予期せぬティータイム

あれから中学の卒業式まではあっと言う間だった。あの図書館の事件以来、事故や事件に巻き込まれることもなく、コンサートやコンクールの練習に勤しむ毎日。室内オケとの協奏曲のCD録音も、世間では良いネタなのか評判も良いようだった。そのため、最近の叔母の機嫌も良く......春休み以降、文和さん無しで行動できる許容範囲も広がりつつあった。
私はそれを見越して、一、二週間に一度の割合で秀一さんと逢引をしている。それも時間をずらして入退室するといった徹底ぶりである。時間と場所は彼が決めてくれるのだけれど、殆どが貸しスタジオだった。どうやら彼が日本にいた時にも時折利用していた馴染みの場所らしい。


二時間程勉強を教えて貰ったあとに次回までの宿題を出される....その後に一、二曲程の演奏を聴いてもらうというのが定着しつつあった頃。今日も彼に勉強を教えて貰える日だったため、勉強道具を入れた手提げバッグにバイオリンケースを持って移動していた最中だった。


「−−−−あれ?もしかして、緑川さんじゃないですか?」

聞き馴染んだ声に思わず肩を跳ねさせる。恐る恐る振り返れば、ニコニコと微笑んでいる安室さんの姿だった。


『えー...と、安室さん、でしたよね。』


「覚えていただけて嬉しいです。僕の連絡先をお渡ししたのに中々連絡を貰えないからーーー随分と落ち込みましたよ。」


『え、あ......すみません。丁度受験と仕事で忙しくて連絡が取れませんでした。』


「そうでしたか.....。ところでこれから如何です?一緒にお茶でも。」


『.....、これから知人と会う約束がーーー』


秀一さんとの勉強会があるため断りの言葉をかけようと思ったところ、スカートのポケットに入っているスマホが振動したため急いで確かめる。
案の定、秀一さんからのメールが来ていて、その内容は急遽用事が入ったためキャンセルしたいとの連絡だった。小さく溜息をつく。残念だが、仕方ない。


「スマートフォン、買われたんですね。」


『一応高校生になるので......。あの、今用事がなくなったので、お茶くらいなら一緒に行けますけど。』


「本当ですか?それは是非とも。」

『その代わりーー』






所変わってここは馴染みのカラオケ店。フリータイムでドリンクバーを二人分注文すると、目を点にさせている安室さんを引き連れて指定されたルームに入室した。


『ここは私の奢りなので、どうぞ?座ってください。』


「え?いやそれは僕が支払いますので.......ところで緑川さんは歌がお好きなんですか?」


『いいえ?普通です。』


私はそう言うと、テレビ画面の音を0にした。呆然としている安室さんをよそに奥の席に座ると、手提げから勉強道具を取り出す。それで合点したのだろう、ホッと息を吐いた彼も隣に座った。


「勉強ですか、受験も終わったばかりというのに偉いですね。」

『.......なりたいものがあるんです。私は人よりも勉強に費やせる時間が少ないから、少しでも時間が空いていたら勉強しないと。』

「なりたいもの、ですか。」


『そう......。バイオリニスト兼ドクター。格好良いでしょ?』



一度手を止めてから安室さんを見上げる。悪戯気に微笑んで見せれば、彼は一瞬だけ目を見開いた。


『........ところで安室さんは、勉強が得意?』


「ーーーまぁ、それなりに、」


『やっぱり!!それならここなんですけど.....』

数学Uの問題集をページを開きながら、問が途中で行き詰まってしまった箇所を指し示す。
初めは戸惑った様子の彼も、数分もすれば慣れたのだろう。私が苦手な分野を瞬時に理解するとその解説の後に類似問題や応用問題を作ってくれる徹底ぶりに、彼に秀一さんの代役を頼んだのは間違いじゃなかったと心の中でガッツポーズを決めていた。


「ところで緑川さん。」

私は出された問題の計算をしながら、口を開いた。


『安室さん....できれば名前で呼んで貰えませんか?名字で呼ばれるの、あまり好きじゃないの。』


「ーーーそれでは、小春さんとお呼びしても?」

『うん、そっちが良い。ありがとうございます。』


それで、何?と安室を見上げれば彼はニコリと微笑み、テレビの音量を上げた。何か、歌うのだろうか。そう思って彼を見やれば、彼は人差し指を口元に寄せると内緒話をするように耳元で囁いてきた。


「その、以前貴女が言っていた降谷零さんのお話しをお聞きしたいのですが。」


自身に似ているという彼のことがそれ程気になるものだろうか。そんな私の気持ちを察したのだろう、彼は真顔で頷くとたった今私が解いた解答に丸をつけてくれた。


「えぇ、もしかしたら、その彼は僕がずっと探している知り合いかもしれないので。」


正解したことに喜ぶや否や、安室さんの言葉に驚き彼を見つめる。だから、私に零さんのことを話して欲しい、そういうことらしい。でも、此方と彼方の世界は大分違う。一体どこまで話せば良いのだろう。思考を巡らせながらも、彼に倣って小声で囁き返した。


