焦燥
みしり。いつもよりずっと重い体を傾け、玄関からフローリングへと足を置いた。固いはずの床がふにゃりと、疲れ切った足裏のせいで柔らかくなる。感覚が、心情に支配されている。廊下からリビングへ向かう途中、軽く放心状態だった僕は、何もない床にすら躓きそうになった。
「ただいま……。」
「ママンおかえりー!お土産は〜?」
「……ないよ。」
リビングに顔を出すなり、才子ちゃんがこちらに向かって無邪気に手を振ってみせる。何も知らないのだから当然だが、呑気なその様子にため息が出てしまいそうだ。
「おいサッサン、なんかあったのか?」
察したのか、不知くんが慌てて問いかけてくる。その横から顔を出した六月くんも、どこか不安気だ。辺りを見渡すも、肝心の彼女がいない。もう部屋に戻ってしまったのだろうか。
「……エリカちゃんはしばらく、うちの班から外れることになった。」
途端に彼らの動きがぴたりと止まる。目を見開き、薄く口を開けて小さく、声にならない音を立てる。
「え……は!?なんで!?」
「姉さんいなくなっちゃうん!?」
「……ちょっと色々あってね。」
「色々ってなんですか?」
「アキラさんの方で人手が足りてないみたいで、急遽戦力になる優秀な人材が必要なんだって。」
「……なるほど。そりゃ仕方ないっすわな。」
帰路につく間に考えたもっともらしい理由に、彼らはすんなり納得がいったようだ。問題は彼女にどう伝えるか、だ。
「どのくらい向こうに?」
「まだなんとも。」
「姉さんいないと花がなくなるな〜むさ苦しくてかなわん。」
「これでまた男だけになっちまうな。」
「あん??聞き捨てならない言葉が聞こえたぞ?」
女の子に失礼でしょ。いつもならそう宥めるのに、今は、そんなことをする余裕もない。
「エリカちゃんは?お風呂?」
「それがよ、サッサンが出て行ったきり部屋にいるみてェなんだけど……」
「才子ちゃんがゲームに誘いに行ったんですけど、ノックしても返事がなくて。」
「寝てんのかなぁ。」
背筋が、ぞくりと震え上がった。ノックしても返事がない。その言葉を聞いた途端、頭の中に、シャトーを出る前に彼女が見せた、焦りの顔と意味深な言葉が浮かぶ。もしかして。まさか。心のどこかでいつも思っていた。彼女はいつか、消えていなくなってしまうのではないかと。
「……サッサン!?」
気づけばクインケのケースが手から滑り落ち、床にぶつかる騒音を合図に、僕は走り出していた。階段を飛ばし飛ばしに駆け上がり、廊下を走り抜け、体をぶつかり兼ねない勢いで、彼女の部屋のドアへ辿り着く。
「エリカちゃん!……エリカちゃんいる!?」
ドアを数回叩き名前を呼ぶが、返事はない。嫌な汗がじわりと滲む。ダメだ。とにかく一度落ち着こう。無造作に髪を掻き上げ、ドアを背に数回深呼吸をする。そして数秒後、もう一度そこへ向き直った。二度、三度と名前を呼び、一層強くドアを叩く。けれど一向に、声も物音も聞こえてこない。
「……いるよね?寝てるだけだよね……そうだよね?」
冷たく佇むドアに項垂れ、崩れかかる。まさか。そんな。そっと耳を当てると、窓から入る微かな風の音と、布の揺れるような乾いた音が聞こえ出す。見えない筈の向こう側が、頭へ鮮明に浮かび始める。誰もいない部屋。大きく開いた窓。風に揺れるカーテン。恐る恐るドアノブに手をかけると案の定、掛けられた鍵のせいで固く動かない。
「……どうして……なんで……。」
ふつふつと沸き出した黒い感情が、足先から手の指までどろどろに呑み込んでいく。抑えきれず、へし折らんばかりの勢いで、ドアノブを何度も捻った。金属と木の軋む音が悲鳴のように響き、ノブが呆気なくぐらついていく。
「っ……このっ……!」
何度も何度も、行き場のない感情をそこにぶつけ、今にも込み上げて溢れそうな涙を必死に堪えた。壊れかけた狂気の音が、虚しく廊下を走る。きっと彼女はいない。もう帰ってこない。
「……っどこにも行かないって、言ったじゃないか!!」
ついにドアノブが壊れ、喧ましい音を立てて金具とともに床へ落ちた。そのまま雪崩れるようにして入り込んだ部屋。しかしそこで、僕は驚きで目を見開くことになる。耳に飛び込んだ小さな悲鳴。なんと、部屋の真ん中にぽつんと、彼女が立っていた。唖然とした様子で僕を見つめ、静止している。
「は……琲世さん?何やってんですか!」
「………エリカちゃん……?」
「え、ドア壊れましたけど!?」
驚きで口を押さえながら、彼女が上擦った声を上げる。今にも崩壊寸前の感情が、温かい方へと流れていく。思うがままに駆け寄って、力一杯、その身体を抱きしめた。繊細な髪の束からは上品な香りがして、柔らかく白い肌からは甘い匂いがする。彼女がここにいる。そのことが、まるで奇跡のように尊く感じられた。思わず強くなる腕の力に、彼女が慌てて身じろぐ。
「うっ……、苦しい…!訓練ですか、これ?」
冗談交じりの言葉を発する彼女に、安堵を覚えてゆっくりと息を吐いた。つい早とちりをしてしまっただけ。そうは言っても、随分としてやられた。僕は彼女に執着しすぎている。それをこれでもかというくらい、思い知らされてしまった。
「……どこかに行っちゃったかと思った。」
「私はどこにも行きませんよ。」
申し訳なさそうに笑う姿に、もう何を言う気も起きなかった。ふわりと全身の力が抜け、体重を彼女に傾ける。すかさず彼女の両手が僕の背に周り、支えるようにして抱き込まれた。
「……お帰りなさい。琲世さん。」
優しく囁く声。けれど僕は見つけてしまう。彼女の目元に微かに滲む、ほんの少しの涙の跡を。
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寝耳にミサイル