしい。が、こんなことは前代未聞だ。CCGもまさか喰種ではなく人間に襲われるとは予想もしなかっただろう。
「鉢川准特等が担当した件の被害者遺族でしょうか。」
「ああ……まずいな。警備は何をしてる。」
「倒れてます、そこに。」
辺りを見渡せば受付と入口扉の付近に、制服姿の男が2人、倒れていた。彼らもそこそこ実績のある、元警官職の人材だったはずだ。それがなぜ、いとも簡単に倒されているのか。男に視線を移し、上から下までじっくりと観察した。するとベルトに挟んだあるものを見つけ、私はアキラさんにそっと耳打ちした。
「見てくださいあの人のベルト。バッチがある。……警察官ですよ。」
「なるほど……厄介だな。人質が捜査官ならまだしも、事務員か……。」
「殺すわけにもいきませんね。」
「ああ…銃を持った人間相手ではな……。実に馬鹿馬鹿しいが、警察を呼ぶしかなさそうだ。」
不意にアキラさんが、男の斜め後ろ、ちょうど死角になっている受付奥の廊下へ、そっと合図を送る。見ればすでに多くの捜査官が廊下へ待機し、時折こちらの状況を覗いて確認している。あれだけの銃声だ。じきに局内にいるほとんどの捜査官が駆けつけるだろう。
「背後から射撃しては?」
「人質が危険だ。警察を待つ。」
「おい!何喋ってる!!」
男の銃が、不意にアキラさんに向けられる。さすがに焦り、しゃがみつつも素早く彼女の前へ出た。私が撃たれる分には構わないが、アキラさんは人間だ。下手に撃ち抜かれては死んでしまう。慌ててアキラさんが私の腕を掴んで引き戻そうとしたところで、またしても銃声が一発。撃たれたか。身体の芯まで揺れるような鋭音に目を伏せたが、どこにも異常はない。代わりに聞こえ出した女性の悲鳴。見れば、人質の女性の二の腕が赤く染まっていた。白い腕の上を、葉脈のように分岐した線に沿い、血液が流れていく。思わずそこに、釘付けになる。赤く、新鮮で、なめらかな汁だ。
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寝耳にミサイル