二つの思考回路

――――――

素早く創部を切り開く。真っ赤な鮮血が溢れ出したが、それに動揺している暇はなかった。今は一刻も早い処置が必要なのだから。


ピンセットで、創部から異物を取り出す。硝子の破片だった。恐らく、これが破傷風の原因になったのだろう。


『……。』


硝子をシャチが持っている膿盆に捨て、周囲の壊死組織を取り除くと、液で創部を洗浄した。それから、被覆材で創部を覆い、大量投与するペニシリンの準備を始めた。


その時だった。ペンギンさんがどこか焦ったように紙を渡してくる。


"傷口を塞がなくても良いのか"


『状態が安定するまでは、ね。まだ菌が残っている可能性もあるし。』


手を休めずに、作業を続けた。
ペニシリンを、生食に溶解して輸液セットを繋げていく。
まさか、こんなところで…しかもこんなすぐに、ローさんから出された課題の成果を示さなければならないとは思いもしなかった。


『………』


今度は、シャチから紙が渡される。

"おいおい、1000万単位も投与するのかよ?濃度大丈夫か?"


『…大丈夫。ローさんの指示もあるし。そもそも大量投与で点滴する必要があるんだから…一時間、かけてね。』


針をお婆さんの正中静脈に刺すと、計算した滴下速度を合わせた。それからTIGとトキソイドをアンプルから二本の注射器に別々に吸い上げる。それから、お婆さんに筋注(筋肉への注射)としてそれぞれ打った。


"それって、予防接種とかで使う薬か?"


ペンギンさんの言葉に頷く。


『TIGは、血液中の破傷風毒素を中和してくれるの。…すでに神経に結合してしまった毒素には意味ないんだけどね。』



あとは痙攣対処として、ジアゼパムを投与したら…とりあえずは一段落だ。
薬と一緒に出てきた濃度の指示票を見ながら、安堵の溜息を漏らす。


正直薬剤の量までは自信がなかったため、ローさんには感謝してもしきれなかった。




――――――…


アザラシは大きな溜息をついた。目の前にあるのは海軍支部。その様子を伺いながらも、耳は別の所に集中していた。


「…結局あの子、治療し始めましたよ。」


アザラシの言葉に、ローは腕を組み直し瞳を閉じると微かに笑った。


「―――だろうな。」


「…僕が釘を刺したのに全然聴きやしないんですから。自分の身も満足に守れないくせに。」


「……。」



「それに、補聴器無しの時は発声も拙かったくせに、治療時は饒舌って…何なんですか、アレ。」


くつくつとローが笑う。




「―――難聴が気にならない程、必死なんだろ。」




「必死って…もっと自分の身についても必死になってもらいたいですね。」


「……まぁ否定はしないが。
――――アザラシ。お前はアイツの世界について何か聞いてるか?」


「あの子の?――いいえ。」


「―――随分と"恵まれた"環境にいたようだ。他人に命を狙われる危険もめったに無かったらしい。」



「………だから、あんなに平和ボケしていたわけですね。」


「…どうだろうな。ただ、アイツとおれ達は育った環境が―――そもそも違う。それは確かだ。」


「…………船長は、それを理解しろと?」


「―――アイツもこの世界に、いずれは染まる。むしろ染まらざるをえねぇ、と言った方が良いのかもしれないがな。」


「…………」



「勿論、不利な面だけを持っているわけじゃない。ペンギンとの勉強会では、なかなか面白い話しをしている。お前も今度聞いてみると良い。」


「…面白い?」


「あぁ。…例えばだが―――アイツの国では全ての国民が平等……奴隷もいなければ、絶対的な悪も正義も存在しないという話。」



「―――は?奴隷がいない?」



「面白いだろ。アイツにとってはそれが当然なんだ。」


「………っ」


「天竜人、世界政府、絶対的な正義を掲げる海軍…。この世界とはまた違った価値観を持つ世界にいたアイツにとって――この世界はどう映ってるんだろうな。」


「………。それは僕には分からないですけど、もしそれがこの世界の"常識"に相反する思考や価値観の持ち主なら、この世界にとっては脅威かもしれませんね。本人にはその自覚がないみたいですけど。」


