空腹
コンコンコン、さっきからずっと、その音ばかりが耳に入ってくる。ドアを叩くリズム音さえもぐわんと頭に響いて、私は呻き声を上げずにはいられない。部屋の隅に置かれたベッドにうずくまって頭を抱えながら、とにかく耐えていた。頭が割れるように痛い。それに、穴が開いているのではないかと思うほど、胃はからっぽだ。
「菊池さーん、大丈夫?…ずっと部屋から出てこないみたいだけど」
ドアの向こうから遠慮がちな声が聞こえるのを、私はひたすら無視していた。
シャトーに移住してから2週間が経とうとしている。上からは彼らと自分自身に慣れるためにも、3週間はシャトーで休暇をとれと言われている。これがまたキツくて仕方がなく、私はほとんど鍵をかけた部屋に引きこもっている。先日、彼らが集まるシャトーでの食事時、佐々木一等に言われ挨拶に向かった。しかし一階に下りるや否や、ダイニングから漂ってきた嘔吐物のような臭いに耐えかねて、その日は部屋に引き返した。食べ物の臭いが異臭に感じるなんて、信じられなかった。こっそりと食べようとした大好きなチョコーレートアイスも、泥のような臭いと油粘土のような口触りと味に耐えかねて吐き出した。認めたくない。けれど、私はもう人間ではないのだと、ようやく自覚し始めていた。
一つ年下のクインクス達は、アカデミー時代に何度か見かけたことがある。彼らはなぜクインクスになることを望んだのだろう?力が欲しかったから?適性が出たから?私には理解できなかった。当時クインクスの開発が始まった時、いくら人工的とはいえ身体に赫子を宿すなどまるで見た目が喰種そのものだと、私はそれを否定する側にあった。中学生の時、目の前で両親を殺されてからと言うものの、あの悍ましい赫子を生やした気持ちの悪い生き物を、恨みながら生きてきたのだ。
それなのに今は、このザマだ。夕食時なのだろう、ドアの隙間を通り一階から漂ってくる牛乳の腐ったような臭いと、学校の床を拭いた雑巾の絞り汁のような臭い。これはきっと、人間からしてみれば良い匂いに違いない。泣きたい気持ちに押されるが、ここ数日泣き疲れて、もう涙は出てこなかった。それよりも、まるで砂漠にでもいるのではないかというくらい、喉が渇いている。正確にはきっと、腹が減っている。もうずっと何も口にしていない。いい加減気が狂ってしまいそうだ。身体が熱い。気持ち悪い。頭が痛い。腹が痛い。
「うぅ……ぐ、っ……ぅ、ぁぐ……」
「菊池さん!?大丈夫!?」
たまらず呻き声をあげると、勢いよく数回ドアが叩かれる。頭に響いて、キンキンとうるさい。背中のあたりが燃えるように熱い。苦しい。喉が痛い。ああ食べたい。何か食べたい。さっきの嫌な臭いとは違う、ドアの隙間から香ばしい良い香りがしてくる。もうダメだ。気持ちが悪い。楽になりたい。楽に、
「ぅああああ!!!」
もうわけがわからなくなって、私は頭を思い切り壁にぶつけた。何度も何度も。とにかくこの空腹と気持ち悪さから解放されたい。もういい頭なんて潰れてしまえ。そう思ったが、壁がバキバキと凹んで剥がれるだけで、頭は無傷そのもの。擦り傷もすぐに歪な音を立てて回復した。もうどうすることもできない。痛い痛い痛い熱い熱い熱い熱い食べたい食べたい食べたい食べたい、
「もういやだぁああ!!!」
叫ぶと同時に、目の前でガタン、と大きな音がした。ぎろりとその方を見ると、内鍵をかけたはずの部屋のドアが、見事に打ち倒されている。廊下から部屋に眩しい光が差し込み、そこには焦りの色を浮かべた佐々木一等が立っていた。
「……やっぱり。飢餓状態だ」
「来ないで!!!あっちいってよ!!」
「菊池さん、」
「来ないで!!!」
佐々木一等が近づいてくる。同時に生クリームを添えた揚げたてのアップルパイのような、香ばしく酸味のある、美味しそうな甘い香りが漂ってくる。
「いやだいやだいやだ……」
「抑制剤も飲んでないんだから、当然だよ。辛いでしょう?」
「来ないでお願いこないでこないでこないで……」
彼が何を言っているのかももう理解できなくて、私はただひたすら正気を保とうと念仏のように言葉を唱えた。けれど、彼がそっと私の隣に腰かけるので、私は思わずその首元に目がいってしまう。甘くてとろけてて、美味しそうだ。きっとチョコーレートアイスみたいな味がするんだ。ああ食べたい!
「……食べたい」
思わず口にしたその一言とともに、一粒、左目から涙がこぼれた。ああ、人間とは何だったか。もうわからない。そんな私に彼は困ったように笑って、頬の涙をそっと指で拭った。
「どうぞ」
そう言ってワイシャツのボタンをふたつ外すと、彼は肩口を露わにし、私に差し出した。きめ細やかな肌に、鎖骨が浮いているのを見た。その瞬間、私はもう私ではなくなった。勢いよくそこに噛み付いて、飛び出した液体をすすり、歯に当たった繊維質をぶちぶちと引きちぎった。甘酸っぱいラズベリーソースと、上品なカカオの香りの漂う、硬さのある板チョコーレート。そんな感じだった。無様でもなんでもいい。とにかく今は、食べてしまいたい。パタパタと赤が飛び散り、彼のワイシャツを染めていく。うっ、と呻き声を上げ痛みに顔を歪める佐々木一等を他所に、私はその味をひたすら咀嚼した。
「……ん、……ふっ…。」
身体に活力が蘇るのを感じる。意識がはっきりしてきた。私は、何をしているんだろう?味わったこのない感触を噛み締めながら、それを自覚した時、ぼたぼたと涙がこぼれ落ちた。まさに自分の姿は、喰種そのものだ。忌み嫌い、恨んできた気持ちの悪い化け物だ。
「ごめ……なさい……」
私はただそう呟きながら、深く呼吸を繰り返す佐々木一等のシャツを強く握りしめた。罪悪感で、自分を保っていられそうにない。
吐き気すら込み上げてくる。唇からこぼれ出した液体がどろりと落ちて、白いシーツを赤く染めていく。
「辛かったね。」
しかし、咎めることもなく、彼はただそれだけ言って私の頭を優しく撫でた。少し細められた目が、銀色に光る髪が、とても綺麗に見えた。
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寝耳にミサイル