懐かしむ。
――――――――…

Gと雨月は、広いキッチンに腕まくりをしながら一人立っているジョットの姿を見ると、目を丸くした。
この屋敷は万が一を想定し、ボンゴレの幹部などといった限られた者以外の出入りを禁じている。そのため、コックや家政婦といったものは雇わず、家事はほとんどGや雨月が行っていた。
その二人が、ジョットの料理をしている姿を見たことがないというのだから、これは本当に異質な光景なのだ。

少し焦げ臭い匂いは、気のせいであって欲しいと思うのは一体誰の祈りであろう。
何やら上機嫌にお玉で銀製の鍋を掻き回している我らがボスに、勇敢にも右腕兼幼なじみであるGが声をかけた。


「…プリーモ。」


Gの呼びかけに、ジョットは腕を止めることなく「ん?」と返事を返す。


「何も食べたくない…というより食べれないだとよ。」


誰が?と聞かずともジョットにはその主語を理解して眉を潜める。その様子が、背後から伺っていたにもかかわらず、Gと雨月には手にとるように伝わった。


「―――理由は?」


ジョットの静かな声色に、雨月がGに先程説明した通りの内容を述べる。

そして、話しながらも雨月は考えていた。Gは賢い。さすがはボンゴレボスの右腕と称されるほどの頭脳の持ち主であることは理解している。けれど、そんな彼でさえ彼女が話した一言に首を傾げていた。国特有の思想は他国には理解しがたいものであることは、雨月自身、身を持って知っていた。
言葉、服装、食べ物…その全てにおいて国特有の文化がある。正直、日本人である雨月でさえ真の意味を理解できるかといえば、首を横に振る。古代日本人の思想をイタリア人であるジョットはどこまで理解できるだろうと雨月は考える。それはつまり、あの少女をどこまで真に理解しているか…ということに繋がるのではないかと心の中で予想していた。



「………そうか。」


しかし、ジョットはそれきり言葉を紡ぐことはなかった。手を動かしながらも思案気に物思いに耽っている。
一方で先程よりも強くなる焦げ臭い匂いに、堪らなくなったGは火元を消した。


「………何をする。G。」


「"何をする"じゃねーよ、プリーモ。いつまで煮込む気だ?何を作ってるのかは分からないが、中味、焦げてるぜ。」


「……………あ。」


ジョットの隣に回り込み、雨月が鍋の中を覗きこむと…そこには多少焦げているものの、自国で見慣れたものが湯気を立てていた。


「プリーモ、それをどこで―――?」


ジョットは懐から小袋を取り出して握りしめた後、雨月を振り返り、微笑みを浮かべた。


「………秘密だ。」






――――――――…



「―――#仁菜#、起きれるか?」

心地好い声色にあたしは浅い睡眠から覚醒する。甘い香りと共に少し焦げた匂いがした。


『………じょっと?』


ジョットがあたしを覗きこむように見ているせいか、夕日に輝く稲穂のような瞳が直に目に入る。
覚醒してまだ間もないからか、それとも熱に茹だされているからか…定かではないけれど、頭に白い靄がかかった状態の今、純粋にその綺麗な瞳の色に見惚れた。


『……、』

「#仁菜#?」


あたしが"何でもない"と首を横に振ると、ジョットは少し苦笑しながらもあたしの頬を撫でてくる。文化の違いだろうか、ボディタッチが多いなと心の隅の隅で思った。きっと外国の文化所以だろうけれど、日本ではあまり考えられないと思う。
軟派な男でなければ、という条件つきで。


「食事を持ってきたんだ。少しで良い…食べてみないか?」


『………。でも、』


あたしはジョットから逃げるように視線を反対側に反らす。
ジョットがあたしの身体を案じてくれているのは十分に分かるけれど、その一方であたしの心の中は不安で満たされていた。


あの世界であたしのことを待ってくれている人はもういない。それでも、頭の中で占めているのは、帰れなかったらどうしようという漠然とした心配と、どこで聴いたのかは定かでない…けれど強く耳に残っている日本書紀の物語だった。



「#仁菜#…」


左手に温もりを感じた。そこを見遣ると、ジョットの両手が包みこむようにあたしの手を握っている。
どうしてかは、分からない。
けれど、その温かさに酷く安心した。



「心配しなくても、大丈夫だ。」

『………?』


「お前に誓おう。必ず元の時代に帰す、と。」


ジョットの背後で息を呑むような音が聞こえて視線を向けると、そこにはグースカ寝ているランポウの他に、刺青さんと雨月さんが目を見開いたまま固まっている。
驚きで言葉を失う、ということはこういうことなんだなと改めて実感した。

