トラウマの落下

――――――――…

宿の主人から借りてきた長いロープを、近くに生えていた頑丈そうな木に縛りつける。
ロープの先を崖下に垂らせば、地面のやや上で止まった。
思ったよりも崖は深いようだけれど、まぁなんとかなるだろう。


『―――よし!チャチャっと行ってくるから、リース君はここで待っててね。』


けれども、そう言った瞬間に右手を軽く捕まれた。傷口のせいか、ピリピリと僅かに痛んだものの、耐えられないほどのものではない。下を見やれば、リース君が体を震わせながらも口をパクパクしていた。


ぼ、く、が、い、く


そう言ってくれているようだ。



―――――――



『――気持ちだけ受け取るね。』

ナツミさんが微笑む。
だって、彼女は両掌に傷があるのだ。軽く僕が右手を握っただけで痛そうだったのに(そしてそんな手の状態の中、僕のためにお握りを作ってくれたことに感動したんだけど)、この崖をたった一本の綱で降りるなんて無謀すぎる。



『………それに高い所、苦手でしょ?リース君。』


「…………」


どこか気遣わし気に、視線を合わせてくれたナツミさんから少しだけ逸らす。くそ、それもこれも全てはナチュリ島でのシャチの悪ふざけのせいだ。


「……別に苦手じゃないよ。」


再度崖下を見遣ると、身体から血の気が引く。自分の意識とは裏腹に、脚が小刻みに震えているのが分かった。

けれど、決めたんだ。
強くなるって。


顔をあげると、真っすぐにナツミさんを見つめた。


貴女、を、ま、も、り、た、い


できるだけ、ゆっくりと言ったつもりだった。ナツミさんを見遣れば、それが伝わったようで黒真珠のような瞳が更に大きくなっている。


してやったり、の顔で綱を掴めば、後ろからガバリと柔らかくも温かなものに包まれた。



『……おませさんめ。』


耳元で呟かれた言葉はナツミさんのもので、顔が熱くなる。



『今回はリース君に任せるよ。……でも、焦らなくて良いんだからね。』


「………?」


『そんなに急いで強くならなくても良いんだよ。』


「…………。」


ゆっくりと後ろを振り返る。
そこには悪戯気に微笑むナツミさん。


『だって、私だってリース君を護りたいんだもん。あんまり強くなられたら、私の出番がないじゃない?』




僕がしっかりと綱を持っていることを確認すると、ナツミさんは静かに背を押した。


気をつけて。レッド・サローを頼んだよ。

そう呟いた彼女の背には、いくつかの黒い影が見えた。


「―――ナツミさん!」



急いで彼女の名前を叫んだものの、既に僕の身体は傾いていて慌てて綱を掴み直す。


ザザザザという摩擦音。
あのもう二度と味わいたくはなかった、不快な浮遊感。
両掌と綱が擦れると、火傷をしたかのようにヒリヒリと痛んだ。



「―――っくそ!」


崖の地肌を脚を使って擦らせれば落下の勢いは収まり、落ち着いた時には既に崖から半分程度のところまできていた。


頭上からは、ナツミさんのものではない高い声色が微かにする。あの海賊の残党だったのだろうか。そして、ナツミさんはそれらの接近に気がついていたのだろうか。見上げれば、こちらを見下ろしていたナツミさんの視線とかち合った。


「……ナツミさんの馬鹿……」


だから、あんなにも呆気なく綱で降りる役を譲ってくれたの?……僕を逃がすために。


そう考えたら、やっぱり悔しかった。






――――――――…


リース君が崖下半ばのところで安定したところを確認すれば、ほっと安堵の息をもらした。


彼なら、きっと、レッド・サローを見つけてくれるだろう。


そして、ゆっくりと背後を振り返る。黒いローブを羽織った何人かの女性達が、近寄ってきていた。その中心にいた一人が、あのおばあさんの家で(セイレンさんの能力により)気絶していた呪い師だと気づけば、背筋に自然と汗が流れ落ちた。
呪い師がニヤリと笑うと、懐から刀を取り出している。
私は、胸元の音玉を握り締めると、上下に振った。





