崩壊
鼻に纏わり付く上品な、香水の香り。嫌いだ。匂いは、奥底に沈んでいた記憶をそっと呼び起こす。薄暗く気鬱な部屋。モノクロの弾幕。運ばれていく棺と、その後を追う女性の姿。泣き腫らした目を押さえ、俯くその様子とは反面、手に持った遺影が優しく笑う。
◇
「どうして呼ばれたのか、わかるかな?」
彼女は、少し老けたように思う。それでも、皺一つない白い肌や、長い睫毛に優しげな目元、遠慮がちな発色のルージュの元、緩く描いた唇の弧は美しい。
「私がイカれてて、あなたが精神科医だから。」
久しぶりに訪れた局内のカウンセリングルーム。私は特別に、その奥の部屋、彼女の自室へと通される。少し散らかった机上の向こうで、彼女は困ったように笑った。
「あら。私は医者じゃなくてセラピストよ。免許持ってないの。これ、前にも話した?」
「はい。」
「相変わらず意地悪ね。"エリカちゃん"は。」
ふわりと、不気味なまでに優しく儚い笑みが、私の胸にしんと染みる。また思い出してしまった昔の記憶が、脳裏に過った。あどけなさの残る、何も知らないような顔した私が、隣で笑っているような気がした。
「……その呼び方。」
「ん?」
「やめてください。」
いつまでも変わらない。
この人の笑顔は、嫌いだ。
「……ごめんなさい。あなたが私を嫌っているのは知ってる。でもこれも私の仕事だから……少しお話しましょう。この前の人質事件の時のこと、話してくれる?。」
優しげなのに、どこか淡々としている。長い指が、録音機のスイッチに触れた。ぐさりと、何かに突き刺されたような、そんな気がした。人質事件の一件の後、周囲から精神負荷と判断された私は、元々クインクス班に義務付けられている月1のセラピストによるカウンセリングが、週1回へと増やされた。さらに、今までは別のセラピストを指名していたというのに、今回、アキラさんと佐々木一等の計らいにより、彼女が指名された。香島ミズキ先生。私は彼女が、大嫌いだ。
「私は半分喰種なのでRc値が高いんです。だから時々、空腹で苛々してしまって判断力が鈍る。ただそれだけです。次にイカれたら殺せと上にお伝えください。それでは。」
早々に立ち去ろうと、席を立つ。けれど、急に立ち上がった彼女の手が、私の腕を机越しに強く掴んだ。意外だ。か細い指が、懸命に私の腕に食らいつく。顔を上げて彼女を見る。普段の温厚な雰囲気からは想像もできない、やけに真剣な顔だった。
「ダメよ。あと15分ある。席につきなさい。」
らしくもなく、芯の通った声。あの時とは違う。あなたも、私も。渋々と椅子に座り直すと、彼女立ったまま、机上に置いた私の両の手に、自らの手をそっと重ねた。温かい。手首は細くて、捻ったら簡単に折れてしまいそうだ。
「あなたはイカれてるわけじゃない。正常よ。」
ゆっくりと、宥めるように掛けられた言葉。内心で、ふて腐れた顔した私が、鼻で笑う。ふと彼女の首元に目がいく。透き通る白にはやはり、青い血管がよく映える。最近は人の首ばかりに目がいく。そこに齧り付いたらどんな味がするのだろうと、考えずにはいられない。
「……どんな気持ちだった?」
彼女の手が、不意に私の額へと伸びる。いくつかの指の腹がそっと触れて、薄くて柔らかな皮膚が、ふにゃりと歪んだ。
「ここに、銃口が触れた時。」
不意に、額に感じる熱が消え、冷たく無機質な固まりが、そこに押し付けられているように感じた。思い出す一部始終。けれど、恐怖も無ければ余裕もない。少しの羨望と絶望だけが、頭の中で渦を巻いているだけだ。
「……何も。どうせ、死ぬわけでもないので。」
素っ気なくぼそりと呟くと、彼女はまた、困ったように、それでいて悲しそうに笑う。なんだ、それ。腹の奥からふつふつと、黒く、刺々しい感情が湧いてくる。
「目に隈ができてるわ。眠れてないの?」
「寝てますよ。たっぷり。」
今度はそんなことを言って、私の頬を優しく撫でる。私はぴくりとも動かず、ただ彼女の顔を見据えた。
「何か悩みがあるんでしょう。」
カチン。机に置かれた時計。その秒針の規則正しい音が、急に消えてしまった。頭の中にいる誰かが、消してしまったのかもしれない。
「……悩み?」
彼女の言葉に、耳を疑った。失笑ものだ。自制心と言う名の感情の檻を、小さな手がガタガタと揺らす。騒音を立て、歯をむき出しにして、ここから出せと叫ぶ。
「ええ、そう。何を抱えているのか、話してみて。」
