崩壊



鼻に纏わり付く上品な、香水の香り。嫌いだ。匂いは、奥底に沈んでいた記憶をそっと呼び起こす。薄暗く気鬱な部屋。モノクロの弾幕。運ばれていく棺と、その後を追う女性の姿。泣き腫らした目を押さえ、俯くその様子とは反面、手に持った遺影が優しく笑う。




「どうして呼ばれたのか、わかるかな?」


彼女は、少し老けたように思う。それでも、皺一つない白い肌や、長い睫毛に優しげな目元、遠慮がちな発色のルージュの元、緩く描いた唇の弧は美しい。

「私がイカれてて、あなたが精神科医だから。」

久しぶりに訪れた局内のカウンセリングルーム。私は特別に、その奥の部屋、彼女の自室へと通される。少し散らかった机上の向こうで、彼女は困ったように笑った。

「あら。私は医者じゃなくてセラピストよ。免許持ってないの。これ、前にも話した?」

「はい。」

「相変わらず意地悪ね。"エリカちゃん"は。」

ふわりと、不気味なまでに優しく儚い笑みが、私の胸にしんと染みる。また思い出してしまった昔の記憶が、脳裏に過った。あどけなさの残る、何も知らないような顔した私が、隣で笑っているような気がした。

「……その呼び方。」

「ん?」

「やめてください。」

いつまでも変わらない。
この人の笑顔は、嫌いだ。

「……ごめんなさい。あなたが私を嫌っているのは知ってる。でもこれも私の仕事だから……少しお話しましょう。この前の人質事件の時のこと、話してくれる?。」

優しげなのに、どこか淡々としている。長い指が、録音機のスイッチに触れた。ぐさりと、何かに突き刺されたような、そんな気がした。人質事件の一件の後、周囲から精神負荷と判断された私は、元々クインクス班に義務付けられている月1のセラピストによるカウンセリングが、週1回へと増やされた。さらに、今までは別のセラピストを指名していたというのに、今回、アキラさんと佐々木一等の計らいにより、彼女が指名された。香島ミズキ先生。私は彼女が、大嫌いだ。

「私は半分喰種なのでRc値が高いんです。だから時々、空腹で苛々してしまって判断力が鈍る。ただそれだけです。次にイカれたら殺せと上にお伝えください。それでは。」

早々に立ち去ろうと、席を立つ。けれど、急に立ち上がった彼女の手が、私の腕を机越しに強く掴んだ。意外だ。か細い指が、懸命に私の腕に食らいつく。顔を上げて彼女を見る。普段の温厚な雰囲気からは想像もできない、やけに真剣な顔だった。

「ダメよ。あと15分ある。席につきなさい。」

らしくもなく、芯の通った声。あの時とは違う。あなたも、私も。渋々と椅子に座り直すと、彼女立ったまま、机上に置いた私の両の手に、自らの手をそっと重ねた。温かい。手首は細くて、捻ったら簡単に折れてしまいそうだ。

「あなたはイカれてるわけじゃない。正常よ。」

ゆっくりと、宥めるように掛けられた言葉。内心で、ふて腐れた顔した私が、鼻で笑う。ふと彼女の首元に目がいく。透き通る白にはやはり、青い血管がよく映える。最近は人の首ばかりに目がいく。そこに齧り付いたらどんな味がするのだろうと、考えずにはいられない。

「……どんな気持ちだった?」

彼女の手が、不意に私の額へと伸びる。いくつかの指の腹がそっと触れて、薄くて柔らかな皮膚が、ふにゃりと歪んだ。

「ここに、銃口が触れた時。」

不意に、額に感じる熱が消え、冷たく無機質な固まりが、そこに押し付けられているように感じた。思い出す一部始終。けれど、恐怖も無ければ余裕もない。少しの羨望と絶望だけが、頭の中で渦を巻いているだけだ。

「……何も。どうせ、死ぬわけでもないので。」

素っ気なくぼそりと呟くと、彼女はまた、困ったように、それでいて悲しそうに笑う。なんだ、それ。腹の奥からふつふつと、黒く、刺々しい感情が湧いてくる。

「目に隈ができてるわ。眠れてないの?」

「寝てますよ。たっぷり。」

今度はそんなことを言って、私の頬を優しく撫でる。私はぴくりとも動かず、ただ彼女の顔を見据えた。


「何か悩みがあるんでしょう。」


カチン。机に置かれた時計。その秒針の規則正しい音が、急に消えてしまった。頭の中にいる誰かが、消してしまったのかもしれない。


「……悩み?」


彼女の言葉に、耳を疑った。失笑ものだ。自制心と言う名の感情の檻を、小さな手がガタガタと揺らす。騒音を立て、歯をむき出しにして、ここから出せと叫ぶ。

「ええ、そう。何を抱えているのか、話してみて。」

息を小さく、それでいて深く、ゆっくりと吸う。落ち着けと、彼女の顔から目を逸らして、机上に視線をやる。けれど視界に入った彼女の指先の、綺麗な柄のネイルに、胸焼けがした。可愛らしいピンクゴールドのブレスレット。控えめなピンキーリング。横に置かれた紅茶の入ったティーカップ。ソーサーに溢れた少しの砂糖。ポップな絵の描かれた紙袋の中には、きっと食べかけのドーナツが入っている。綺麗な手にハンドクリームを塗り、リングはめ、ブレスレットを通し、ブランド物のバッグ片手に家を出る。少し押している時間を見越し、駅前でドーナツ買い、着いた自室で紅茶を入れ、一息つく。そんな彼女の姿が、色鮮やかに浮かんだ。とても静かで、和やかな時が見える。憎らしいほど美しい、安住の日々が。