『――何のご用でしょう?』



動揺が声に現れないように願いながら、言葉を紡いだ。



金ヅル。奪った。
海軍。海賊。


そんな単語を唇から読み取れば、大方の予想はついた。
彼女達は、住民の病や怪我を呪いによって治すことによって収入を得ていたのだろう。もしかしたら、あの住民に成り済ましていた海賊達の仲間でもあったのかもしれない。
けれど、今回の大量捕縛によって、いずれは医療の規制も解かれるはずだ。……その逆恨み、だろうか。


次々と出されるあちらの武器に、身体が震えるが、私は闘うすべを持っていなかった。ペンギンさんから貰った剣も海賊達に捕まった際に落としてしまったし、ここに来る前にあの路地裏を通ってみたけれど、血溜まりの染みがあるだけで、剣は見つからなかったのだ。


女達が、少しずつ近寄ってくるのに合わせて一歩ずつ下がった。


『………っ』


元々崖間際にいたため、下がるにしても限界だった。


真ん中の彼女が大きく刀を振り上げるのが見える。私は、しゃがみ込むと目を強くつむった。





その時だった。
刀が振り下ろされる風圧を遮るように、流れが変わる。



『――――え?』



恐る恐る顔を上げれば、イルカさんが彼女の刀を自身の武器で受け止めているところだった。


突然の登場に驚いているのは私だけではなかったらしい。目の前の彼女達も、驚きからか口をあんぐりと開けている。


イルカさんは、少しだけ私を振り返ると、だ、い、じょ、う、ぶ、か。と聞いてくれた。




『――はい。』


それから、イルカさんは指先で崖下を指し示したため、敵を気にしながらも覗きこめば……そこには無事に下に辿り着いているリース君とアザラシさんがいた。
アザラシさんは相変わらず無表情だけれど、リース君はどこか拗ねたような顔をしている。


確かに音玉は鳴らしたけれども、到着があまりにも早過ぎる…というよりもタイミングが良すぎるような気がした。恐らくは、ローさんと私の会話をアザラシさんも能力で聞いていたのだろう。もしかしたら崖下まで先回りをしていたのかもしれない。


『イルカさ…………え。』


崖下からイルカさんの方に向き直れば、呪い師の彼女達……全員が既に地に臥している。
私が、崖を覗き見ていたのはほんの数秒のはずだ。

その間に彼は彼女達を倒してしまったのだろうか。


『……………。』


恐る恐る、彼女達に近寄って身体を確認すれば、女ということを考慮したのかパッと見、目立った外傷はなく、ただ気絶しているだけのようだった。






「本人は動きたくて仕方がない。」







どこか、すっきりとしているイルカさんを見れば、少し前にアザラシさんがボヤいていた言葉がよぎる。そして。







「崖を降りた先に――あった。」






魔女の森に関する、イルカさんの報告だった。


私が、丁度それを思い出していた時だった。ガッシリと腰を捕まれ、まるで酒樽を運ぶように担がれてしまえば、そんな思考もぶっとんだ。


『あ、あの…イルカさん!?』


ゆっくりと歩き出すイルカさんにそう声をかけざるをえない。なぜなら、明らかにその進路は森に引き返すわけではなく、崖間際に向かっているからだ。


『え…まさか、降りるって……ここから飛び降りる…なんて言わないです…よね……?』


私が、震える声をどうにか押し隠しながら尋ねれば、イルカさんは少し顔をずらして私と視線を合わせてくれる。
ニッコリと邪気の無い笑顔を見せられれば、さすがにそれはないかー…という安心感が私の心を満たした。


けれど。




舌、か、む、な、よ




『……………え。』




一瞬だった。
止める間もなかった。



『え、うそうそ、ちょ、待って、待って待って待って――――――――――っ!!』



思わず目をつむった。
ジェットコースターで味わうような、ヒヤリとしたあの独特の浮遊感に声が出ない。
縋るものが無かったため、身体全身に力をいれて、いち早く地面に辿り着くよう、ただそれだけを祈った。
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