『ーーー最初に彼に会ったのは私が就学前の時。迷子になった私を家まで送ってくれたのが零さん。それ以降は何かと構ってくれたり遊びに連れて行ってくれたの。でも、歳も離れていたし....、気遣われることが多くて.......実は私、あまり彼のこと、知らないのかも。』

「.......それでは、彼の好きなものや趣味等はご存知だったりしますか?」

『え....どうだったかなぁ。一時期はテニスやボクシング、料理にお菓子づくりと色々ハマっていたみたいだけど、それが好きなのかはどうか......基本的に何でも卒なくできちゃう人だったから。』

「................」

『彼が医大生になってからは疎遠になっちゃって......再会したのはそれから数年後。親戚が入院している病院にお見舞いに行った時に既に医師となった零さんに会って............。あー、ごめんなさい、それからは分からないです。』


「ーーー今の間は?」

『や、その........』

「ーーー成る程、想いを告げたんですね。」

『え、私......声に出してました?』

「声に出してなくとも、その顔を見れば分かりますよ。とても赤くなっている。」


安室さんに指摘されてしまい、両手で両頬を覆う。自分が思っている以上に熱を帯びていて、目眩がした。


『.......でも、その時彼にふられちゃったので、その先は本当に分かりません。私が知っている話しは以上です。』


「.....そうですか。」


安室さんの言葉を最後に暫く無言が続いている。
画面からの歌声だけが響いて聞こえた。


「ーーーその、小春さんは、今でもその彼のことを?」

安室さんの言葉に考え込む。
あれから一年近くたった今、私はどう考えているのだろう。

『正直、忘れたいーーーっては思うんですけど、中々踏ん切りがつかないところが面倒なところで』

「ーーーでしたら、彼の顔とそっくりだという僕と交際してみませんか?」


安室さんの言葉に固まった。彼は今何を言ったのだろう。


『ーーー冗談がお上手ですね。』

「いえいえ、本気ですよ。」

『こんな子供相手に?.......失礼ですけど、安室さんってお幾つですか?』

「僕ですか?次に誕生日がくれば29歳になりますね。」

『へぇ....実年齢より若くみられません?』

「えぇ、よく言われます。」


『........良いんですか?未成年との交際がバレたら.....安室さん、捕まっちゃいますよ。』


「交際を前提とした僕の身の振りを心配をするくらいですから、交際自体は可ということです?」


『.................』


「児童福祉法34条1項6号による児童に淫行を“させる”行為、青少年育成保護条例による青少年に対する、淫行・わいせつ行為をしなければ、捕まることはありませんよ。」


『ーーー......』

「つまり、未成年の君に手は出さないということ。それで法律上は問題ないはずです。」


『ーーー.......』


「まぁ、でも君は有名人だし、僕としても職業柄、下手に注目を浴びるのは避けたい。できれば会うのは室内で、室外で会ったとしても他人のフリをして貰えると助かります。」



ーーー秀一さんといい、今、そういったお付き合いが流行っているのだろうか。そう思うと溜息をつきたくなる。


「どうかしましたか?」

『ーーーいえ、大人ってズルいなと思いまして。』

そう言うと、安室さんはニコリと微笑んだ。そうそう、と言葉が続けられる。


「降谷さんについてですがーーー」

『零さん?』


「はい。小春さんの話しを聞いて思い出したのですが、彼は今悪い組織に狙われているんです。勿論、とある機関で然るべき保護は受けているようですが。」


『ーーー零さんが.......』


安室さんのその言葉に目を見開いた。

『零さんは無事なんですよね!?』

私は安室さんの袖を掴むと彼を見上げる。彼は一瞬息を詰めると、ゆっくりと吐き出した。

「今の所は。彼の存在がきちんと隠されているので。ですが、情報が出回ったらどうなるかは分かりません......ですから、今後一切、降谷零という名前を口に出さない方が賢明ですよ。」


『ーーー分かりました、今後彼の事は口にしません。その代わり....』


「その代わり?」

『安室さんが知っている零さんのコト、時間があった時に教えて貰えませんか?どんなことでも良いんです。口外は絶対しませんから。』


「忘れたがっていたのでは?」

『忘れたいですよ。なのに、そっくりな貴方が目の前にいたら、いつまでも忘れられないと思いません?』

「だからこそ、上書きできるのでは?」

『.........それは』


そう簡単にできるものだろうか。言葉を止めた私に呼応するように、顎に指を添えた彼は考えこむ素振りを見せる。他の男にご執心な貴女に少しやけますね、と言葉の割に笑顔を向けてくる安室さんが嘯いているように見えた。どうせ、大人の戯れだろう。こんな小娘をからかって楽しいのだろうか。


『ーーー本気でそう思われたのだとしても、貴方のようなズルい大人には丁度良いんじゃないですか?』


それに貴方のお誘いへの返事はまだしてませんから、そう言う私の言葉を聞いた彼は一転して苦笑を零した。
それを横目で確認すると、笑顔を貼り付ける。






『交際の件ですがーーーとりあえずは、そうですね.....友達兼先生ということでお願いします。』

「友達....兼、先生?」


『安室せんせー、私に勉強教えてください。よろしくお願いしまーす!』


「..............」



彼の知識や教え方の上手さは何とも捨てがたい。交際するかどうかは、もう少し仲良くなってから判断することにした。

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