息を小さく、それでいて深く、ゆっくりと吸う。落ち着けと、彼女の顔から目を逸らして、机上に視線をやる。けれど視界に入った彼女の指先の、綺麗な柄のネイルに、胸焼けがした。可愛らしいピンクゴールドのブレスレット。控えめなピンキーリング。横に置かれた紅茶の入ったティーカップ。ソーサーに溢れた少しの砂糖。ポップな絵の描かれた紙袋の中には、きっと食べかけのドーナツが入っている。綺麗な手にハンドクリームを塗り、リングはめ、ブレスレットを通し、ブランド物のバッグ片手に家を出る。少し押している時間を見越し、駅前でドーナツ買い、着いた自室で紅茶を入れ、一息つく。そんな彼女の姿が、色鮮やかに浮かんだ。とても静かで、和やかな時が見える。憎らしいほど美しい、安住の日々が。
「どんな小さなことでもいいから、」
「うるさい!」
彼女の言葉を遮って、ついに壊れた檻の中から、怪物が身体を動かした。細腕を掴み、いとも簡単に引き寄せ、彼女の上半身が机に乗り上がる。ティーカップが床に落ち、積み上げられた資料が宙を散り、紙袋がくしゃりと呆気なく潰れた。驚く彼女の首を、もう一方の手で掴む。開く瞳孔。息を呑む唇。このまま力を込めれば、簡単に首が落ちてしまいそうだ。
「じゃあ教えてあげる。佐々木一等と違って私はね、この前からずっーーと空腹なの!腹が減って腹が減って、おまけに喉も渇いて死にそうなの!局の配給なんかじゃ全然足りない。常に我慢してるのよ。餌がうろちょろ歩き回ってる中を、舌なめずりして!」
手が震える。捻じ切ってしまいそうな力を抑え、がたがたと。怯えた目が私を見つめる。彼女の胸に潰された紙袋。私はそれを顎で指し、彼女へと問いかける。
「それおいしい?駅前の店でしょ?私もよく食べてた。羨ましいよ。好きな時に、好きなものが食べられて。でもね、私はもうこんなもの食べたいとも思わない。」
彼女の首筋に、そっと鼻を寄せる。香水の薫りを掻き消すほどの、甘くて新鮮な肉の匂いがする。思わず、身震いしてしまいそうだ。
「私が食べたいのは、こっちなの。わかる?それがどんなことか。」
彼女は緊張した面持ちで、ごくりと唾を飲む。静まり返る部屋。てっきり泣き喚くかと思えば、どちらかというと冷静で、毅然としている。兎にも角にもこれ以上はまずいと、首に吸い付いた手を放し、二歩、三歩と後ろへ下がった。
「……上に報告しないとね、先生。菊池二等は危険だって。」
目眩のする頭を手で押さえながら、私は笑った。咽せ返るほどの肉の香りが鼻に残り、口の中にじわじわと唾液が溢れる。早く、この部屋を出たい。
「……言わないわ。あなたは人を殺したりしない。」
真っ直ぐな目が、私を射抜く。時計の秒針が、再び規則正しく鳴り始めた。
「昔から知ってる。あなたは優しい人間よ。だからいつも、一人で悩んでしまうの。」
違う。そうじゃない。私は首を横に振った。
「……先生は何もわかってない。」
「そう。私はいつもわからない。だからあの時も何もできなかった。もう繰り返したくない。あなたを助けたい。」
助けたい。安っぽい、薄っぺらな言葉。無責任で投げやりな、綺麗事だ。私は踵を返し、部屋を後にする。ドアノブに手をかけ、最後の言葉に念を押した。
「……助けはいらない。」
虚しく閉まるドア。未だに震える手に力を込め、握り拳を作る。どくんどくんと、高鳴る心臓の音が収まるまで、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。ようやく落ち着いた頃、歩き出した廊下の横のソファに、見慣れた人物が座るのを見つけてしまう。佐々木一等だ。先に帰っておいてと言ったのに、どうやら待っていたらしい。またか。思わずため息が出そうになる。彼は、いつも私を待っている。
「エリカちゃん、」
今は何も話したくない。気分も、身体も、最悪だ。きっとこのままでは、八つ当たりでもしてしまいそうだ。
「……どうだった?」
「時間の無駄です。」
そう吐き捨てて、足早に廊下を歩いた。カツンカツンと、叩きつけるようなヒールの音が響く。慌てて駆け寄り、並んで歩く彼が、心配そうに私を見つめる。その視線すら今は、なんだか苛ただしい。
「車で来たから、一緒に帰ろう。」
「一人になりたいので歩いて帰ります。」
「エリカちゃん!」
不意に、強く腕を掴まれる。先ほどの彼女とは比べ物にならないくらい、力強く。そのまま身体が向き合うよう横に振られ、為すがまま向き直った私は、驚きつつも彼を見上げた。
「……ちゃんと話そう。」
今にも泣きそうな、それでいて勇健とした表情。お願いだから、と、瞳が訴えているように感じた。
「何を、ですか、」
「なんでもいいから。これから一緒に、どこかへ行こう。」
「……どこに?」
「君の好きなところへ。」
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寝耳にミサイル