「そうだな。」


「……。その自覚をしない限り、早死にしますよ。確実に。」


「……。心配か?」


「………、一応、仲間なんでしょ。あの子も。」


アザラシが不満げにそう呟くと、ローは緩やかに視線を合わせてくる。彼はどこか楽し気に笑うと、片眉を上げた。



「……お前にしては素直だな。もっと捻くれた答えが返ってくると思っていたんだが。」


「………。別に。…ただ、あの子は図太いし、鈍いし、一々面倒ですけど…………まぁ馬鹿ではないですし。使えるものを有効利用したいだけです。」


アザラシのどこと無く歯切れの悪い物言いに、ローは静かに笑う。


「……そうか。」


「まぁ、でも船長程ではないですけど。…現に、僕は船番じゃなくて、今だに貴方と行動しているんですから。」


アザラシの言葉に、ローは腕を組み直す。今日はまだ音玉は鳴らされていないようだった。


「……念のため、だ。」


「随分過保護ですね。…それに、いつの間に仕込んだんですか?治療薬の指示書なんて。あの子、治療法自体は知っていたようですけど、薬の単位までは流石に無理だったでしょうね。」



「―――夕方の集合直後だが、まぁ最初はそんなもんだろ。もう少し経験を積めば、自分で単位も決められるようになる。……それまではみっちり指導してやるさ。」


「……楽しそうですね。それは、師匠としての配慮からですか?船長はあの子を随分と気に入っているみたいですけど。」


アザラシの言葉にローの思考が停止するが、すぐに我に返って言った。


「………さぁ、どうだろうな。だが、おれはアイツを育てるのも悪くねェとは思ってる。」


「……ふぅん。」


ローははぐらかすように視線を逸らすと、目の前の海軍支部を覗きこんだ。
ペンギン達からの報告を受けてから、妙にひっかかっていたことがある。海軍だ。この島の医療に対する排他的な慣習ははっきり言って異常である。

世界中に散らばる海軍は各々情報を共有している中で、数年前から起きている魔女狩りという見せしめ行為。この島の主導権を担う内部の海軍はともかく、それなりに客観的な判断をくだせる外部の海軍すら、何も対処をしないという有様。




「……おれ達海賊に構っている場合か?」



ローはニヒルに笑う。
何かあるな、彼はそう確信していた。






―――――――…





全ての処置を終えた時、リース君が部屋に入ってきた。
何事かと見遣ると、彼は早口でペンギンさんやシャチに話している。ペンギンさんはリース君の話しを聞きながら、私にも分かるように紙に書いてくれていた。


"さっきのガキの両親が、呪術師を連れて戻ってきたらしい。この状態を見られるのはマズイな。"


ペンギンさんの文字を読み、私はお婆さんの全身を見遣る。彼女は発熱もしていたため気を失うように眠っていた。

状態は落ち着いている。
けれど、いざという時に対処ができるように、未だに傷口は閉じていなかった。


困った。
このままでは、リース君もペンギンさんも、シャチも、危険に晒すことになる。


音玉を強く握りしめると、私は意を決して話した。



『リース君、シャチ、ペンギンさん…皆は逃げて。』


私の言葉に各々目を丸くしている。三人とも口をパクパクとしていた。


『このままじゃ、四人が全員……捕まってしまう…。』


ペンギンさんが、紙を渡してきた。
そこには"なら、ナツミも一緒に。"という文字がある。


『それはダメ。……こんな状態のお婆さん、放って逃げるなんて……できないよ。』



"なら、おれ達も残る。仲間だろ。お前を見捨てて逃げたくない。"



ペンギンさんの文字を見つめてから、三人の表情を伺う。
ペンギンさんの言葉を聞いた二人は、当然とばかりに各々頷いていた。




『………みん、な。でも、』


私が言う前に、リース君が扉を振り返る。彼だけじゃない。
シャチやペンギンさんもだ。


恐らく、三人の耳には扉の向こうの足音が聞こえているのだろう。
私はただ、黙って成り行きを見守っていた。



ゆっくりと扉が開いていく。
シャチとペンギンさんが扉の両脇に立つと臨戦体制に入っていた。


…見られても、相手が気を失えば問題ないとでも言うように。
いくら優しくても、やはり考え方は海賊だ。


そして、それをある程度は許容してしまっている私も、それなりに海賊色に染まってしまっているようだった。



扉が全て開ききった。
そしてゆっくりと部屋に入ってくる影。



『「「「………っ!」」」』





そこに現れたのは、思いもよらない人物だった。
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