静かな深夜

――――――…

真夜中。
机の上に置いてある火の灯ったランプの微かな明かりを頼りに、英字を読み取る。

持参していた医学英和辞典で調べながら重要な所を羊皮紙に書き写していった。


『…意識障害の重要な原因疾患は、あいうえおちっぷすだから………alcohol、insulin、uremia………え、electrolytes?だよね。確か。…oxygen、overdose…………』


ここら辺の知識は、どうやら共通のようだ。



『意識障害の患者の呼気から、アルコール臭がすれば酩酊…尿臭がすれば尿毒症…フルーツ臭がすればケトアシドーシスか有機溶剤中毒…かび臭いなら肝性昏睡…ニンニク臭いなら黄リン中毒かヒソ…腐った卵なら硫化水素中毒………。』


ここまでも大丈夫。授業でも習った内容だ。


『…海水の臭いがしたらタルタレス中毒?タルタレスって何……。』


ローさんから借りた医学書を時間を見つけては読んでいるのだが、今まで聞いたことがない単語がでてくることが多く…なかなか読み進められずにいた。
とりあえず…、分からないところを紙にメモしてから次のページへと進める。


『…ALS(筋萎縮性側索硬化症)の…外科的…治療法として……ってちょっと待って、この世界では治療法が確立しているってこと?私達の世界では明確な原因すらまだ特定されていないっていうのに…』


その代わり感染症に対する予防や治療、周産期・新生児医療等はこちらの世界ではまだそれほど発展しているわけではなさそうだ。つまりは疫学や先天性疾患に対する医療的介入が少ないのか…それとも単に関心が低いのか。


ページを読み進めていくにつれて、ついに耳鼻科領域の項目に入った。


『―――っ!突発性難聴…の外科的……治療法……?』


思わず二度見してしまった英文。ありえない。眩暈に対する外科的療法ならまだ分かる。眩暈を改善させる代わりに、聴力を低下させるリスクのある手術だ。けれど、これはそんな手術ではない。一度失った聴力を…手術によって回復させるなんて。そんな方法があるなら、補聴器なんて必要ない。


『……成功率は30%……リスクとしては完全失聴、最悪―――死に至る…』


……リスクとしてはまぁ妥当だろう。脳を弄るのだから、感染対策がしっかりしていないこの世界では術後管理が難しいのかもしれない。

両腕を枕にして机に突っ伏して目を閉じる。少し休憩をしよう。


『……それにしても、30%かぁ。』


低い。だからこそ、ローさんは私にこの手術のことを教えなかったのだろう。


"お前の耳は、まだ機能してるんだ。うまく使え…。"


少しずつまどろんでいく中で以前ローさんに言われた言葉が、頭の中に緩やかに浸透していった。






――――――――…



目を開ける。少しの休憩のはずが、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。


『……今、何時だろう?』


部屋にある窓から外を見遣っても、辺りはまだ真っ暗だ。どうやら思ったほど時間が経っていないらしい。


身体を起こして少し伸びをしたところ、肩から何かがズレ落ちる気配がして、それが完全に落ちてしまう前に掴みとった。


『……上着?』


紺色の上着が私の肩にかけてあった。机の上を見ると、私が"タルタレス?"と書いたメモ紙の隣に"タルタレス……海王類の一種。遅延性の毒を含む分泌物を持つ。数日かけて昏睡状態に陥り、未治療の場合は死に至る。ただ眠っているだけのように見えなくもないため、鑑別要"という文字。
さらには、私がまだ到達していない医学書の後ろのページの方に伏せんが貼ってあり……開いてみればタルタレスに対する鑑別方法と治療法が載っているようだった。


十中八九、ローさんだろう。
いつの間に私の部屋に来たのか。それは分からないけれど、どうやらまた彼の手を煩わせてしまったようだ。
次の島が近いのか、気候は安定し始めているようだが…日が暮れてから夜明けまでは確かに肌寒く感じるこの頃。
せっかく、ローさんが上着をかけてくれたのに風邪をひいてしまっては益々申し訳ないため、ホットミルクでも飲んで暖まってから眠ろうと…部屋を抜け出した。




『―――リース君?』


キッチンでは、まだ起きていたらしいリース君が分厚い本や紙を広げていた。
私に気がついたらしい彼は、口をパクパクとしている。


『……え、とごめんね。ちょっと待って…』


ポケットから補聴器を取り出すと耳にかけて調整する。リース君の傍までよると口を開いた。


『……ごめんね。補聴器、外してたの。まさかこんな夜中に誰かがいるとは思わなかったから。』


「…大丈、夫です。ナツミさんは耳が…?」


『うん、去年からね。これがないと殆ど聞き取れなくて。』


「そう、なんですね…」


『うん……』

「………」

『………』

「………」


リース君が沈黙してしまったため、私は話題を逸らそうと机の上を見遣った。



『……偉いね。こんなに遅くまで勉強?』


見れば、今まで見たことがない文字の羅列だ。


「…え?あぁ。そうですね。古代文字の解読です。」


なんてことないように、彼は言い放った。古代文字については、この間ペンギンさんにどういうものか教わったばかりだ。


『…古代文字って……あの禁じられている…?じゃあ、リース君ってもしかして…』


「はい。いつか……いつか世界中に散らばったポーネグリフを見つけて…この空白の百年で何があったのか―――それを解き明かすのが、僕の夢です。」


『………そっか。』


「……ナツミさん?」


『夢、なんだね。』


「はい。」


じゃあ、もしかしてあの指輪もその解読に何か関係があったのだろうか。私はそう考えると、静かに頭を下げた。



『リース君、ごめんね。あの琥珀の指輪…、ナチュリ島で見つけたんだけど―――』


「あぁ、ローさんが預かってくれてるんですよね。僕としてはその方が助かります。」


『……助かる?』


「はい。あの指輪は一つだけではないので……王都カルディナに着く前にもう二つを見つけないと。僕が持っているより、強いロー船長が持っていてくれた方が安心です。」


『……他にも誰か、その指輪を狙っているってこと?』

「………」


リース君は無言だったが、それが何よりの答えだった。そういえば、ナチュリ島では燕尾服の男も必死に取り返そうとしていた。



「……女王様を助けたいんです。」

やがてポツリと呟いたリース君の言葉に注意深く聞き取る。


『……カルディナの?』


思わず眉をひそめる。
暴政を奮っているとは、言わずともリース君に伝わったらしい。リース君は悲しそうに眉を八の字にした。


「………新聞ではいろいろ言われているみたいですね。でも、女王様は本当は優しい方なんです。」



『――何か、理由があるのね。』

「………はい。」


それからリース君は勢い良く頭を下げた。



「…ごめんなさい。あの時、焦っていたとはいえ、僕は貴女を傷つけた。」


彼が言っているのは、ナチュリ島での出会いのときのことだろう。

『…ただ掠っただけだよ。もう殆ど治っているし、気にしないで。』


「ですが…」


『………分かった。じゃあ、代わりに敬語、止めて?他の皆と同じように接して欲しいな。』


「…。」


『……ダメかな?』



「ううん。でも、それだけじゃ――――」



それでも尚も食い下がるリースに対して思考を巡らせたのはほんの少しだった。


『――――…。じゃあね、ホットミルクいれてくれる?勿論二つね。それとちょっとだけお話に付き合って欲しいな。私、リース君ともっと仲良くなりたいの。』


微笑みながら言うと、リース君は一瞬呆けてから何度も頷いた。
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