間隙
温かく穏やかな音が、心地よく耳に触れる。そのせいか、流れる水につけた両手も、それほど冷たくは感じない。リビングから聞こえる談笑をBGMにして、黙々と一人キッチンで皿を洗う。この何気のないシャトーでの時間が、僕にとっては細やかな楽しみでもあった。ふざけ合う声の中、一つの明るいソプラノの音ばかりを追ってしまう。何を話しているんだろう。目前を流れる水の音に紛れ、彼女の声は言葉には聞こえない。ふと皿から目を離してリビングを見る。するとそこにいたはずの彼女が消えていて、僕は思わず動きを止めてしまった。
「手伝いますね。」
「うわ!びっくりした!」
急に真横から顔を出した彼女。驚いて、危うく皿を手から落としそうになる。皿についた泡が飛び散って、彼女まで驚いて肩を揺らす。互いに目を見開いて静止すること数秒。彼女が気の抜けたように笑った。
「そんなに驚かなくても。こっちがびっくり。」
「全然気配しなかったから!すごいね、忍者?」
「琲世さんが考え事してただけでしょ。ぼけっーとしちゃって。」
「一言余計だよ。」
楽しそうに微笑んで、彼女は僕の隣に寄り添い、白い手を水にさらす。俯く横顔。通った鼻筋と弧を描く艶やかな唇、長い睫毛。柔らかな髪の後毛。微かに香る菫のような甘い馨り。今すぐにでも頬に唇を寄せたいところを我慢して、悪戯に喋り出して気を紛らわす。
「ありがとう。割らないでね。」
「一言余計ですよ。」
「いつも割るでしょ。」
「失礼な!」
「あっ!ほら!!」
彼女の掴んだ皿が、両手の中で見事に割れた。彼女いわく、人間だった時と同じ感覚で身体を動かすと、それがどうにも強すぎるようで、物を壊すことが度々あるそうだ。今のもそのうちだ。皿を割ることもよくある。人間だった頃の記憶のない自分には、持ち得ない感覚だ。共有できない彼女だけの感覚。それがどんなものなのか、その顔を見ればよくわかった。唖然と割れた皿に視線を落とし、やがて眉間にはきゅっと皺が寄り、唇を噛んで目を細める。
「か弱い女の子のフリって、苦手だな。」
乾いた笑みが、シンクに虚しくに落ちる。水音がそんな雰囲気を演出するので、僕は思わずそれを止めた。彼女はしっかりと立っているように見えて、きっと、少し押しただけでも倒れてしまう。そんな危うさ持っている。不意に抱きしめたくなった小さな背中に、そっと手を回した。
「ちゃんと女の子だけどね。」
「ちょっと!……琲世さん!」
「ん?」
引き寄せて後ろから抱きつくと、びくりと肩を震わせて身じろぐ。小さな抵抗なんて気にも止めずに素っ惚けてやると、彼女は大人しくなる。うなじに唇を寄せ、漂う甘い香りを鼻で堪能する。まずいな、なんだか、変な気が起こりそうだ。
「向こうに、見えてるから……」
「うーん、どうかな。気づかないと思うけど。」
気恥ずかしそうに縮こまって、リビングにちらちらと視線をやる彼女。けれど彼らはテレビゲームに夢中で、こちらを気にも止めていない。それをいいことに首筋や耳に唇落とし、はたまたふざけて耳に息を吹き込んでやる。途端に聞こえ出した小さな笑い声が、どうにも愛おしい。
「よかった。」
「え……?」
「最近顔色悪かったから。心配だった。」
思わず本音を漏らすと、彼女はどこか戸惑いつつも、申し訳なさそうに微笑む。本当に、心配だった。ついこの間までは、段々と壊れていく彼女の様子を、ただ傍観しているような気がしていた。あの時の光景は忘れられない。銃口に額を当てたその目が、どこも見ていなかった。不気味なまでに平然と、血濡れたまま立ち尽くす彼女の姿が、目に焼き付いている。見たくない。もうあんな姿は、二度と。
「色々あって……迷ってしまったんです。」
ふと、ぼそりと呟かれた彼女の言葉に驚く。一体何を、と聞こうとしたところで、またその口が開く。
「でももう大丈夫。何を優先すべきか、順位をつけたんです。……そしたら楽になった。」
「そう……なんだ………?」
なんだか意味深で、それでいてぼんやりとした言葉だ。何を、何が?と、聞きたい口に反し、頭の中ではそれが無駄だとわかっていて、言葉に出すのをやめてしまった。彼女はきっと話さない。何を、と聞くと、いつも笑ってはぐらかす。そういう人なんだ。彼女の濡れた両手に、自らの手を重ねた。冷たい手が熱を持ち始め、彼女はゆっくりと振り返って僕を見る。そんな時不意に、シンク横に置いた携帯が鳴り出す。なんともタイミングが悪い。二人してそこに顔を向けると、画面には「真戸暁」の文字。
「アキラさんから電話だ。……なんだろう?こんな遅くに。」
急いで濡れた手をタオルで拭って、彼女から離れる。四コール目で電話に出るとすぐ様、少し苛立ったような、切羽詰まった声が聞こえ出した。
『琲世。今から局に来い。話がある。』
「何かあったんですか?」
『いいから来い。エリカは連れてくるな。わかったな。』
「それってどういう、」
ぶつん。唐突に切られた通話に、悪寒が走った。なぜ、彼女の名前が出たのか。検討もつかない上に考えたくもない。心配そうに僕を見上げる彼女が、さらに不安を煽る。
「緊急要請ですか?」
「うん、ちょっとね。僕だけでいいみたいだから行ってくる。後片付けは頼んでいい?」
こくりと頷き、彼女は僕の脱いだエプロンを素直に受け取った。けれどキッチンを出ようとしたところで、遠慮がちにワイシャツの端が掴まれる。
「私も行きます、一緒に。」
「ダメ。すぐ戻るからここにいて。」
健気に見上げる目。なんだか胸が苦しい。悪いことが何もないようにと、心の中で祈った。それからリビングに一声かけた後、クインケのケースを片手に玄関へと急ぐ。その間、不安げな様子の彼女が、僕のエプロンを握ったまま、近くを行ったり来たりしていた。
「大丈夫。すぐ戻るよ。」
靴を履き終えてから、安心させるように彼女の肩口を撫でる。そして踵を返し玄関扉に手を伸ばした。
「待って!」
「……どうしたの?」
急な呼び声に驚いて振り向くと、さっきにも増して不安げな様子の彼女が、僕を見ていた。なんだか嫌な予感がする。
「いえ……気をつけてください。」
「うん。ありがと。」
ふと俯いた彼女の目は、どこも見ていなかった。
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寝耳にミサイル