それから、あたしは真っ直ぐジョットを見つめる。


『どうして、それを?』


あたしはまだ、彼らには言っていないはずだ。それなのに、どうして彼は知っているのだろう。


「一つは#仁菜#を保護した研究所と組織の調査結果が出たこと。そのため、奴らの目的が分かった。もう一つは………俺自身の能力を総じて、だな。」


『能力?』


「あぁ。超直感――簡単に言えば、勘が鋭いんだ。昔から。」


『………へぇ。』

「…疑ってるな。では、俺を試してみると良い。」


クスクス笑うジョットを尻目に、あたしは素直に頷いてみせた。
勘なんて…そんな不確かなものであたしの秘密を知られたとなれば堪ったものじゃない。




『じゃあ、あたしの好きな…食べ物は?』


一度手を離してジョットはあたしの頭の上に手を乗せると微笑みながら「アサリと卵。」と即答された。

『好きな果物は?』

「柑橘系。」

『……。好きな色は?』

「黒。」

『……。好きな季節は?』

「春の初め。と、初雪頃か。」

『……好きな場所は?』

「…そうだな。日だまりができた芝生とか高い場所、それに海辺か?…風が吹く場所ならどこでも好きそうだ。」

『……。』

「他には?」


『…………。完敗です。貴方はあたしの専門家か何かですか?』


あたしの言葉に「そうなれるよう努力する」と嘘か本当か分からない冗談を返されつつも、ジョットの手はあたしの背中を支えて起き上がる手伝いをしてくれた。




「……プリーモ、ちょっと良いか?」

「……ん?なんだ、G。」


「ジョット、ひとまずここは私が。」


刺青さんがジョットを呼び止めると、代わりに雨月さんがあたしを支えてベッドの隣に備え付けてある高級感溢れる小テーブルを準備してくれた。そこに置かれている鍋からは、焦げ臭さも混じってはいるけれど、それよりも懐かしい匂いが溢れていて思わず首を傾けたくなる。


『…イタリアですよね?ここ。』

ジョットと刺青さんが部屋を出ていくのを視界の隅で感じつつも、あたしの視線は、雨月さんの手で小皿に取り分けられる食べ物に釘付けだった。よそいながら、雨月さんも笑っている。


「毎回、プリーモには皆驚かされるでござるよ。一体どこで学んだのやら。」


『え…もしかして……ジョットの手作り!?』


ニコリと笑って、雨月さんはあたしの手に小皿とスプーンを渡す。少し焦げたそれは"お粥"だった。そして、その色は黄色。匂いから薄々感ずいてはいたけれど…それはおそらく卵粥だ。
具合が悪くなった時、落ち込んで食欲がなかった時…我が家での養生食は常にこれ。
元気だった頃の母が、よく作ってくれていた思い出の料理だった。

ホカホカとまだ暖かい粥をスプーンで掬って、息を吹きかけながらゆっくりと口に運ぶ。
同じような速さでもぐもぐと咀嚼してから、ゴクリと飲み込んだ。

懐かしい。すごく懐かしい味。
母さんが入院してから、毎日勉強と家事に追われてて…体調が悪い時はお粥なんて作ってる余裕もなくて、一人寝ているだけだった。

「味は如何程でござるか。」


『あ…とても美味しいです。ちょっと焦げてるけど。』


「それは恐らくプリーモが土鍋を使い忘れたせいかもしれないでござる。」

『そうなんだ…でも、嬉しいです。すごく。まさか、イタリアでお粥を食べれるとは思わなかった。』

「プリーモが聞けば、きっと喜ぶでござろう。彼は何も食べたがらない#仁菜#を酷く心配していた。」


クスクスと控えめに笑う声が、頭の上で聞こえた。



『………。』


「―――#仁菜#?」


徐に雨月さんに呼ばれて顔を上げると、彼は眉を潜めてこちらを覗きこんでいる。顔に何かがついているのだろうか?とあたしは、彼の視線を辿るように手の平を頬に添わせると……そこはしっとりと濡れていた。


『………え?』


驚いた。
拭いても拭いても、ツー…と次から次へと涙が流れ落ちてきて、困惑した。

最悪だ。


過去の思い出に涙を流すなんて、これじゃあ、まるで悲劇のヒロインだ。可哀相な自分に酔っているみたいで、嫌になる。
そんなシチュエーション、あたしには似合わないし、必要ないのに。



『ご、ごめんなさい。あ、あれ?…目にゴミが入ったのかな。』


じっと雨月さんに見つめられる視線が、とても恥ずかしい。

苦しい言い訳と、泣き顔を隠すようにもう一口お粥を口の中に入れた。また、懐かしい味がじわりと口の中と思い出を犯す。

涙腺をコントロールすることが、こんなにも難しいことだとは思わなかった。



「……。それは大変。では私は、鏡を持ってくるでござる。恐らく自身で見ながらの方が取りやすい。」


『……え?』


あたしは驚いて、思わず彼を見上げた。雨月さんは、あたしの顔をもはや見てはいなく、思案気に宙を見上げている。



「――しかし、私の部屋はここから少々遠いな。できるだけ涙でゴミを洗い流して待っていて欲しい。」


『……あ、あの…。』


言うだけ言って、雨月さんは部屋を去っていってしまった。
部屋には、ランポウの気持ち良さそうな寝息が聞こえる。


『……どうしよ。』


目にゴミが入った、なんて言い訳、彼は信じてしまったのだろうか。だとしたら、申し訳ない。
けれど、彼が出ていってくれたことで少しホッとした部分もあたしの中には確かにあった。


『……ランポウ、起きてる?』


「…グガー…グガー…」


『……。』


あたしは一度、小皿とスプーンを小テーブルに置いてからベッドの上で両足を抱えてうずくまる。
ランポウは起きる気配がない。
雨月さんも、目に入ったゴミを流すために涙を流して待っていろと言っていた。

………その偶然が、今は有り難い。




『………母さん…なんで死んだの?』


母さんが死んだ時、あたしは暗闇に一人置いていかれた気分だった。
無条件で愛してくれる。喧嘩しても怒られても、絶対にあたしを嫌わないでくれる。守ってくれる。あたしにとって、とても大きな存在だった。
だからこそ、このどうしようもない絶望感に押し潰されそうになる。


『会いたいよ…母さん。』



あたしは、ランポウを起こさないように気をつけながら嗚咽を殺して涙した。






―――彼がくれた懐かしい味。
それは、温かくも苦しいものだった。




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