惑乱



「早く鉢川を呼べ!」

男の叫び声が遠く、霞んで聞こえる。全てがゆっくりと、スローモーションのように流れ、薄く色褪せて見えた。その中で、鮮明な赤だけが、私の目に美しく映える。喉が鳴る。床に滴り落ちる液体が名残惜しい。勿体無い。あんな若くて新鮮なものは、滅多に口にできるものではない。

「アキラさん……まずいです。」

「いや、撃たれのは腕だ。警察を待つ。」

「そうじゃなくて……。」

背中がじんじんと熱い。意思に反し、動き出したいと訴える手足が、小刻みに震えていた。
ダメだ、もう待てないんだ、

「……私が。」

「エリカ……?」

「私が、行きます。」

「おい待て!!!エリカ!!」

気づけば立ち上がり、颯爽と歩き出していた。案の定男はすぐに気づき、慌てて銃を向けてくる。

「おい動くな!!!」

必死に叫ぶ男に構うことなく、歩き続けた。このままでは私がどうにかなりそうだ。こうして歩き続けて撃たれれば、その隙を見て人質が逃げるだろう。あとは私が銃を奪えばいい。早く。早くしないと、

「鉢川は俺の家族を見殺しにした!目の前にいたのに、助けもせずに喰種に食わせたんだ!あいつはイカれてる!この手で殺してやる!」

低い鐘の音のようにぐわんぐわんと、頭に声が響く。けれどもう、何を言ってるのかすらよく分からない。私はひたすら、男に向かって歩き続けた。あと4、5メートルのところで、一際大きな怒声が響く。

「止まれ!!!!!」

「……エリカちゃん!」

「琲世、今はよせ!!」

ああ。聞きなれた声がする。男の背後の廊下から、佐々木一等が飛び出す。慌てて手を振りかざして叫ぶアキラさん。男は必死の形相で、佐々木一等と私、交互に銃を向ける。違う。こっちだ、頼むから。彼に銃を向けないでくれ。

「撃ってみなさいよ!!どうせ撃てないでしょう!?警官なんて皆腰抜け!喰種の前じゃゴミ同然よ!!!」

銃声が轟いた。一度、二度、三度と続き、全部で五発。熱くて鋭い痛みが、右肩に一つ。身体が揺れて、後ろへと傾く。続いて腹に二発、脚がよろける。残りの二発は脚と腕に、鋭くめり込んでいく。

「エリカ!!!!」

痛い。そう思えたのは、たった一瞬だった。なんだ、こんなものか。倒れることもなく、揺れた身体を立て直し、真っ直ぐと前をみる。銃を構えたまま唖然と立ち尽くす男。逃げ出した人質の女性が、廊下へ向かって駆けていく。それを受け止める佐々木一等。よかった、うまくいった。

「な……なんで…。」

「もっと冷静に、ちゃんと狙って、頭を撃ち抜かないと……。」

火薬と血の混ざった匂い。身体に残る異物感。ぐにゃりと肉が押し上げて、固いものが肌を蠢く。からんからん。床に落ちて転がる何か。吐き出したのは、いびつな形をした弾だった。そしてみしみしと、抉られた傷が塞がっていく。

「ほら、早く。」

「化け物だ……お前らやっぱり……」

静まり返るエントランスに、震え慄く、男の怯えた声が響く。化け物を見る目。そんな風に見られると、余計に、壊してしまいたくなる。そうだよね?心の中で誰かが、私にそっと囁く。足下に散らばり落ちた、血のへばりついた弾。それらをそっと、パンプスの先で蹴る。ふと足首の辺りに、一筋の赤がストッキングに滲んでいるのを見た。スカートには赤黒い小さな穴が開いて、白いYシャツには4つ、小さな血染みができている。驚いた。だって全然、痛くない。

「人間じゃない……お前ら…化け物だ……!」

「なら早く撃てばいい。ほら早く。」

私は再び、男に向かって歩いた。向けられた銃に沿うように、足早に。途端に私の名が叫ばれ、小玉のように響く。背後から聞こえる、アキラさんの走り出す音。女性としゃがみ込んでいた佐々木一等も、狂ったように走り出す。
けれどもう遅い。ぴたりと、男の向けた銃口に、私の額がくっついた。

「でないと私が、あなたを食べちゃうから。」

男の手を伝って、がたがたと震える銃。一向に引き金を引く様子のない手に、そっと自分の手を重ねた。そして今度は、額から右の目へと、銃口をずらす。これで引き金を引いたら、どうなるのだろう。終わるのだろうか。何もかも。そう思った矢先、ばたりと、男が力なく床に尻餅をついた。腰が抜けたらしい。同時に銃も投げ出され、床を滑り飛んでいく。行き場を失った右手が、虚しく宙を切った。

「琲世!」

背後から聞こえるアキラさんの声。はっとして前を見ると、駆けてきた佐々木一等が、もう目の前まで来ていた。眉間に皺を寄せて、歯を食いしばり、軽蔑するような目が私を刺す。勢いよく振りかざされた右手が、素早く動いた。身構える余裕などない。そして一秒もしないうちに、頬に、痺れるくらいの強烈な打撃が一つ。さっきの銃弾なんかより、よっぽど痛い。すごく、痛い。

「どうしてこんな真似を!!!!!」

凄まじい平手打ちと怒号。あまりの衝撃に耐えきれず、無様に床へ倒れこんだ。頬が熱く、ちくちくと痛む。頭が混乱する。なんで、私が?何か悪いことでもした?なんで、こんな目に遭う?もう何もかも、わからない。

「どうしてって……。最善だと、思ったんです。」

「最善なわけがない!!死ぬかもしれないだろ!!!」

ぶつりと、何かの箍が外れた。体裁だとか、理性だとか、そんなものはどうでもいい。もう限界だ、何もかも。

「死ぬわけない!!!そんなのわかってるでしょ!?あなたも私も人間じゃないんだから!!綺麗事ばっかり言わないでよ!!!」

叫び散らした言葉のせいで、喉が焼けるように熱い。目頭まで熱くなって、気づけば視界が涙で滲んでいた。ぼんやりと見える、私を見下ろす佐々木一等。何も言わず、絶望したような顔が、ゆらゆらと揺れて見えた。それでも止まらず、私の口は動く。

「私は琲世さんみたいにはなれない!料理するなんて馬鹿みたいだと思うし、人混みにいると苛々する!ここにいると不意に……誰かの首を噛みちぎってやりたくなる!!」

「エリカ……!」

慌てて駆けつけたアキラさんがしゃがみこみ、私の肩を抱く。とても、いい香りがする。落ち着かせるように頭へと伸びた手。けれど私は、乱雑にそれを振り払う。よろよろと立ち上がり、目に溜まった涙を無造作に拭った。すると不意に、頭の中にいる誰かが、ぽっかりと空いた私の胸に手を伸ばす。お腹すいたね。なんて。


「……私は人間じゃない。」


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寝耳にミサイル