裡面
唇が震える。開け放された窓に向かい、伸ばす足の頼りなさに苛立つ。風に泳ぐ髪の束が、視界の邪魔をする。頭の中を駆け巡る記憶の断片が、私をここから連れ出そうとしていた。今はもう、この自分の部屋でさえ、他人のもののような気がしてならない。私はここにいてはいけない。ついに窓枠に足を乗せ、仄暗い地面を見下ろした。降りるのは簡単だ。けれどもう、戻ることはできないだろう。覚悟を決め、震える唇からそっと息を吐いた。すると突然、荒々しい足音が耳に聞こえ出す。早く。早く降りるんだ。そう促す心の声に反し、ぴたりと、私の足は動かなくなる。
「エリカちゃん!……エリカちゃんいる!?」
息を呑んだ。今にも込み上げてくる切情を堪え、歯を食いしばる。だめだ。行かなきゃ。叩かれ始めた扉の音が、私を焦らせる。
「……いるよね?寝てるだけだよね……そうだよね?」
ドア越しの、縋るような悲痛な声。私がいなくなったら、彼はどうなるのだろう。仕方ないと諦めるか。それとも……
「…………どうして……なんで……」
今にも消え入りそうな頼りない声は、以前にも一度だけ聞いたことがあった。「僕は消えるの?」と、あの日、怯えた目が私を見つめていた。無意識に私の体は、窓枠から彼のいるドアへと、流されてしまう。ダメだ、できない。
◇
"人間性"とは一体、なんだったのだろう。自らの武器が、固い繊維を割き、骨をも砕く感覚。そこから溢れ出る血飛沫。哀れに響く一瞬の叫び。正気の沙汰ではないとわかっていながらも、私は淡々と作業を繰り返す。赫子の折れた喰種の逃げ惑う姿を目で追いながら、背の赫子を動かす。随分と動きはマシになったが、まだ使いこなせてはいない。獲物をしとめようと意識を集中するものの、何度も避けられてしまう。思わず舌打ちをしたその時、軋むような音とともに、やっと飛んだ首が、無様に水の中へ落っこちた。辺りに広がる嗅ぎ慣れた生臭い血と肉の臭い。都内の地下に広がる水路は、喰種の溜まり場だ。狩るのは容易だった。皆油断している。私は半分水に浸かった遺体に跨り、その荒く千切れた首の付け根を見つめた。まさか鳩だとは思わなかっただろう。自らの顔にぴったりと添えられたマスクを、そっと外した。気持ちが悪いだとか、倫理に反するだとか、そう考える領域はとっくに超えてしまった。ただ私は、腹が減っている。それだけ。
「美味いか?」
またか。私は動きを止め、後ろへと振り向く。口から零れ落ちる血を無雑作に手で拭って、口の中で小間切れになった柔らかい肉を、ごくりと飲み込んだ。
「下手クソだな。赫子の使い方。ガキみてぇだ。」
薄ら笑う青年、ラビットは、最近私の行動を観察するのが趣味らしい。事あるごとに現れては、嫌味を言うのだ。
「……うるさい。」
「腹が減って死にそう、ってか?」
「うるさい!」
「っは……怒んなよ。」
馬鹿にした乾いた笑いが響き、私は歯軋りした。まだ口の中は、生臭い血の味がする。とても美味いと言える味ではない。賞味期限の切れた、腐りかけのハンバーグを食べている気分だ。けれど、食わないよりかはずっとマシだった。
「今更共喰いか?あいつと同じことしやがって。当てつけにも程があんだろ。」
ラビットは心底苛ついた様子で吐き捨て、水に浸かった頭を一瞥した。
「……しばらく彼の班を離れる。」
ぴくりと、彼の肩が微かに揺れて、鋭い目が私を見据えた。
「 そりゃあ残念だな。」
ちっとも感情のない、薄っぺらな言葉。そしてまた、お決まりの文句が飛び出す。
「それで、いつ戻る?」
微かに目を細め、やけに真面目な顔をしている。けれど私もまた、お決まりの言葉を吐き出す。
「戻らない。まだ目的を果たしてない。」
「それはもういい。お前には無理だ。タタラが戻れと言ってる。」
「戻らない。」