「どんな小さなことでもいいから、」

「うるさい!」


彼女の言葉を遮って、ついに壊れた檻の中から、怪物が身体を動かした。細腕を掴み、いとも簡単に引き寄せ、彼女の上半身が机に乗り上がる。ティーカップが床に落ち、積み上げられた資料が宙を散り、紙袋がくしゃりと呆気なく潰れた。驚く彼女の首を、もう一方の手で掴む。開く瞳孔。息を呑む唇。このまま力を込めれば、簡単に首が落ちてしまいそうだ。

「じゃあ教えてあげる。佐々木一等と違って私はね、この前からずっーーと空腹なの!腹が減って腹が減って、おまけに喉も渇いて死にそうなの!局の配給なんかじゃ全然足りない。常に我慢してるのよ。餌がうろちょろ歩き回ってる中を、舌なめずりして!」

手が震える。捻じ切ってしまいそうな力を抑え、がたがたと。怯えた目が私を見つめる。彼女の胸に潰された紙袋。私はそれを顎で指し、彼女へと問いかける。

「それおいしい?駅前の店でしょ?私もよく食べてた。羨ましいよ。好きな時に、好きなものが食べられて。でもね、私はもうこんなもの食べたいとも思わない。」

彼女の首筋に、そっと鼻を寄せる。香水の薫りを掻き消すほどの、甘くて新鮮な肉の匂いがする。思わず、身震いしてしまいそうだ。

「私が食べたいのは、こっちなの。わかる?それがどんなことか。」

彼女は緊張した面持ちで、ごくりと唾を飲む。静まり返る部屋。てっきり泣き喚くかと思えば、どちらかというと冷静で、毅然としている。兎にも角にもこれ以上はまずいと、首に吸い付いた手を放し、二歩、三歩と後ろへ下がった。

「……上に報告しないとね、先生。菊池二等は危険だって。」

目眩のする頭を手で押さえながら、私は笑った。咽せ返るほどの肉の香りが鼻に残り、口の中にじわじわと唾液が溢れる。早く、この部屋を出たい。

「……言わないわ。あなたは人を殺したりしない。」

真っ直ぐな目が、私を射抜く。時計の秒針が、再び規則正しく鳴り始めた。

「昔から知ってる。あなたは優しい人間よ。だからいつも、一人で悩んでしまうの。」

違う。そうじゃない。私は首を横に振った。

「……先生は何もわかってない。」

「そう。私はいつもわからない。だからあの時も何もできなかった。もう繰り返したくない。あなたを助けたい。」

助けたい。安っぽい、薄っぺらな言葉。無責任で投げやりな、綺麗事だ。私は踵を返し、部屋を後にする。ドアノブに手をかけ、最後の言葉に念を押した。

「……助けはいらない。」

虚しく閉まるドア。未だに震える手に力を込め、握り拳を作る。どくんどくんと、高鳴る心臓の音が収まるまで、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。ようやく落ち着いた頃、歩き出した廊下の横のソファに、見慣れた人物が座るのを見つけてしまう。佐々木一等だ。先に帰っておいてと言ったのに、どうやら待っていたらしい。またか。思わずため息が出そうになる。彼は、いつも私を待っている。

「エリカちゃん、」

今は何も話したくない。気分も、身体も、最悪だ。きっとこのままでは、八つ当たりでもしてしまいそうだ。

「……どうだった?」

「時間の無駄です。」

そう吐き捨てて、足早に廊下を歩いた。カツンカツンと、叩きつけるようなヒールの音が響く。慌てて駆け寄り、並んで歩く彼が、心配そうに私を見つめる。その視線すら今は、なんだか苛ただしい。

「車で来たから、一緒に帰ろう。」

「一人になりたいので歩いて帰ります。」

「エリカちゃん!」

不意に、強く腕を掴まれる。先ほどの彼女とは比べ物にならないくらい、力強く。そのまま身体が向き合うよう横に振られ、為すがまま向き直った私は、驚きつつも彼を見上げた。

「……ちゃんと話そう。」

今にも泣きそうな、それでいて勇健とした表情。お願いだから、と、瞳が訴えているように感じた。

「何を、ですか、」

「なんでもいいから。これから一緒に、どこかへ行こう。」

「……どこに?」

「君の好きなところへ。」


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寝耳にミサイル