第一の課題
「ナツミ、どうしたの?」
『あ…ベポか。特に何でもないんだけど、みんながちょっとね…』
どことなく、ベポとリース君以外のみんながよそよそしい。朝、起きた時、どこか船内の雰囲気がいつもとは違うような気がした。
『えーと、ローさん…もう一度言ってもらえますか?』
「――これから、おれに、点滴をしてみろ。」
翌朝(といっても太陽は既に高く昇っていて、昼に差し掛かっている時間だが)、ローさんに上着を返しに行けば…一言めに言われた言葉だ。どうやら、私の補聴器はちゃんと機能していたらしい。
『……。』
「……。」
『どこか具合でも悪いんですか?』
「いや、特に問題はない。だから、今回は生食を使う。」
まぁ確かに…生理食塩水なら、害はないだろうけど。
「医者になりたいなら、点滴くらいできて当然だろ。」
『確かにそうかもしれませんけど…』
「良いから、練習だと思ってやってみろ。」
『……本気ですか。』
「――当然だ。」
『あの…私、今まで一度も刺したことないんですけど…。』
私がそう言うと、ローさんは溜息をついた。
「……そのための練習だ。」
『………』
「………。」
『………分かりました。』
根負けした。用意されてある、点滴セットを見遣る。ライン(管)に付いているクレンメ(滴下速度を調節する部位)を閉じてから、300ccの生食が入っているボトルにライン先の針を刺す。それと反対側のラインには翼状針(実際に刺す針)をつけて点滴筒に液を落としてから、クレンメを開いて管の中の空気を抜いた。……って…あれ、タコ管がな…い…。
「意外と手際が良いな。」
黙って作業を見つめていたローさんが呟く。
『――以前入院した時に、看護師さんに見せてもらったことがあるんです。実際にしたことはないけど。……それより、この管にタコ管がついていないみたいですけど。』
「……タコ管?」
『えーと…万が一、管にある空気が血管に入らないように、空気を貯めておく空間?って言えば良いのかな……。』
「………成る程。確かにそういった空間があれば安全性も増すな。今度、器具を買うときに注文してみるか。」
『…。つまり、完全に空気を抜かないといけないわけですね。』
「そうなるな。」
ラインから空気が抜けたことを確認してからクレンメを閉じる。
「とりあえず、血管を探してみろ。」
『…はい。』
ローさんの左腕を拝借し、駆血帯で縛ると、私が何も言わずとも左手を握ってくれた。
すると太い血管が浮き上がる。
すごい。分かりやすい。これなら刺しやすそうだ。
『……良い血管してますね。』
「そうか?…とりあえず、正中静脈を探してみろ。意外に太く、血管も逃げにくい。」
『はい。』
ローさんの肘の丁度曲げている所を触っていく。
『このあたりですか?』
「あぁ、そこで良い。」
アルコール綿で消毒してから、翼状針の羽をトンボの羽を持つような感じで持つ。
『………っ』
幸い、ローさんの血管は分かりやすい。けれど、緊張のためか、針先が先ほどから揺れていてうまく狙いが定まらなかった。
「…落ち着け。針を持っている手を上手く使うと良い。小指を少し開いておれの腕に乗せれば、多少は安定するはずだ。」
『はい。』
ローさんの言う通りにしたところ、何とか震えはおさまった。後は、刺すだけだ。
すー…はー…と何度か深呼吸をしてから針をゆっくりと刺していく。
『…痺れとかありますか?』
「…大丈夫だ。そのまま針を進めてみろ。」
『はい。』
ラインには血液の逆流が見られた。どうやらうまく血管に入ったようだ。
駆血帯を外し、ローさんの握られている拳を解く。クレンメを開き、生食の滴下が良好であることを確認してから、テープで固定した。
そして、すべての手技が終わったことを確認すると、目の前のローさんの顔を窺う。
『………ど、どうでしょう?』
「…あぁ。初めてにしては上出来だな。良くやった。」
ローさんの言葉にホッと息をつく。ようやく緊張の糸が解けたような気がした。
『でも、入ったのはマグレのような気がします。次は失敗しそう。』
「当然、ビギナーズラックもあるだろうな。だから、これからその"偶然"を"必然"に変えていく。」
『………え?』
「―――次の課題だ。次の島に着くまでに、この船に乗っている奴ら全員のラインを採っておけ。勿論成功するまでだ。」
ローさんの言葉に一瞬頭が真っ白になる。
『全員って……アザラシさんとか……リース君とかも、ですか?』
「あぁ。プレッシャーに強くなるし、ガキ相手の練習にもなる。」
『……もしかしてベポも?』
「あー…アイツは抜きで良い。ベポ以外の奴らだ。」
『………』
「因みに他の奴らには既に言ってある。――――お前の練習台になれってな。」
『……』
…だからか。今朝からアザラシさんには訳もなく睨まれるわ、シャチからは逃げたくても逃げられないというどっちつかずの態度を取られるわ………。どことなく距離を置かれてしまったような気がして、少し落ち込んでいたのだけれど。それは皆警戒するはずだ。
『……ローさん、因みに次の島に着くのはいつですか?』
「明日だな。」
『そう……って。え!?明日!?』
「あぁ。だから急いだ方が良い…。ラインを取れなかった奴は島に滞在中、船内でバラバラになってもらう予定だからな。」
ローさんの口元が上がる。
対する私は、身体中の血の気が引いていくような気がした。
「…お前も、恨まれたくはないだろ?」
私は急いで必要な器具をカゴにいれると、ローさんの部屋を飛び出した。
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輸液は本当、数をこなすしかないです。