舌打ちのような音が聞こえるや否や、瞬時に移動したらしい彼の身体は私の横へ。手は首へと伸び、いつかのようにコンクリートの床へと身体が叩きつけられた。抵抗する気は起きず、私に跨った青年の顔を、じっと見つめた。傷ついたような顔。気丈に見えて繊細。とても綺麗だ。
「ならお前を、今ここで殺す。」
「…………できる?」
首を掴む彼を見上げながら挑発すると、ぎゅっと眉間に皺が寄った。少し手に力を込められるが、なんてことはない。
「思い出したんだろ……?なら何で……」
小さくぼそりと呟かれた言葉。まるで少年のようなあどけなさの残る顔が、愛憎入り混じった感情を露わにしていた。
「お前も"カネキ"を選ぶのか?」
失望したような顔が、私を見下ろしていた。どこか寂しそうな、それでいて怒りを宿した目だ。
「私は彼のために生きる。そう決めた。」
「……っは、そうかよ。どいつもこいつも……クソだな。今更人間と慣れ合うのか?」
「私は元々、あっち側にいた。」
突如、彼の目が見開かれた。ぷつん、と何かが切れたように、片方の腕を大きく振りかざし、そして振り下ろす。ちょうど私の頭のすぐ横で、コンクリートの叩き割れる鈍い音がした。
「いいか、喰種になった以上、あいつらはお前を人間だなんて思っちゃいない。利用されてんだよ!お前も、佐々木も、クインクスとかいう出来損ないの喰種もな!」
開けた薄暗い水路に、怒号が鳴り響く。こんなに感情を剥き出しにして、必死に、叫ぶなんて。忘れていた記憶の中に、微かに残る言葉が、私の頭を過ぎった。
"まるで人間みたいだ"
「どっちに着くのが利口かよく考えてみろ。生き残るには、どうすべきか。どうせ用が済んだら、鳩はお前らを殺す。所詮"喰種"だ、ってな。」
きっとそうだろう。彼の言うことは正しい。本当の意味でCCGは私の味方なのか。そんなのはわかりきっている。こんな怪物、とても人間とは言えない。けれど、そんなことはどうでもいい。
「私はもう死んでる。あの時から、ずっと。」
だから、決めたのだ。目的を果たしたら、終わりにすると。この地獄のような渇きと、救いようのない記憶の断片を抱いて。
「なんだよそれ……。ムカつくんだよ……お前の、その顔……。」
彼は歯を食いしばり、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。どうしてそんな、傷ついたような顔をするのだろう。まだ思い出せない記憶の一部が顔を見せるが、また隠れてしまう。貴方にとって私は、私にとって貴方は、一体、何だったのだろう。ついに諦めたように立ち上がった彼が、踵を返して歩き出す。その後ろ姿は、どこか寂しげだった。
「また会おうね。アヤト。」
「戻らねぇなら、タタラが黙っちゃいない。」
「大丈夫。あなたは私の味方でしょう?」
「……さあな。」
去り際、少し口端を上げた彼が、私に振り向く。そしてゆっくりと、口を開いた。
「なぁ、考えたことあるか?……あいつが全てを思い出したら、どうするか。」
全てを思い出したら?そんなのはわからない。私はただ目的を果たし、彼を助け、見届ける。それだけだ。
「自分の"帰るべき場所"に帰る。……それはお前の元じゃない。」
容赦のない、冷たい言葉だ。思わず、気の抜けたように笑ってしまう。そうだ。いくら彼がこちら側と絆を結ぼうとも、20年積み上げてきた人生と、たった2年足らずの人生、どちらを選ぶかなんて、明白だ。いつか終わる。それなら、もう、準備をしておかなくちゃ。私は汚れた身体を起こし、血の入り混じった水を踏みつけて歩いた。帰る場所は、シャトーではない。
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寝耳にミサイル